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Think Kagawa 賀川豊彦を考える RSSフィード

2009-02-10

野坂参三が見たスラムの賀川豊彦

 1914年、後に共産党員になる野坂参三神戸の葺合新川賀川豊彦を訪ねる。野坂は賀川より4つ若いから22歳の時である。慶應義塾在学中と思われる。野坂は後に書く自伝『風説のあゆみ』の中でその時の驚きを書いている。以下『風説の<あゆみ』の記述である。
「賀川は、そのころ、神戸葺合の新川に住んでいた。彼はそこで、キリスト教の伝道をしながら、単身、困窮者の救済にあたっていた。・・・当時神戸で、新川といえば、市内最大の細民街を意味するように、いつのまにかなっていたのである。一年中乾くまもない低湿地帯だったこの辺は、すこしの雨でも、たちまちあたり一面水浸しになった。そうした不衛生な自然の環境に、畳が一戸あたり二畳から四畳ぐらいしかない棟割長屋が庇(ひさし)と庇をくっつけて幾十と並んで、その戸数は約2000戸(明治末)あったという。だから、狭い家には、一日中、陽があたらず、つねに暗く、2メートルもない狭い路地には、浅い溝から汚水があふれ出て、ところどころ水溜りをつくっていた。
 そこには、何らかの労働災害で不具になり、働き場所から放り出された人たちや、失業者寡婦、事業に失敗した人たち、生活能力を失って転落して来た人たち――つまり、資本の残酷な原始的蓄積過程で、その犠牲になった人たちが、さまざまな差別をうけ、何の保護もあたえられずに住みついていた。彼らは、にわか仕込みの技術で、たとえば、履物直し、皮革職人、手伝い、掃除夫、葬式人夫などをやって飢えない程度に糊口をしのいでいた。マッチ工場の職工や沖仲士のように、職のある者はいい方である。大半は、その日その日をようやくしのぐ生活であった。明治末年で約8500人ほど住んでいたといわれる。その後、新川の住人は、日増しにふえていったようだ。」
「若いクリスチャンであった賀川は、1909年からこのスラム街に飛び込み、棟割長屋の一軒を借りて、彼らと同じような生活を送り、そのめんどうをみ、行路病者を助け、彼等のよき相談相手となっていたのである。賀川は、不意に訪ねたわたしを喜んで迎えてくれた。」
「・・・彼は、さっそく、わたしを街のなかに案内してくれた。アメリカ留学が決まり、近いうちに渡米の船に乗るので、その始末やらその準備でいそがしい、と、人なつこい近眼の目をしょぼしょぼさせながら笑った。街の奥にはいると、半裸ではだしの子どもたちが、わたしたちのあとをついて来たが、むき出しの腹はふくれ、頭は吹き出物がジクジクしており、目やにをつけたのが多かった。賀川はその子どもたちに何か話しかけ、頭をなでてやると、汚れた顔が邪気に笑った。賀川は、ここの住民のほとんどが眼病(トラホーム)を病んでおり、わたし自身しょぼしょぼさせるのも感染して困っているといった。事実、わたしは、彼の眼病の奥の目の縁が赤くなっており、しょぼしょぼさせるのも、眼病のせいだとわかった。
こんな環境のなかにはいれば、こんな病気になるのも必定だと知りながら、勇敢に飛びこんでいったヒューマニスト賀川の真剣さに、私は頭が下がる思いがした。庇がくっつきあって、トンネルのような暗い路地に、幽鬼のような老婆や、痩せ衰えた老人が出て来て、賀川にあいさつしたが、彼はすでに、この住民の信頼をえているようであった。」
「ひとまわりして彼の家にもどり、わたしたちは、かなりの時間話し合った。わたしは、彼の勇気と献身に、素直に敬意を表すると、彼は、私はキリスト教者だから、これは当然やるべきことなのだといい、ここから出ることのできない悲惨な住民の生活と、政府や県の対策の貧困さを語った。・・・新川の周辺には、マッチ工場がかなりある、ここの子どもたちもやはりマッチ工場へ働きに行くのか、とたずねた。賀川は六ツ七ツだけでなく、五ツぐらいからはたきに出ている子どもがおり、ここでは、就学年齢に達した子ども100人のうち、まがりなりにも学校へかよえるのは、わずか数人にすぎない、といった。そして、新川の人口は日に日にふえ、長屋にはいれない人たちは、周辺の木賃宿に住んでいる。そこにもはいれず、行場のない病人の何人かは、わたしの家に引き取って世話をしていると、語った。
 わたしは、彼の行為に敬意を表しつつも、しかし、個人の力には限界がある、何か抜本的な考えかたをもっているか、と聞くと、彼は、まったくそのとおりだ、働けるものには定職をあたえ、病人には治療をうけさせ、子どもたちには学校へかよわせるようにしてやりたいのだが、政府や県庁はまったくあてにできないで困っている。いまは、自分の力がすこしでも強くなることを祈っているが、君には何かいい考えがあるか、と反問してきた。」
「わたしは、新川の人口がふえているということは、労働者がたえず転落してきているということだ、まずそれを防がなくてはならぬ、そのためには、まず労働者が、ほんらいもっている力を自覚し、資本家と対等の立場をきずき、みずからを守るために団結するのが先決問題ではないだろうか。わたしは、友愛会という労働者の組織に入っている。友愛会は、まだ労働組合ではないが、労働者が力を発揮するには、ほんとうの労働組合にしなければならない、というようなことを、考え考え語ったのを覚えている。彼は、年少のわたしの言葉を、黙ってうなずいて聞いていた」