眼が見えなくても不自由ではない

『御不自由でせうね!』
『何がですか?』
『眼がお見えにならぬことは』
『はア、人間に翼の無いととも不自由ですね――然し、翼が無くとも飛行機を発明すれば、翼があるのと同じでせう。眼の場合だってさうです。外側の眼が見えなくなれば、内側の眼を発明するまでのことです』
 私の神は光そのものです。外側のものは一切暗闇に属してゐても、私の心の内側にいつも灯る神のみ光のある間、私は少しも失望しません。
 灯れよ、内側の燈よ灯れ、尽きせざる油壺の燈よ灯れ、私の神はいつまでも、その小さい燈を私のために保護してゐて下さいます。神は私にとっては光そのものです。私は闇に坐る日の永いことそ少しも悲しみません。
(1926.11.29 武庫川のほとりにて=賀川豊彦『暗中隻語』から)

 賀川豊彦の発想のすごいところである。普通の人間が考える五体の不満足を不満としないのである。『宇宙の目的』には、人間は網膜で物を見ているのではなく、脳髄の中で物を見ていることを書いてある。確かにそうなのだ。そのうち、人間は飛行機を発明したように、眼球がなくとも物が見える機械を作り出すのだろうと思っている。網膜の代わりの光センサーをたくさん詰め込んだ眼鏡をかけると、光センサーから発した信号が脳髄を刺激して物が見えるようになるはずだ。