海豹の如く2

  瀬戸の春

『鯛はとれますか?』
 背の高い黄ばんだ顔をした面長の井上技師は、唇の間に、啣(くは)へてゐたシガレットを、海の中に抛り込みながら、発動機船のデッキに立って、村上勇にさう尋ねた。勇は、尾道港まで今夜の水産振興講演会に、県から派遣された井上技師を迎へようと自家所有の七噸級の発動機船を仕立てて行ったが、今その帰り途であった。
『どうも駄目ですなア、年々漁れなくなるやうですなア、折角政府でもいろいろ考へて下さって、国立の水産試験所まで作って頂いてゐても、一般の漁民が覚醒してゐませんからね、こんなにしてゐちやあ、鯛の種が絶えてしまやしないかと心配する位です』
 船は、大三島大崎上島の間を南に流れる早い退潮にのってゐた。木ノ江の港が右手に美しく見え、左手には日本歴史に有名な倭冦で名高い大三島神社の森が黒ずんで見えてゐた。空はどんより曇って、今にも雨が落ちて来る模様だった。
『今夜の講演会には、愛媛県の島々からも大勢来るという噂でしたが、雨になると、ちょっと聴衆の数が減るでせうなア、少し時も悪うございましてね、昨日あたりから備後灘で鯛が漁れ出したものですから、大分御手洗からも出掛けたものもあります。さあ、この模様ぢやあ、今夜もまたちょっとしけるかな』
 間もなく船は、海峡を出て、伊予に面した安芸灘に出たが、こゝは思ったより風が激しく吹いてゐた。
『やあ、今夜は暴風雨(しけ)だな』
 その土地の気象に明るい村上勇は、独言のやうにさういひながら、表に廻って船の舵をとってゐた中年の男に、船のつけ方を注意した。御手洗の港は、大きな築港もなければ、また、天然の風除けもなかった。そこには白い御影石を高く積上げて、波浪で岸を洗はれないやうに、護岸工事を施してあった。沖には、九州から阪神地方に石炭を輸送する帆前船が七、八艘かゝってゐた。その中のあるものは手廻しよく暴風雨の模様を見越して、海峡の方に逃げようと錨を上げてゐるものもあった。退潮であったものだから、浜に刻んだ階段が特に目立って数多く見えた。波が高いので、石崖に発動機船をつけることは頗る困難であった。それで漸く迎へに来てくれてゐた青年団の有志達に頼んで。井上技師を伝馬船に乗移ってもらひ、村上勇は、今夜の暴風雨を予想して、船を海峡に面した山蔭に繋がうと、また舳先を返した。船が海峡に入る頃から、雨が本降りになり、風はいよく激しくなった。
『沖に出て行った連中は弱ってるぜ、こりやあ』
 舵をとってゐた男がひとり言のやうにいうた。船長室の硝子窓には、先が見えない程、雨の雫が一杯降りかゝって、美しい波紋を描いてゐた。
『木ノ江からも大勢来るといってゐましたが、これぢやあ駄目ですなア』
 舵をとってゐた卯之助は。顔を真正面(まとも)に向けたまゝ、傍に坐ってゐた勇にさういった。