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Think Kagawa 賀川豊彦を考える RSSフィード

2010-04-04

(1)−はじめに

 賀川豊彦のことを書いてきました。一向に完成しません。自分を励ます意味でこれまで書いてきたことをブログにアップすることにしました。足らない部分ばかりですが、その部分を埋めていきながら「Think Kagawa」を完成に近づけたいと思います。たぶん50回ぐらい続きます。ぜひ応援してください。
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 はじめに
 新聞記者を30年もやってきていろいろな思いがあります。過去の歴史が正しく伝えられていないという思いが一番強いのです。一度書かれた歴史が書き改められるチャンスはなかなかないものです。今年はNHK大河ドラマ龍馬伝」が人気ですが、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書かなければ坂本龍馬はそのまま歴史に埋没していたかもしれません。
 これから書こうと思う人物は賀川豊彦です。明治、大正、昭和と日本がまだ貧しかった時代、社会福祉などという概念すらなかった時代に神戸のスラムに入り貧しい人々のために尽くしたクリスチャンでした。
 ガンジーインド救済に身を捧げ、命を賭したことをわれわれは忘れてはいません。シュバイツァーがアフリカの民のために身を粉にした物語も教えられてきました。日本が宝とする賀川豊彦の残した物語も語り継がれなければならない。そんな切迫した想いがずっと心の中で私に訴え続けています。どこかで始めなければいけない。賀川豊彦の孫の賀川督明さんとの出会いが私を急がせました。
 来年2009年はちょうど、賀川献身100年にあたります。つまり自ら肺結核に悩みながら神戸のスラムに入って救済活動を始めたのが1909年ということです。
 賀川豊彦と出会ったのは2001年12月のことでした。東京元赤坂にある財団法人国際平和協会の事務所を訪れました。何とはなしに、戸棚にあった機関誌世界国家」を読み始めたことがきっかけでした。
 終戦の8月、賀川豊彦は東久邇稔彦首相官邸に呼ばれて、参与になることを求められます。戦争で傷ついた日本を再生するためにグランドデザインを描いて欲しいと要請されたのです。賀川は直ちにそれまで協力を仰いでいた有力者たちに声をかけ財団法人国際平和協会を立ち上げました。そのメンバーのなんと華麗なことにびっくりしました。
 国際平和協会は「戦後の日本が国際復帰を図り、世界の恒久平和樹立への貢献」を目的に東久邇殿下が5万円の基本金を出資して生まれ、1946年4月13日に財団法人として正式に認可されました。創立時のメンバーは賀川豊彦理事長のもとに、鈴木文治常務理事、理事として有馬頼寧、徳川義親、岡部長景、田中耕太郎、関屋貞三郎、姉崎正浩、堀内謙介、安藤正純、荒川昌二、三井高雄河上丈太郎が連なっています。
 鈴木文治は日本の労働組合をつくった人です。有馬頼寧九州久留米藩の当主として貴族院議員、農相を務めました。徳川義親は尾張徳川家の当主、函館の北方に八雲牧場を開設し、北海道開拓史に名を残しています。田中耕太郎は著名な法学者。関屋貞三郎は宮内庁長官として長く昭和天皇に仕えています。堀内謙介は外務省事務次官、駐米大使も務めています。三井高雄は三井家の当主の一人で、帰国子女のために、啓明学園学校を創設しました。河上丈太郎は元社会党委員長衆院議員です。
 これから、会ったこともない人のことを描こうと思っています。どう描いていいかずっと戸惑っていました。何しろガンジー、シュバイツアーと並び称された人物です。
 ある出版社の社長さんにいわれた言葉があります。
「誰かに手紙を書く要領で書き始めればいい。読者は一人でもいいんだよ。手紙だって立派な文学になる」。
 そうか、手紙を書けばいいのだ。そう思うといくぶんか気が楽になりました。
 さて賀川豊彦という人物です。名前と著書『死線を越えて』だけは知っていましたが、読んだこともありませんでした。それがひょんなことから私の心の中に入ってきました。入ってきたどころか、しばらくすると私の心のかなりの部分を占領するようになっていました。
 賀川豊彦という人物を私という第一人称で書こうと思います。会ったこともない賀川豊彦がどうやって私の心を占領していったのか。その都度、私は多くの人に賀川のことを話しました。多くの人は私と同様、賀川豊彦を知りませんでした。私の話を通じて一緒に感動してくれた人も少なくありません。そうか私が賀川を知らなかっただけではないのだ。みんなも知らなかったのだ。そして私の話を通じてその偉さを共有してくれている。そう知った時、私はますますこの人のことを描かなければならないという思いを強くし始めていたのです。
 これまで賀川豊彦のことを書けなかったのは、賀川があまりにも多くの運動や事業を展開してきたからです。毒舌の評論家として一時代を築いた大宅壮一は賀川について「我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない」と書いています。
 社会運動家としての活動は神戸新川のスラムから始まりました。貧困と病の中で人々に溶け込み、着の身着のままで粥をすすって人々に献身した姿はキリストの再来とまで言われました。もちろんキリスト教牧師としてのエバンジェリスト(伝道者)でもありました。1920年代の100万人の信者獲得を目指した神の国運動で全国を行脚しました。5人でも10人でもいい、話を聞きたい人がいれば、賀川はどこでも喜んで出かけました。伝道は北米ヨーロッパ中国アジア南米豪州にも及び、人種や民族を超えて迎えられました。戦後になっても新神の国運動を興し、戦争で病んだ人々の心を癒すことに努めました。賀川の努力によって多くの日本人が受洗しましたが、教会のフォローがなくそのままになってしまった“信者”も少なくありません。
 賀川の運動はすべて、貧困からの脱却のためのものでしたから、イデオロギー論争には強くありませんでした。労働運動では神戸で大正期最大のストライクを指揮し、農民組合を立ち上げて小作人が地主のくびきから逃れる救世主役を果たしました。しかし、これらの運動は華々しく始まっても急進的なイデオロギーのために立ち往生することが少なくなく、運動はたびたび反賀川勢力によって窮地に陥りました。賀川のエネルギーが多方面に分散した影響は否めません。中途半端という批判です。
 賀川について特徴的なのは、彼の運動事業はほとんどが自らの著述や講演からの収入によって賄われていたということです。セツルメントの建設費や運営費はもちろん事業の赤字補填から労働運動で職を失った人々の生活まで面倒をみていたといいます。ただ小説『死線を越えて』の単行本で得たといわれる10万円(現在の価値で約10億円)以外、賀川が生涯手にした収入の全貌はほとんど把握されていません。
 雑誌「家の光」に連載していた小説『乳と蜜の流るゝ郷』が改造社から単行本になることが決まり「これで楽になる」と日記に書き記しているように、“賀川コンツェルン”はいつも自転車操業でした。『賀川ハル史料集』(緑陰書房)には賀川が次から次へと資金協力を約束して妻ハルを困らせたことを示す書簡も残っています。
 賀川豊彦は生涯200冊以上の本を書きました。没後には賀川豊彦全集全24巻が編集されました。この全集はよくある日記や書簡の類は一切含まれていません。すべて公刊された書物の集大成です。日記や書簡などを含めればたぶん50巻を超えるのではなかと考えています。私は2004年に念願の全集を入手しました。賀川研究の手始めと考えましたが、手にしたとたんに絶望的になりました。これを読破するには優に2年はかかる。重い宿題を負わされ、とんでもない人に魅了されてしまった。そんな思いにかられた時期がありました。
 2008年1月から賀川豊彦献身100年記念事業の準備が本格的に始まりました。私が関わっている財団法人国際平和協会も全国委員会実行委員会として参画することになり、新聞記者であることから広報委員長に任命されました。
 賀川豊彦に対する関心が高まった時、書店の本棚に賀川の本が一冊もないのは困ることでした。インターネットで検索して賀川の事業がほとんど紹介されていないこともこれまた大きな課題でした。献身100年のオフィシャルページの製作・更新が始まり、個人のブログとして「Think Kagawa」を立ち上げました。広報委員になったおかげで、賀川関連団体の多くに人々と出会うチャンスに恵まれ、賀川の全体像が少しずつ見えるようになったのはありがたいことでした。
 献身100年記念事業を通じて知り合ったコープこうべ元役員の西義人さんらからは生活協同組合の何たるかを多く学びました。また公共哲学を提唱し、「友愛社会」や「友愛政治」の研究者である千葉大学小林正弥教授には「友愛」の長い歴史を教えられました。リズム時計の元役員の野沢和敏さんから賀川が考えていた農村工業について知らされました。海外での賀川について米沢和一郎氏が大変な研究成果から学ぶところは多くありました。生協OBの平山昇氏のブログダルマ舎平山昇」では賀川を語るなら「ディケンズから読め」というような示唆があり、コーポラティブがイギリスで誕生する19世紀の社会背景を知ることもできました。
 賀川が大切にした「友愛」という概念は、鳩山由紀夫氏が民主党代表となり、民主党政権を獲得することによって、ようやく人々の人口に膾炙されるようになったのです。
 賀川豊彦の孫でグラフィックデザイナーの賀川督明さんは「豊彦は実に多くの事業を立ち上げたのだが、事業が継続して運営されたのは多くのコーワーカーたちがいたからなのだ」と「賀川の仲間たち」を強調しています。市井の人もいれば、著名な政治家経済人もいました。督明さんは献身100年記念事業の中核的メンバーの一人でした。生業として現在、ミツカンの広報紙「水の文化」の編集をしています。若いころは偉大な祖父の存在に押しつぶされそうになりますが、今では神戸に住みつき祖父の思想や事業に思いをはせています。朴訥とした語り口なのですが、講演やあいさつで時々、ハッとさせられるフレーズを発します。「コーワーカー」の存在もそうでありますが、「痛みに寄り添う」という表現は賀川豊彦を表現するのにぴったりだと思っています。
 賀川の伝記は数多く書かれていますが、賀川イズムの全体像に迫ったものはありません。私自身、全体像に迫ろうという気持ちはありません。群盲象をなでるだけでいい、自分がなでた部分だけでも書きたいし、伝えたい。そんな思いなのです。

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