何故「賀川豊彦献身100年記念」なのか 雨宮栄一

 賀川豊彦記念松沢資料館ニュースが届いた。雨宮栄一中部学院大学名誉教授が「何故『賀川豊彦献身100年記念』なのか」と題して巻頭言を書いている。以下その内容を転載します。

                                                                                                                                              • -

 いよいよ2009年は「賀川豊彦献身100年記念事業」の年である。多彩な事業が展開される。東京と神戸に分けてなされるが、差し当たり2月28日(土)午後4時半からのオープニングの「記念礼拝」、18時半から青学会館で開催される「記念祝賀会」を始めとして、「講演会・シンポジウム」が4月29日、午後2時から明治学院大学白金校舎で行われる。その他、多くの記念事業が開かれることは、読者にとって周知のことであろう。詳しくは『2009年賀川豊彦献身100年記念事業概要』を見て頂ければ、神戸の事業と共に明らかである。
 ところで我々は、この事業を展開するに当たり、何故いま、「賀川豊彦献身00年記念」なのかを、相互に確認しておく必要がある。このことを記念する意義と意味は何処にあるのかという事である。その事の確認なしに記念事業は為されてはならない。
 賀川はちょうど100年前、明治42年12月24日、神戸スラムに居を移した。その日の午後2時頃であったらしい。伝えられているところによると、賀川は木綿縞の筒袖を着て、自ら荷車を引き、その上に布団包み1個、衣類と書物の行李2個、竹製の本タナ1個を乗せ、学友の伊藤悌二の助けを借りてスラムに入ったらしい。家は南向き、5畳敷きの広さ、表が3畳、奥に2畳敷くことが出来るが、畳はなく、汚れた床板が露出していた家であり、前年殺人があり、幽霊が出るという噂の家であった。若い賀川は1日70銭の家賃を月2円に負けてもらって、そこに入居した。そのようにして、スラムに於ける彼の活動は始められたのである。
 歴史的にかえり見れば、そこより賀川の生涯の活動が開始されたと言い得る。彼は地域住民の救霊を目指して伝道活動をした。然し彼は、住民の生活を考え、救霊と共に救貧の必要さを痛感しなければならなかった。当然であろう。賀川は地域の只中で、救貧の為に尽くす。けれども彼は更に、いわゆる救貧事業の限界を見たのである。救貧に代えて防貧でなければならないと実感した。その方法を模索した。様々な試行錯誤をした。そしてそこより労働運動、農民運動、生活協同組合運動へと、彼の働きは展開したのである。大衆伝動を行いながらであることは言うまでもない。同時に世界平和への道を生涯探究しながらでもあった。注目する必要のあることは、賀川の場合、それらの働きは内面的に分離されず、統一されていた事である。
 したがって今日省みると、ちょうど100年前の賀川のスラム入りに、彼の生涯の活動の原点があることは否定できない。そのことの確認が、先ず第一に今日の我々に求められている。けれどもその事の確認は、単なる歴史的な判断ではない。問題は我々である。スラムに入ったことは、賀川豊彦にとって生涯の原点であったが、今日大切なことは、21世紀の初頭に生きる我々にとって、この賀川の原点は何を意味するこかという事である。
 結論を簡単に記す。単純であるという批判を承知の上である。事柄は明解に示す必要があるからである。今日「賀川豊彦献身100年記念事業」を行おうとしている我々に求められているものは、100年前の賀川と形は異にしても、我々なりの「献身」の志を確認する必要があるという事である。我々はその働きの場を異にしている。世代も異にしている。献身と言っても、形態は一つではなく様々であろう。筆者のように老齢の人間で、明日何があってもおかしくない者もいる。けれどもそのような人間にとっても、献身は無関係ではない。今日賀川の働きと志の継承を願っている人間にとって、各々その場にあって献身の志を再確認しよう。それだけである。その事を各々が為しながら、この「賀川豊彦献身100年事業」を迎えようではないか。

 雨宮栄一氏が著した賀川豊彦伝3部作
『青春の賀川豊彦』(新教出版社、2003年10月)
『貧しい人々と賀川豊彦』(新教出版社、2005年5月)
『暗い谷間の賀川豊彦』(新教出版社、2006年5月)