世界の賀川(6) 1935年のアメリカ

 1935年の訪米は賀川にとって4回目のアメリカだった。1929年のニューヨーク株式市場の大暴落を引き金とした大恐慌が吹き荒れて、まだ収拾していない時期だった。一方で1917年のロシア革命が世界に広がり、資本主義の対抗軸として社会主義が台頭していた。
 マルクスが預言した通り「資本主義が崩壊するのではないか」という不安が広がっていた。スターリンによる大粛正がありながらも、ソ連の計画経済はそれなりに成功していた。そんな中で株の暴落を引き金に資本主義社会が貧しくなっていく。日本はそのまま戦争への道を走り出すという表現が使われるが、まさしく経済的苦境から逃れられない。
 その時に、世界の多くの人々が協同組合的経営に着目していた。フレッチャー・ジョーンズのところで触れたが、すでに賀川は資本主義でもない、社会主義でもない経営の試みを始めていた。賀川の1935年の訪米は協同組合の第一人者としてアメリカでの講演を請われた旅でもだった。
 その時の有名なエピソードが残っている。貧民窟にいた時からトラホームを患っていて、シアトルの港に着いた時に、検疫官が上陸を拒否した。賀川の上陸を待つようにスケジュールはどんどん入っていた。賀川の同行者がホワイトハウスに電報を打つと、ルーズベルト大統領自らが上陸許可を出した。握手をするなとか、看護婦をつけろだとか、いくつかの難しい条件をつけられたが、大統領の命令で上陸が可能となった。
 この訪米で賀川は6カ月にわたり全米48州(当時アラスカとハワイはまだ州に昇格していなかったから当時としては全州)、148都市を巡った。講演回数は500回以上。日に平均3回、多い日は11回講演した。朝食会から始まり、次々と「賀川に来てほしい」という要請が入ったから、少しでも時間があると、彼は「OK」を出した。結果として70万人が、賀川の声を聞いたとされている。毎日休みなく3000人に接したということで、いかに賀川の人気が高かったかを示しているといえよう。