神戸、水軍、そして白洲次郎

 余談である。コープこうべ顧問の西義人さんの案内で神戸市内をドライブしていたとき、西さんがぽつりと言った。
「三田の九鬼一族が明治の初期にここらの土地を買い占めたんですよ」
 志摩半島にあった九鬼一族が徳川の時代になって三田と綾部に転封された。九鬼の水軍力を恐れた徳川が海のない土地に海賊たちを押し込めたのだ。三田に移った九鬼一族は大きな池を掘って、海戦の訓練を続けたというから海への思いがずっとあった。
 数年前まで三重県にいて熊野水軍の歴史に興味をもっていたから、「なるほど」と合点がいった。神戸の町の発展に熊野水軍の遺伝子が色濃く残っているはずなのだ。たまたまネットをみていて、白洲次郎の墓が三田市にあることを知り、白洲次郎から父親の白州文平、祖父の白州退蔵とたどっていくと、白州家は九鬼藩の儒家であったことも分かってきた。その白州退蔵と小寺泰次郎が、幕末の藩政改革に成功しその余勢を駆って神戸に進出したという歴史も明らかになった。そうか、白州次郎には熊野水軍の血が流れていたのだ。
 九鬼家に仕えた小寺泰次郎と白洲退蔵は明治になって、藩主とともに海への回帰事業を始めた。志摩三商会という商社を神戸に設立して、貿易業を営むとともに神戸の土地買い占めに走った。買い占めといえばあまりいい表現ではないが、神戸の発展を見越した才覚は並大抵でない。「ピュリタン開拓赤心社の百年」のサイトに次のように書かれている。
 http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sekisinsya_2/1_1_4_yosidawanman.html
 明治四年、三田藩知事を免じられた九鬼隆義と共に、神戸へ。
 地方代官だった小寺泰次郎は白洲に負けない利に敏い男。廃藩までの短い期間に藩の負債はゼロにし、溜池の修築や新田開発をやった。九鬼、白洲、小寺の主従トリオが活動の場を求めた神戸は、慶応三年暮れに兵庫開港と共に外国人の居留地が設定され、翌明治元年神戸町と改称したばかり。開港以来、五年間は運上所と呼ばれた税関もあったが、まだひなびた漁村。明治五年になって、ようやく地所永代売買が解禁される。地租改正で地価が決まり、士族が土地を買えることになるや、開港場の兵庫村方面の土地に目をつけたのがこのトリオだった。
 土地の先行投資は三人が中心となった志摩三商会がやった。明治十二年に神戸町は兵庫村と阪本村を合併して神戸区になる。神戸の海岸から三宮町にかけての外人租界には、外国商人の洋館が立ち並びNHKのドラマ、「風見鶏」の舞台になる。
 そういえば賀川豊彦の父親、賀川純一は神戸で回船業を営んでいた。阿波水軍の血を引いていたのかもしれない。