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2009-08-08

武内勝先生を語る 中村竹次郎 「雲の柱」昭和12年4月号から

「私は若い時、体を八つ裂きにして此の一身をキリストに捧げたいと思った。唯十字架の死を憧憬るるだけでは物足りないので」
 武内先生のかく語らるる言葉を聞いた時、私は慄然として先生の温容を今更の如く見守ったことだった。温容の言葉に相応しい先生のあの顔を。
 読者の誰でも、私が「慄然として」といふ驚愕の形容を使ふことを不思議とせられるかも知れない。私は読者に告げたい。事実、武内先生の温顔を知ってゐる者は、此の形容の真に妥当なることに賛成して呉れるに違いない。
 それ程武内先生の顔面は春風駘蕩である。それ程此の如き決意の表白が人に与へる印象は、先生の持つ温容さと或る峻烈な対象を為すのである。
 未だに矍鑠として御健在で、神戸市役所社会課の一吏員として救貧の業に勉励せられる武内先生を、日本基督教徒として持つことは我等の誇りである。
 武内勝先生の名は、私が想像する以上に日本の朝野に広く往き亘ってゐるかも知れない。近い所では、二月の中旬の神の国新聞に先生の簡単なアウトラインが出ていた。或いは基督教家庭新聞に、或いは諸種の小雑誌に先生は直接間接に我々に紹介されてゐられる。然し、卓抜なる才幹に恵まれてゐられない先生の名前は「輝きを放つ」にあらずして、所謂「地味浸潤」の類である。
 さりながら、天国に若し人間の真価を記載するノートの如きが備わってゐるなら、私は敢て考える。先生の如きは特筆大書さるべき位置の与えへれる人である。そして天賦の器とそれに準じて信仰を以て活き抜く比率を正確に計る機械が天国に備ってゐるなら、実に我が武内勝先生の計算表は殆ど百点に近いでだろう。或は満点を越すかも知れない。
 父なる御神の綻びてゆく笑顔を、私は眼のあたりに眺める気がしてならない。
 それ程、武内先生は逆境征服した健闘の人である。そして凡ての悲運を信仰を似て制御した勇者の例に洩れず、先生も血と涙の人である。涙の人である。
 先生は嘗て詠われた。

 “貧しき人の、友となります。
  死ぬ迄も、幼き子供に、御恵みを、与えてください。
  一枚の衣でも、悪い環境に育つ子に、天の恵みを祈ります。“

 此の小さい詩は数年前、先生の示された小さい紙片に記されてゐるのを一寸拝見しただけなので、或いは私の記憶に間違ひがあるかも知れない。
 私は此の詩を読んで事実泣かされた。今でも瞼の熱くなるのを覚えるが、此の余り上手とは見へない詩の一節に、先生の活ける四十四年間の貴い精神の結晶を見た感がしたからである。
 率直に言はう。武内先生は、「死線を越えて」に出て来る竹田なる篤実な青年のモデルである。又「一粒の麦」の主人公嘉吉の後半生のモデルでもある。そして私の信仰上の先生である。
 「体を八つ裂きにして此の身をキリストに捧げたいと思った。」
 昨日も今日も、又明日も天の運行に歩調を合わせて往く如く、業務の余暇を挙げて貧者の友と成って働かれる一見平凡に感ぜられる先生の肺肝かかる熾烈な信仰が潜められてゐる様とは思わなかった。
 私は只慄然として頭垂れ、先生の過去を追想せざるを得ない。
 二宮尊徳翁は幼児から独立の気性が強かったさうであるが、武内先生も赤貧の中から、不屈の魂を以奮闘された。
 十四歳の勝少年は既に人生の嵐を経験しなければならなかった。父用三氏は幾多の鉱山事業で失敗するし、幼い弟妹を抱えて母の面倒を一身に引き受けねばならなかった。勝少年はさぞ悲涙に暮れて、故郷備前の国長船の農村に訪れた冷たい逆風を恨めしく思ったことであろう。
 行き暮れた生計の中で食を採ることを潔しとせられ無かった少年勝は、単身岡山に出る覚悟を決めた。その血潮の中には名工長船の熱塊に等しい負けじ魂が在った。明治四十年五月二十四日のことである。
 寒村を跡にする少年の眼には尽きぬ涙があった。中国山脈の脚下に伸びて広がる八十戸から成る寂しい村の遠い外れに立った少年は、絶命の思ひの中から朧げに我が身を託する天地の霊に呼びかけたであろう。

 「草鞋を履いて私は遠い旅に上ります。母と弟妹に御恵みがあります様に。」

 さらば、故郷よ。
 彼は握り拳で両眼の涙を拭くのであった。草鞋は梅雨の泥土に濡れて行った。
 岡山へ辛うじて着いたが何処の世界も冷たかった。死の誘惑に打ち勝ってその年中、食ふ才覚をしなければならなかった。彼の無類の忍耐性は徐々に高められて行ったが依然糊口に窮しなければならなかった。
 東の風の便りに聞くと、大阪は景気が良いとのことだった。一面不安な気持ちがしたが矢も楯も堪らぬ気が、運を天に任しての旅路を急がせた。
 明治四十一年一月元旦の朝、笠岡発の和船は天保山に着いた。内海の航路の間中、彼は幾度星と波に己の運命を尋ねたことだろう。幾度冷たい蒲団の中から迫り来る死の予感に体を震わせたことだろう。
 来て見れば流石に大阪は大きい街であった。元旦の朝は景気が良かった。波止場の端に降りて大阪の土の臭いを嗅いだ彼は感慨無量だった。勇気を身内に覚えると共に郷愁の涙に誘われて行った。彼は繁華な通に足を入れると共に正月の賑やかさに丸い眼を瞠らせて、宿を探した。
 「それから黍団子屋を始めましてね。日本一と銘打ったのです。一日町を歩いて二升の団子が売れましたよ。六十銭の総売上高で口銭はその半分の三十銭でした。
 その時のことです。今でも忘れられぬ思ひ出話ですが、大阪の九条の花薗橋の上に荷物を肩にして差し掛かったのですが、実際寒くてね、手がちぎれさうでしたよ。すると前から四十格好の伯母さんがやって来るのです。私の顔をジーツと視てゐましたが、何と思ったのか私の傍へつかつかと寄って来ましてね、懐から焼き芋を取り出して私に食べなさいと言ってくれるのです。私はその時言葉が出ませんでした。受け取ってその焼き芋の暖かさで体を温めながら見知らぬ伯母さんの過ぎて往く後姿を合掌して拝みました。ホロホロ涙が出て仕方がありませんでしたよ。その時私は泣きましたよ。」
 武内先生は今でも此の思ひ出話をせられる時泣かれるのである。そして我々も貰い泣きをするのである。
 その中、日本一の少年に売られる日本一の黍団子の販路も少なくなって行った。春四月の初め、九条の宿屋の一室で勝少年は思案をした。

 「そうだ。蚤取粉を売ろう。夏は暑いから蟲も出るぢゃろ。」

 辛苦の中にも、楽天の気性を残してゐた少年は、人々の勧めに従って神戸に行くことにした。
 神戸南京虫が、先生を神戸へ引き付けたと考えると、一抹の諧謔を覚えるではないか。善良なる精神に恵まれた勝少年だが、幸か不幸か、商才に欠けていた。蚤取粉屋から鯛焼屋に、ドラ焼屋に、更にマッチ貼りに、丸い額に思案の苦皺を浮かばせての奮闘生活が始まった。さうした間に故郷から家族を迎えねばならなかった。
 神戸新川貧民窟での丸半ヶ年間の木賃宿生活を引払って勝少年は三町程北の八雲通りの二階を借りることにした。己を加へて母子五人の血の滲む生活が之から始まるのであった。
 働き手は彼独りだ。東亜エナメルへ就職した時一日の日給十二銭を戴いたが、十二銭の銅銭を持って帰る彼の心は重く沈んでゐた。母は腎臓で寝たり起きたりだ。弟は三人あっても皆頑是ない。疲れた四肢を鞭打って夜業に出なければならなかった。
 武内先生は涙ぐんで語られるのである。

 「時世が変わったもんですね、あの頃は膏薬を売りに行くのに袴をわざわざ着けて提灯を持ったものです。鞄の中に膏薬を詰めて小路から小路を廻って、「ハー膏薬」と唸って歩いたものです。その唸り声が中々思ふ様に出来ませんのでね。人の居らないところで小声で稽古したもんですよ。恥しかったから――実際往生しましたよ。通行人から「こら新米」と言って冷やかされたり、「もっとはっきり言え、膏薬なら膏薬と」と怒鳴られたり、いや目も当てられませんでしたよ。」

 五十枚売る為に、少年はどれ程苦労したか。幾度星を見上げて泣いたことか。五十枚売って終ってやっと二十銭の利だった。売れても売れなくとも帰る道すがら、彼は彼自身に課せられた労苦に泣いて行った。
 帰宅すれば三つになる弟が食物をねだる。母の看病はしなければならず、薬代を差引いた僅かの金で食うべき運命にある一家族は、お粥と芋で一日を済ます時が幾度もあった。

 「三つの弟に食べさせるものが何も無い時は、貧乏の辛さを泌々と感じましたよ。近所の中学生の通行姿を見ては電柱の蔭で人知れない涙を流しましたよ。何しろ三百六十五日の間休みの日が一日もありませんでしたのでね。」

 かかる苦労を経た人が現在同じ時世に生きて、熱烈な信仰を以って生活と苦闘して行ってゐられる事実を、若き人々は忘れてはならないのである。寔に活ける証明である。失望に沈み易い弱き魂を叱咤する活ける証明である。武内先生の行路には、如何なる時にも奮闘の二字が流れてゐる。涙の生活の連続の中から立ち上がって生きるだけ生きて往かうとの不断の克己の記録であった。かかる生活の間に在っても些かの歪曲を霊魂に齎さないで、純に眞に純に次の生活を開拓されたことは驚嘆の他はない。
 現在でもさうであるが、先生と対座してゐると、絶望するな、必ず道は拓かれるとの励ましを受ける気がしてならない。恐らくそれは先生自身の苦闘とその勝利の結晶が、先生の心魂に宿ってゐて、弱い魂を無意識の中に鞭打って下さるからであらう。
 勝少年は独立の生活に憧憬れる様になった。或る日の事、工場主の前に出て素直に所志を披瀝した。

 「貝ボタンを自宅でやらうと思ふんです。少しでも生活の為に考えなければなりませんので」

 生活の問題を考えるべく宿命づけられた少年は真情を吐露して今後の方針を主人に話した。
 主人は泣いて引留め様とした。

 「お前に去られることはわしは子供に死に別れる思ひがする」

 主人の涙は止まらなかった。それに引き連れて少年勝も哀別の悲しみに沈んで行った。然し意志の強い此の少年は自ら発見した指針の下に生活を始めるべく工場の門を出た。
 勝少年は独特の計画に従って自宅を工場にした。必要な機械を揃へて先ず自分一人から貝ボタンの製造に着手して行った。
 先生の回想の物語を聞かう。

 「仕事って面白いものです。時計を傍に置きましてね。針が動くに連れて、歌を唄ひながらボタンを作るんですよ。どうしても一時間に二百個こしらえる積もりですと必ず出来ますが、時計なしですとつい能率が上がりませんね。つまり十五分間に五十個作るわけです。朝早うから夜遅うまで働きまして、二千個はきっと製造しましたよ。仕事って一生懸命やれば面白いもんですね。」

 機械も一台より二台へ、更にもう一台と言う様に追加された。従って自分一人では手が廻らないので雇わねばならなかった。勝少年は十七歳にして遂に二十名の雇用者を持つ親方となった訳だった。

 「それから賀川先生が、私の父の依頼に応じて、私の宅へ聖書講義に来て下さいましてね。私は耶蘇教を信ずる様になって現在に立ち至りました。それからべったり此のイエス団に来る様になりました。」

 武内先生は温顔を更に綻ばせてニッコリとせられた。
 武内先生の青春はかくして一回の失敗も無くして過ごされて行った。信仰を杷持してからの先生の活動は世間周知である。キリストの為に如何に十字架に架からんかが先生の全部であった。そして先生は賀川先生を唯一の師と仰いで尊敬してゐられる。

 父の御神よ
 我が世の旅路
 楽しかれとは
 祈りまつらじ
 負へる荷をさへ
 とりてとは
 いのりまつらじ

 三百六十一番のこの賛美歌は、武内先生の為に作られた様なものである。
 マーテルリンクは「蜂は暗黒裡に働き思想は沈黙裡に働き、徳は秘密裡に働く」と教へて呉れてゐるが、武内先生の今日の盛望こそ、徳は秘密裡に働くとの彼の言葉を雄弁に物語るものである。
 然し、先生自身は常に己の弱さと己の不徳とを人に訴へてゐられる。賛美歌が公衆に唱はれる最中、感極まってソーッと瞼にハンカチを当ててゐられる姿を見る時、此処にこそ弱きが故に我強しとのポーロの不滅の言葉を身を以って実証してくれてゐる活ける人間のあることを泌々と感ぜさせられる次第である。
 涙の人である先生の祈りは又いつも涙に依って始められ涙に依って終わるのである。眼を真っ赤にして涙痕の跡鮮やかな両瞼に白いハンカチを押し当ててゐられる姿は、私の大きい霊的魅力であった。
 パピニは言ってゐるではないか。

 「聖者にして、自らを聖しと思ふもの無し」とロダンは、バーナードショーの姿を三十分間に作り上げて、ショウの特徴を遺憾なく刻んだと言うが、先生のこの内部に悲しみを秘めて外に出さず、弱き己の中から常に新しい世界を創造して往く。貴いこの至愛の結晶の五尺二寸余の姿をロダンの前に三十分でもいいから置かせてゐただきたいものだ。否ロダンを武内先生の前に立たしたい。

 ロダンは言ふだろう。

 「武内勝氏の姿を刻む前には聖書キリストの十字架に架かる條りを全部読んでかかりたい。勝氏の霊魂の立体化は、十字架への信仰なくして如何なる彫刻家も為し得ない」と。

 兎に角、先生はまだ生きてゐられる。心強いことではないか。嬉しいことではないか。諸君よ、共に欣ばう。我々の同志はまだ健在だ。そして我々自身が人生途上に逢ふ如何なる患苦も、それを共に悩み苦しんでくれる最も純粋の人がゐるのだ。否、遠方の人はよし武内先生の姿に触れることが出来なくとも、かかる人が日本の同じ土の上に今活き今生存してゐることを信じて、我々は励まされて共に元気よく立ち上がろう。
 その意味に於いて先生の姿は言葉なき激励の詩人である。(「雲の柱」第16巻第4号(昭和12年4月号)所収)

2009-05-25

馬島?とイエス団友愛救済所

 
 鳥飼慶陽先生の賀川豊彦のお宝発見

 馬島医師神戸における働きは少しの期間であるが其の足跡は大きいものがある。
 今回の「玉手箱」のなかに、馬島医師から武内勝宛に留学先から送られた二枚の絵葉書が残されている。これの消印をみると留学中のシカゴ大学のあるシカゴから投函され、1921年(大正10年)9月2日と読み取れる。
表には「神戸吾妻通五丁目賀川様方武内勝様」とあって、本文は、

ご健在を祝します。不断の御奮闘に感謝致します。職業紹介の方は如何ですか。アメリカの様な馬鹿に富んだ国で数十万人の失業者があるなどとは変な事です。昨日も今日も四ヶ月五ヶ月の無職者に会いました。何が一体その根本でしょう。何処かにまちがいがなくてはなりませぬ。私も失業者でありますが。

 とあり絵葉書の絵は、シカゴ美術館のWinslow Homerの絵のようである。
その欄外の空白に馬島医師は、次の熱いことばを添えている

 打ち壊される大浪を眺めて 噫 平和が何時? 祈りませう 泣きませう

           *         *

 ところで、馬島医師神戸での働きについては、葺合新川での「イエス団友愛救済所」(財団法人、大正7年8月27日設立)での働きがよく知られているが、彼が一家を挙げて住み込んで診療活動を行なった林田区(現在長田区)番町が彼の活動拠点であったようである。番町の名望家として知られる大本甚吉氏の協力もあってその持ち家のひとつ(五番町5丁目81)に診療所を設け「イエス団友愛救済所」の「出張所」としたのである。
 下記に紹介するのは、大正9年(1920年)3月7日付けの「神戸新聞」である。時代を髣髴させる記述であるが、今ではこれも貴重な記録である。殆ど句読点のない記事で、ここでは段落をいれるなど、いくらか読みやすくして取り出しておく。(2009年6月3日記す。鳥飼慶陽)

虐げられた人々の為に身を委す若き医師 
新川部落の憐れな貧困者を闇から救ふ友愛診療所

昨年七月頃から、市内の葺合新川及び長田番町の二ヶ所に友愛診療所というのが置かれて、貧困者に対し無料で診療が施されている。同所のお医者さんは、すべての病者に対する取り扱いが丁寧で、動かせぬ患者には往診もしているが、親切なその診察振りに部落の人達は、あたかも神様のように崇めている。

そのお医者さんというのは、一昨年名古屋医専を卒業した馬島?氏で、一年ばかり郷里の徳島に帰り、祖父である若林医学博士のもとにあって医学の研究をしていたが、同氏は中学時代から杜翁の著書を好んで読んでいたが、医専を卒業して実社会に触れるようになってからは、気の芽生でか少なからず杜翁に私淑して何かやらなければならぬという心の悶えで、南洋を志しては南洋方面に関する書籍を渉猟し、北海道を志してはさらに北海道に関する書籍や田地を知る人達の意見などを叩いて見た結果、どうしてもジッとしていることが出来なくなり、

昨年五月、名をレントゲンの研究に籍りて郷里を飛び出し、当地で計らず賀川豊彦氏に邂うて、一夕氏から虐げられている暗黒な社会層の有様を聞き、解放されたといっても繋縛から免れ得ず、益々藻掻きに藻掻きつつある彼等の生活、氏のこれに関する研究を聞いて、心は頓に動いて、遂に賀川氏と約束して、米国の伝道局から資金を仰ぐことになり、翻然北海道行きを廃めて、これらの社会層を研究し、自らその中に投じて、之が救済の手を差し伸べるべく、

昨年七月、先ず新川の賀川氏の許に友愛診療所を置き、次いで間もなく番町大本氏方に同様の診療所を設けて施療することになったが、徹底的に彼らを研究し救済するには、彼等の部落に全然身を投じなければならぬというので、今まで須磨町西代に私宅を構えていたのを、

先月二十日に家族全部を引具して、前記番町の診療所に引き移ったが、この時などは同町青年団の連中が勇み立って、氏の一家を連へ引越しの準備万端を整えて呉れたというが、現在同所には氏の妻女を始め母堂、令妹、令息などを迎え入れ、現に令妹はまだうら若い身をこの部落に投じ、白い看護婦服に包んで令兄の手助けをしているが、

馬島氏は曰く「只私は、人間として一切平等であるべき筈の人が、習慣の為に、社会の繋縛から脱し得ずに苦しんでいる人達を憐れに思うのです。先ず私は、茲二年なり乃至三年なりを只黙して研究し、この不幸な人達の真の友人として生きねばなりませぬ。これが私の一生の仕事になるでしょう」と深い決心の色を示している。

2009-02-12

與謝野晶子が訪ねたスラムの賀川

 與謝野晶子は1920年4月に、夫寛とともに、神戸賀川豊彦を訪ねている。
つぎの訪問記は「横濱貿易新報」(1920年5月16日号)に掲載されている。

 神戸の貧民窟を觀て

 私は今度の旅行で、神戸の葺合にある大貧民窟を見ました。案内して下すつた賀川豊彦さんの周到な説明を得て意外な知識を加へました。貧民窟の實状は其れに関した書物や寫眞だけでは決して解りません。百聞は一見に如かずと云ふことをつくづくと貧民窟に於て感じました。
 私は茲に貧民窟の光景を記述しようとは考へません。それは不可能です。その代りに、讀者に對して、どの都会にもある代表的な貧民窟を實見されることをお勧めします。
 かう云ふ不潔と病毒と窮苦との中に豚や犬と同じ生き方をして居る人間があると云ふことは、文明の國土に許すべからざる汚點です。人間が社會連帯の思想に目覚めて愛と人道とを説く限り、かう云ふ悲惨な境遇にある人間を放任して置くことは、萬人が互に負擔すべき一大罪悪だと思ひます。
 私は必ずしも姑息なる一時的の救済である慈善行為を奨励する者ではありません。それよりも根本的にかう云う貧民の發生を無くする社會組織の建設に就て萬人が注意して欲しいと思ひます。
 私は又かう云ふ事を思ひました。現にある貧民は施療と、救恤と、職業の紹介とで、目前の日送りを比較的緩和する事を計るより外に方法は無いにしても、せめて、その子供だけは生れるや否や、その生きながらの餓鬼道から隔離して人並の成長を取らせるやうに断然たる手段を講じられないものでせうか。若し其れが出来たら、その悲惨を親達たけで打切ることになるであらうと思ひます。
 現在の貧民の子供を隔離しても社會組織を根本的に改めない限り他の方面から新しい貧民が發生するのは勿論です。さうだからと云つて人並に生れて来た子供を不潔と、病毒と、無智と、窮苦との中に放置するのは、愛も人道もない、野蛮至極の事のやうに思はれてなりません。
 賀川さんが私達の先に立って貧民窟の細い路次を歩かれると、多勢の子供達が「先生」、「先生」と云つて取巻きます。賀川さんは一々その子供達の頭や肩を撫でてお遣りになります。子供達はすべて嬉し相にして賀川さんに撫でられて居ます。私は其等の子供達の持って居る人間の魂の美しさに涙ぐみました。其点は私達の子供とも、貴族や富豪の子供とも、魂に於て何の径庭もある譯は無いのですが、偶然にも貧民窟に生れた為めに、其等の子供達は悪性のトラホオムや、皮膚病や、親から傳染された梅毒やに罹つて、一人として完全な肉体を持って居る者がありません。何といふ不幸な子供達でせう。
 その親達も、狭い二畳敷の割長屋から首を出して、賀川さんと挨拶を交換して居ます。博徒も、窃盗も、淫賣婦も、すべて賀川さんの前では、美しい人間性を見せて居ます。それがどうして虚偽であろう。紳士や紳商の交換する笑顔の方がどれだけ醜いものであるか知れないと思ひました。

 或一つの路次では鉢植の花を作つて居る家が並んで居ました。「一軒の家の主人が花を作り初めたら次第に園芸熱が伝播して行ったのです」と賀川さんが云はれました。石版画を澤山に張つて楽しんで居る家もありました。襤褸で作つて押繪細工を額に飾つて居る家も澤山にありました。こんな境遇に居ながら、皆が皆、社會に敵意を持つことも無く、すべてが殺人罪を犯して自暴自棄す迷ることも無いのは、本来人間の魂が善であるからでもありますが、一つはかうして低級な藝術や迷信に由つてその魂を慰められて居るからだと思ひました。(『横濱貿易新報』 1920年5月16日)

2009-02-10

野坂参三が見たスラムの賀川豊彦

 1914年、後に共産党員になる野坂参三は神戸の葺合新川賀川豊彦を訪ねる。野坂は賀川より4つ若いから22歳の時である。慶應義塾在学中と思われる。野坂は後に書く自伝『風説のあゆみ』の中でその時の驚きを書いている。以下『風説の<あゆみ』の記述である。
「賀川は、そのころ、神戸葺合の新川に住んでいた。彼はそこで、キリスト教の伝道をしながら、単身、困窮者の救済にあたっていた。・・・当時神戸で、新川といえば、市内最大の細民街を意味するように、いつのまにかなっていたのである。一年中乾くまもない低湿地帯だったこの辺は、すこしの雨でも、たちまちあたり一面水浸しになった。そうした不衛生な自然の環境に、畳が一戸あたり二畳から四畳ぐらいしかない棟割長屋が庇(ひさし)と庇をくっつけて幾十と並んで、その戸数は約2000戸(明治末)あったという。だから、狭い家には、一日中、陽があたらず、つねに暗く、2メートルもない狭い路地には、浅い溝から汚水があふれ出て、ところどころ水溜りをつくっていた。
 そこには、何らかの労働災害で不具になり、働き場所から放り出された人たちや、失業者、寡婦、事業に失敗した人たち、生活能力を失って転落して来た人たち――つまり、資本の残酷な原始的蓄積過程で、その犠牲になった人たちが、さまざまな差別をうけ、何の保護もあたえられずに住みついていた。彼らは、にわか仕込みの技術で、たとえば、履物直し、皮革職人、手伝い、掃除夫、葬式人夫などをやって飢えない程度に糊口をしのいでいた。マッチ工場の職工や沖仲士のように、職のある者はいい方である。大半は、その日その日をようやくしのぐ生活であった。明治末年で約8500人ほど住んでいたといわれる。その後、新川の住人は、日増しにふえていったようだ。」
「若いクリスチャンであった賀川は、1909年からこのスラム街に飛び込み、棟割長屋の一軒を借りて、彼らと同じような生活を送り、そのめんどうをみ、行路病者を助け、彼等のよき相談相手となっていたのである。賀川は、不意に訪ねたわたしを喜んで迎えてくれた。」
「・・・彼は、さっそく、わたしを街のなかに案内してくれた。アメリカ留学が決まり、近いうちに渡米の船に乗るので、その始末やらその準備でいそがしい、と、人なつこい近眼の目をしょぼしょぼさせながら笑った。街の奥にはいると、半裸ではだしの子どもたちが、わたしたちのあとをついて来たが、むき出しの腹はふくれ、頭は吹き出物がジクジクしており、目やにをつけたのが多かった。賀川はその子どもたちに何か話しかけ、頭をなでてやると、汚れた顔が邪気に笑った。賀川は、ここの住民のほとんどが眼病(トラホーム)を病んでおり、わたし自身しょぼしょぼさせるのも感染して困っているといった。事実、わたしは、彼の眼病の奥の目の縁が赤くなっており、しょぼしょぼさせるのも、眼病のせいだとわかった。
こんな環境のなかにはいれば、こんな病気になるのも必定だと知りながら、勇敢に飛びこんでいったヒューマニスト賀川の真剣さに、私は頭が下がる思いがした。庇がくっつきあって、トンネルのような暗い路地に、幽鬼のような老婆や、痩せ衰えた老人が出て来て、賀川にあいさつしたが、彼はすでに、この住民の信頼をえているようであった。」
「ひとまわりして彼の家にもどり、わたしたちは、かなりの時間話し合った。わたしは、彼の勇気と献身に、素直に敬意を表すると、彼は、私はキリスト教者だから、これは当然やるべきことなのだといい、ここから出ることのできない悲惨な住民の生活と、政府や県の対策の貧困さを語った。・・・新川の周辺には、マッチ工場がかなりある、ここの子どもたちもやはりマッチ工場へ働きに行くのか、とたずねた。賀川は六ツ七ツだけでなく、五ツぐらいからはたきに出ている子どもがおり、ここでは、就学年齢に達した子ども100人のうち、まがりなりにも学校へかよえるのは、わずか数人にすぎない、といった。そして、新川の人口は日に日にふえ、長屋にはいれない人たちは、周辺の木賃宿に住んでいる。そこにもはいれず、行場のない病人の何人かは、わたしの家に引き取って世話をしていると、語った。
 わたしは、彼の行為に敬意を表しつつも、しかし、個人の力には限界がある、何か抜本的な考えかたをもっているか、と聞くと、彼は、まったくそのとおりだ、働けるものには定職をあたえ、病人には治療をうけさせ、子どもたちには学校へかよわせるようにしてやりたいのだが、政府や県庁はまったくあてにできないで困っている。いまは、自分の力がすこしでも強くなることを祈っているが、君には何かいい考えがあるか、と反問してきた。」
「わたしは、新川の人口がふえているということは、労働者がたえず転落してきているということだ、まずそれを防がなくてはならぬ、そのためには、まず労働者が、ほんらいもっている力を自覚し、資本家と対等の立場をきずき、みずからを守るために団結するのが先決問題ではないだろうか。わたしは、友愛会という労働者の組織に入っている。友愛会は、まだ労働組合ではないが、労働者が力を発揮するには、ほんとうの労働組合にしなければならない、というようなことを、考え考え語ったのを覚えている。彼は、年少のわたしの言葉を、黙ってうなずいて聞いていた」

2009-02-05

童心 小田切信男(賀川豊彦全集・月報8 昭和38年4月)

 世にはエライ立派な人は少なくありません。しかし、そのような人で心から好感のもてる人はそうざらにあるものではありません。徳冨翁が同時代の日本人の、しかも対照的な内村・賀川の両先生を讃えたことは特筆すべきことでありますが、私には両先生こそ最も敬し愛しうる稀な人格でありました。しかもこの両先生には特に心ひかれる共通点を見出しているのであります。それは、その人の偉大さにおおわれてしばし見失われがちな童心であります。もちろんこれは神を父と呼ぶ子の自覚から自然に流れ出たものでありますが、私は、この神による童心にこそ愛すべき「人」を見出したのであります。なぜなら童心の人なる信仰者には老人なく、英雄・超人・聖人もあり得ないからであります。
 賀川先生は診察の目的ではなしに新宿時代の小院をご訪問下さったことがあり、無理に尿を採って顕微鏡検査を行ったことがあります。その折、短い会話の中で終生敬愛すべき童心の人を発見したのであります。その後四谷の医院新築感謝会において、激励のお言葉を頂いたことも忘れ難い感謝であります。
 私の5人の子供等は賀川先生の松沢教会の幼稚園や日曜学校で育てられ、いずれもすごい賀川先生のファンでありました。夕の祈りに、賀川先生のご健康とお仕事とを守り給えと祈る小さな末の娘の祈りには、ハッと心を打たれるものがありました。それが人を尊敬することを知らぬご時勢であっただけに、子供達に「尊敬の人」賀川先生のあることは誠に嬉しいこと、有り難いことでさえありました。
 昭和35年4月23日夜、私はお宅にお見舞いをかね、渡独のご挨拶にお伺いいたしました。その時奥様から、先生は4時間程前から意識不明と告げられ、驚いて二階のお部屋に伺ったのであります。ベッドに横たわり、その身に「キリストの傷痕」(ガラテヤ6・17)を刻む先生のお顔には、もはや生気なく、意識なく、血圧も極めて低く辛うじて計れるくらいのものでありました。慢性の肝炎から心筋梗塞、そして、その後しばしば出没性の垂下性肺炎に襲われ、次第に心力を低下し、今や危篤状態に陥ったものと判断せざるを得ませんでした。しかし、常に巨人な人格はヨハネ伝の宣言にも似て(11・25−26)そのまま不死であります。ご家族の方々は、たとえ死の不安を抱いていたとしても、今がその時とは到底考えられないという、その心情はよく分かります。もちろん入院中も、しばしば危篤と告げられながら幾度も危機を脱し、そのため賀川先生には医学的判定は定め難いと医師達をして嘆かした程でありました。しかし「今」が「その時」であると知った医師は真実を語らなければなりません。奥様はじめご家族の皆様にご臨終の近接を告げると共に、私は病院から最後の治療としての注射薬を急ぎとりよせたのであります。
 特にうす暗くしてある電灯の下に、先生の喘ぐ呼吸の荒々しさは、きびしい定めの時に急ぎつつあるものの如く、人々の心に痛みとして反響して来ます。父と子との繋がりを手に握りしめるご長男、或いはベッドに寄り添い見守る人々、奥様はやや離れて祈るが如くでありました。側に立つ私は突如先生が−あたかも眠りより今目覚めたかの如く目を見開き、あの童心の微笑を浮かべて、挨拶なさいましたのを見てびっくりいたしました。しかも、そのまなざしは、その瞬間天を仰いで祈るように見えました。「先生!」と呼びかけますと、先生は重々しく頭を廻らしはじめ、周囲の人々を見渡されるのかと思わしめましたが、その頭の重さを支えかねるものの如く、ガクッと左側に頭を落とすと共に、世を去られました。大いなる「瞬間死」の終焉! その時奥様はツト手を差し延べ、先生の頭にやさしく触れ「よくお働きになわれました」「御苦労様でした」と万感を胸に秘めてお別れのご挨拶を述べられました。
 私はアンカレッジよりハンブルグへの空の旅で賀川伝を読み続け、来た独乙巡回講演の旅ではしばし求められて賀川先生を語り、会衆の共感と偉大な日本人キリスト教徒の死に対する弔意をうけたのであります。
 ドクトル・カガワは独乙では「世紀の聖者」であり、私には大いなる、神の「童心の人」であります。(小田切病院院長=当時)