プラティープさんの『体験するアジア』−1日1バーツ学校

 プラティープさんは16歳のとき、クロントイ・スラムで「1日1バーツ学校」を始めた。「住んでいた家の庭先を使って私塾を開くことにしました。先生にあこがれていたこともあったのですが、自分の生活を支えるためでもありました。いや、それよりも、私たちの周辺にはあまりにも学校にいけない子どもたちが多かったのです。だから、自分が学校で得た少しの知識でも、回りの子どもたちに分け与えてあげようと思ったのです。学校というほどりっぱなものではありませんでしたが、小さな子から私ぐらいの年齢まで、生徒の数は日増しに増えていったのです」
 クロントイはトタン葺きの粗末な家々が並ぶ地域で、大戦後の経済成長にともなって農村からの人々が集まって住みついた場所だ。この学校は10年後には公立化が認められて「パタナー共同小学校」へと発展するが、貧乏、病気、無知の三つがタイの貧困の悪循環を生んでいた。
「家が貧しく、小さい時から働かなければならず、学校にも行けない。そうすると文字の読み書きもできず、社会が見えないばかりか自分さえも見えなくなってしまう。教育がなければ、まともな仕事にもありつけず、非熟練労働者としてなんの保証もない生活をしなければならなくなって、貧乏になってしまいます。ついには自分の生活や置かれている状況に耐えきれなくなって、酒浸りになってアルコール中毒になったり、麻薬に手を出したり、売春婦になってしまったり、博打で大きな借金を抱えてしまったり、あるいは事故に巻き込まれたりして、病気やけがで死んでいきます。親から子どもたちへ、そして子どもたちから孫へと、それをくり返していくのです」
 プラティープさんは1978年、ラモン・マグサイサイ賞を受賞し、賞金として2万ドル、日本円にして500万円を手にした。彼女はそのお金でドゥアン・プラティープ財団を設立し、教育、保健、衛生、社会サービス、人材開発などの事業を次々と展開し始める。本格的な社会事業のスタートだった。1日1バーツ学校は公立になったため、教育ではまず幼児教育に力を入れ始めた。スラムの人たちの協力を得て、スラムに15カ所の幼稚園をつくった。やがて学校に行けない子どもたちのために奨学金制度も始めた。現在では幼稚園児から大学生にいたるまで2500人に支給されている。
 健康問題ではエイズに取り組む。麻薬や売春を通じてタイでは約80万人の感染者がいるといわれる(90年代後半)。住民のためのエイズ教育と感染者に対するカウンセリングが不可欠だった。麻薬問題では警察が売買に関与していたこともあり、脅迫や嫌がらせは日常茶飯事だったが、プラティープさんはそうした恐怖も乗り越えて社会運動に突き進んだ。プラティープさんはこう書いている。
「最初スラムができはじめたときは、ほんの数百人のコミュニティーでした。それが今、スラムの住民は数千人、数万人と増え続け、バンコクだけでも150万人とも言われるようになってしまいました。だからその分だけ、貧困問題を解決するためのパワーも必要なのだと思います。公的生活保障の及ばない農民や、行政による保護や規制も受けず、統計にも現れない、いわゆるインフォーマル・セクターと呼ばれる都市部の日雇い労働者たちは、貧しい生活強いられ、病気やけがで苦しみ、高利貸に手を染めて一家離散の状況に追い詰められています。こうした悪循環の諸悪から、人々を解き放たなければならないのです」
 1994年、プラティープさんはついに貧困者向け金融に取り組むことになった。貯蓄信用組合であり、バングラデシュで成功したムハマド・ユヌス氏のグラミン銀行を参考にした。高利貸からの解放は貧困からの脱出にとってかなり大きなウエイトを占めている。このことは古今東西共通の課題である。
 プラティープさんの信用組合は1口10バーツの貯蓄を奨励し、6カ月以上続ければ、貯蓄額の10倍まで融資するという方式である。約1年で1500人の会員を集め、貯蓄額は約250万バーツ(約1000万円)に達した。