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2011-07-07

少年平和読本(22)あとがき

 戦争が放棄され、軍備が全く撤廃されて、いささか不安をだいているやに見える、日本人、特にこれから成長して、新生日本、平和日本をせおって立つ少年少女の頭に、生存競争のみが、真の生命の進化を促すものではなく、むしろ反対に、武装を放棄したものが永く栄えて行くという事実を、動物の進化の歴史に徴して教える必要がある。
 こういう考えを持って、わたしたちは、自分たちの経営する神奈川県茅ケ崎海岸の平和学園で、小、中学および高等学校生徒の前に、幾度かそうした生物界の真相を語り、また自分たちの国際平和協会から発行する雑誌「世界国家」に少年向き読み物として他の平和問題に関する記述と一しょに二カ年にわたってこれを連載したのであった。
 近ごろ、平和問題に関する日本人の感心が漸く高まって、世界平和に関する多くの著作や記事が散見するようになったことは、喜ばしい傾向である。ところがその大部分、というよりは、その全部が成年向きの「平和論」であって、一番ばん、必要とされる少年少女向きのものは一冊もない。
 小、中学校の「社会科」の単元を見ると、六学年には『世界中の人々が仲良くするには、わたしたちはどうすればよいか』があり、また九学年(中学三年)には『われわれは世界の他国民との正常関係を再建し、これを維持するために、どのような努力をしたら良いか』があり、そしてそれぞれ、これに伴う学習活動の例が当局によって指示されているが、生徒たちは(いいや、ある場合には教師諸君も)どういうものを参考に読めばいいのか、きっと迷うのではないかと思う。わたしたちは、いささか学校教育に関係するものとして、この点に、想いをいたし、右の生物講和を主体とし、これに平和問題や戦争の害悪にかんするものをあわせて、一書にまとめ、愛する少年少女に贈ろうと思いついたのである。
 もしこの書物が、少年少女によってよまれ、平和日本の建設、無戦世界の実現のために、勇気と確信とをもって直進するそれらの諸君に、いくらかでも役立つことができるなら、わたしたちの望みは足るのである。
   昭和二十五年十一月
                            賀川豊彦
                            村島帰之

2011-07-06

少年平和読本(21)祖国愛か人類愛か

  愛国心だけでは足りない
    と叫んで銃殺された看護婦の話
 恩讐を越えて

 両軍が接近して対陣していた。月の美しい晩だった。歩哨が銃を小脇に警戒していると、ふと、目の先の敵陣地に人影の動くのが見えた。敵の歩哨だ! 幸いこっちは月の陰になっていて、敵からは見えないらしいが、あっちはその時、月光がさして丸見えである。歩哨は銃をとりあげた。敵の歩哨はまだ気付かないで、月光の下を、何かひくく歌いながらあるいている。月夜の美にそそられて故里の歌でも口ずさんでいるのだろう――そう思って、じっと耳をすまして聞くと
  わがたましいを 愛するイエス
  浪はさかまき  風ふきあれて
  沈むばかりのこの 身をまもり
  あめの港に  みちびき給え
 讃美歌だ。敵陣近きをわすれて、低くあるが、感動こめて歌いつづけているのだ。こっちの歩哨は、とりあげた銃をそっとおろして聞きいっていたが、歌の第一節がおわると、ひきいれられるように、彼もまたしずかに歌いだした。
  われにはほかの かくれがあらず
  たよるかたなき このたましいを
  ゆだねまつれば みいつくしみの
  つばさの陰に まもりたまいね
 敵の歩哨は、敵陣からおこった歌声に驚いて、歌うのをやめ、ふしぎそうに聞きいったが、それが自分の歌に唱和する歌であることを知ると、感激に声をふるわせて、次を歌いだしたのである。
  わが身はまたく けがれにそめど
  きみはまことと めぐみにみちて
  われの内外を  ことごときよめ
  つかれし霊を なぐさめ給わん
 敵味方二人の歌声が、彼我の敵陣の空で一しょになって、月光とともにしずかに流れていった。この戦争挿話は残念なことに、日本軍の戦線に起ったものではなく、アメリカ南北戦争のできごとであるが、恩讐を越えた、人間愛のうるわしさは、みなさんの胸の中をもひたひたとうるおしたことと思う。
 戦争は人間を狂わせる
 戦争は、ひどいことをするからこそ戦争である。人間性をもって行動したら戦争にはならない。戦争は人間を一時的発狂状態におく。あたりまえの人間も、一度、銃火の洗礼をうけると、人間の感情をうしなって、野獣になるのである。
 しかし、戦争は野獣性でも、戦うのは人間である。戦場にあっても、時には人間性に目ざめることもある。南北戦争の挿話はその一例だが、日清戦争当時、世上に広く伝えられた松崎大尉の物語もやはりそれであった。
 松崎大尉は進軍中、弾丸にあたってたおれている支那婦人の死体のかたわらに、乳をもとめて泣いている一人の幼児を見た。しかし、戦争のただ中だ。かわいそうではあるが見捨てていかねばならない。そう思って先へ進もうとするが、幼な児の泣き声は、大尉の心をとらえてはなさない。このまま見捨てて行けばなさけようしゃを知らぬ鉄砲玉がその母と同じように幼な児のいのちをもうばうかも知れない。そうでなくても、飢えがこの児を死なせるにちがいない。そう思うと大尉は、そのまま通りすぎることができなくなって、思わず近寄って軍装の胸に幼な児をだきあげて、そのまま進撃をつづけていった。日清役後の絵草紙に、肋骨のようにひもかざりのついた軍服を着た八字ひげの大尉が、左の小脇にべん髪の支那の幼児をかいいだき、右手に軍刀を高くさしあげながら、大ぜいの兵卒を指揮して進撃して行くさまの書かれてあったのを思い出す。
 兵士を動かしているもの
 しかし、戦争は南北戦争や、日清戦争当時とはくらべようもないまでにはげしさと残虐さとを加えて人間性を発揮している余地などなくなっている。敵を食うか、食われるかで、敵味方の合唱や松崎大尉を今日の戦場に期待するのはおろかかも知れない。だがこういうことはいえるだろう。戦場で銃をうちあう敵味方の兵隊は、個人としては何のうらみも、にくしみもない。ただ祖国が、たがいに戦っているため、その至上命令によって戦っているにすぎない。彼らを動かしているのは祖国愛とか、愛国心とかいう感情で、それ以外のものではない。もし、両国間の国交が断絶していなかったら、彼らは路傍であえばえしゃくをしないまでも、煙草の火ぐらいは貸したり、借りたりしたかもしれない。
 祖国愛も愛国心も、まちがってはいない。正しい人間感情である。現にわたしたちもみんな、多少の差こそあれ、祖国を愛している。愛国心をもっている。しかしそれだからといって、人間同士、殺しあうところまで行かねばならぬものか、どうか、この点に疑いをもたずにはいられないのである。もし、祖国愛や愛国心が、人類愛や人道よりも上に位して、後者は前者の前に価値がないものとすれば、南北戦争の月下の兵士や、松崎大尉の行為は、きびしく非難されねばならぬのである。みなさんはどう思われるだろう、彼らは、はたして非難せらるべきだろうか。
 愛国心だけではたりない
 ロンドンの大英美術館の東側に、一つの銅像が立っている。背面は十字架。前面は、イギリス兵でない他国の軍装をした負傷兵をやさしくだいている一人の看護婦の像。そして像の台石には「愛国心だけではたりない」ときざまれている。この銅像は一体何ものの像であり、また何を語ろうとしているものなのだろう。
 話は第一次欧州大戦のはじめにさかのぼらねばならぬ。戦塵がヨーロッパをおおい、ベルギーはまず戦乱のちまたと化した。そのとき、イギリス軍に従ってベルギー戦線に派遣されていた一人の看護婦があった。彼女はカベルといった。カベルは野戦病院で負傷兵を看護していたおり、イギリス軍の形成がわるくなって、退却をよぎなくされたが、ドイツ軍の進撃があまりにも急だったため、カベルのいた野戦病院はあとにとりのこされてしまった。病院はドイツ軍の手におちて、ドイツの負傷兵が運ばれてきた。カベルは、逃げようともしないで、次々と運ばれてくるドイツ兵を親切に看護した。それは、きのうのイギリス兵の場合と少しもかわるところがなかった。赤十字の精神がそうであるように、彼女も敵味方などという観念をもたず、傷つき病める兵たちを看護するほかに余念がなかった。ところが、戦争に昂奮していたドイツ将校の中には、カベルを疑うものがあった。彼女があまりにも親切にドイツ兵を看護するからである。祖国愛と敵がい心でこりかたまっている彼等には、カベルの挙動はあやしいとみるよりほかはなかったのだ。「カベルはイギリス軍事探偵にちがいない」ドイツ将校はそう断定した。そして彼女は軍事探偵の疑いで銃殺されることになった。カベルは少しもさわがなかった。そして最後の瞬間まで、彼女の天職であり、神からあたえられた使命である看護の手をおこうともしなかった。彼女は重症のドイツ兵に対し、最後の手当てをしてから、静かにドイツ兵の銃口の前に立った。そのとき、カベルはただ一言いった。「愛国心だけではたりない!」こうしてカベルは彼女が心から看病したドイツ兵の仲間のうった弾丸に肉体をつらぬかれて、たましいだけは天国へ帰っていった。
 汝らの仇を愛せよ
 「愛国心だけではたりない」というカベルの言葉は、真の愛が国境を越え、恩讐を超えるものでなければならぬことを言ったものである。カベルのこの崇高な行為と言葉はどこから発しているのだろう。いうまでもない。基督の十字架の精神、キリストの敵を愛する精神に出ているのである。
 キリストはこういっている。
 『われ汝ら聞く者に告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らをにくむ者をよくし、汝らをのろう者を祝し、汝らを辱かしむる者のために祈れ、汝の頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。汝の上衣をとる者には下衣をもこばむな。すべて、求むる者に与え、汝の物をうばう者にまたもとむな』
 なんという大宣言であろう。世界の道徳の歴史に、かってなき革命的宣言といえよう。
 キリストはさらに言葉をつづけて次のようにいっている。
 『汝ら、人にせられんと思うごとく人にもしかせよ、汝ら、おのれを愛する者を愛せばとて、何のよみすべきことあらん、罪人にてもおのれを愛する者を愛するなり。
 汝ら、おのれに善をなす者に善をなすとも、何のよみすべきことあらん、罪人にても故しきものを受けんとて罪人に貸すなり。汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、さらば、そのむくいは大ならん。かつ至高者の子たるべし』
 祖国愛か人類愛か
 敵を愛せよ、といい、にくむ者をよくし、のろう者を祝せよ、といい、辱かしむる者のために祈れ、という、その一つ一つが、みなできないことばかりである。ある者は、こうしたことは実行不可能というであろう。だが、キリストはこれを実行した。十字架上で殺される瞬間、みずからを殺す者のために祈っている「父よ、彼らを許し給え、そのなすところを知らざればなり」と。
 あなたは、いずれをとるのか。祖国を愛する愛か、それとも、敵をも愛する人類愛をか。

2011-07-05

少年平和読本(20)国と国との憎しみを去れ

  四方の海みなはらからと思う世に
    など波風のたちさわぐらん 明治天皇
 臥薪嘗膽の古事

 中国春秋時代に、呉(ご)王夫差(おうふさ)は越の国をたおして、父のあだをうとうとし、復讐の心をわすれぬため、毎夜、たきぎの中に寝て、自分のからだを苦しめたという。また一方、越王勾践も、呉の国をうって、会稽の恥をそそごうとし、きもを室内にわけておいて、これをなめ、片時も報復をわすれないようにしたという。この故事から、あだを報じようとしてかんなん、しんくすることを、「臥薪嘗膽」というようになった。
 なお右の中にある「会稽の恥をそそぐ」というのは、越王勾践が、呉王夫差と会稽山で戦ってやぶれ、あまつさえ、とらえられて、さまざまの恥をうけたという故事から、敵からうけた恥辱をわすれず、復讐しようとするのをさして、そういうのだ。臥薪といい、嘗膽といい、また会稽の恥をそそぐといって、いつまでも恥辱や怨恨をわすれず、復讐のおりをねらっているとすれば、平和は、いつまでも来ない。そのしょうこに、この故事のあった春秋時代紀元前七二二年から四八一年まで)約二百五十年間も、諸国がたがいにあらそって、支那四百余州には、平和の日とてはなかったのだ。
 復讐は無限につづく
 二千数百年前の中国の昔話ばかりではない。日清戦争の後、日本が清国からゆずりうけた遼東半島を、ロシアその他の三国の干渉で、清国へかえさせられたとき、日本国民は、三国ににくしみと、うらみをだいて、それこそ臥薪嘗膽十年、ついに日露戦争に突入した。そして日露戦争によって復讐をとげた日本人は、四十年をへて、こんどはソ連に復讐された形となった。もし、日本国民が、こんどの敗戦から、ソ連をうらみ、再復讐を考えたとしたら、どうなるだろう。
 日本は、戦争を放棄した。しかし、国際間のうらみや、にくしみを、一切すててかからぬかぎり、たとえ、憲法の文面で、戦争放棄を百万言宣言しても、それはカラ証文で意味のないものとなるだろう。戦争の絶滅をねがう者は、何をおいても、まず国際間のにくしみをとりさらねばならない。
 暴に暴をむくいるな
 これについて思いおこすのは、太平洋戦争がすんだ時の、中国の寛容な態度である。中国の民衆は日本軍の侵略をうけ、かずかずの残虐にあった。もし、中国民衆が日本人をうらみ、敗残の日本兵や日本民衆に復讐したら、どんなことになったろう。このとき蒋介石氏は、ラジオを通じ、次のように中国民衆にうったえて、その自制と寛容とを促したのであった。『中華民族の特性は、舊(きゅう)悪(あく)を思わず人に善をなすところにある。敵はうちたおされた。われわれは報復をくわだてず、敵国の人民に対しては、侮辱よりも憐憫をあらわし、みずからの錯誤と罪悪を反省せしむべきである。もし、暴をもって敵の暴にむくい、凌辱をもって、これまでの敵の優越感にこたえるなら、怨と怨は相酬い、永久にとどまるところがないであろう。これは、決して仁義の師の目的とするところではない』このようにいって、蒋介石氏は次のように言葉を結んだ。『世界の永久平和は、人類が平等自由なる民主精神と互助博愛の合作された上に、立てらるべきである。われらは、民主と合作に向かう大道の上を進み、全世界永遠の平和を、協同して擁護しなければならぬ』まことに、その通りだ。怨をもって怨に酬い、暴をもって暴に報じていたら、世にいう「いたちごっこ」になって、戦争は永遠にくりかえされるばかりである。
 西海同胞と思う世に
 明治大帝の御製に『四方の海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらん』とあるのをごぞんじであろう。世界の人々が、みなはらからと思えば、仇をも愛することができよう。
 世界の全人類が、この四海同胞の考えに徹底し、宇宙に対する各自の責任を自覚し、人類愛の立場から他人の欠点をも自分の欠点として考え、他人の尻拭いをしてまわる気もちになるなら、人種問題も、異民族間のにくしみも、うらみも立ちどころになくなってしまう。皮膚の色のちがいや、国語の異同なども、問題でなくなり、兄弟のように相親しむことができよう。
 国と国との憎しみを去れ
 ジョン・ブライトという学者は、「一切の人類の罪悪を総括したものが、すなわち戦争である」といった。つまり、戦争は、あらゆる罪悪のかたまりだ、戦争となると、人間は一時的精神異常状態となって、野獣さえ顔まけする残虐行為をする。もし、人間同士のにくしみの情がなかったら、つまり、人間同士が、もっと愛しあっていたら、そんな恐ろしい破戒行為は、できないはずだ。
 キリストは、なんじら、たがいに相愛せよ、といった。四海同胞という兄弟愛によってのみ、一切の人類の罪悪がとりのぞかれ、その罪悪のかたまりの戦争をも、回避することができるのである。
 日本は戦争放棄を宣言した。それは、戦争に敗けたから、戦争をやめるというのであってはならない。正義と秩序をもととする国際平和を願うのあまり、国際紛争解決の手段としての戦争を、永久に放棄したのである。われわれは人類愛の精神を、心に奥深くほり下げ、兄弟愛意識に目ざめて、人種間の差別観や、にくしみの心をきれいさっぱりとぬぐいさらなければならない。
 将来の日本をせおって立つ少年諸君よ! 人をにくみ、人をうらむことをやめて、世界中の人間が兄弟として仲良くし、四方の海に荒波一つ立たず、金波銀波の平和を実現させようではないか。

2011-07-04

少年平和読本(19)世界連邦を作ろう

  世界は「国家時代」から平和な
    「全人類時代」に移ろうとしている
 世界は狭くなった

 わたしは今ロンドンにいるが、去年の暮の二十二日の朝、羽田飛行場を出発し、四日間の空の旅の後、クリスマスの夜はロンドンに着いていたのだった。昔、能因法師は『都をば霞と共に出でしかど秋風ぞ吹く白河の関』と歌った。京都から福島県の白河までわずか二百里あまりの旅に、半年をついやしたころとくらべて、なんという相違だろう。それだけ世界はせまくなったのだ。時間的に考えると、現在の世界は、能因法師のころの日本よりも、ずっとずっとせまいといえる。そうだ、世界は小さくなりつつある。それだのに、各国が、たがいに垣根をつくり、目をつりあっているなどというのは、徳川時代に小さな藩が無数に分立して、たがいに警戒しあっていたのと同じで、こっけいにさえ思える。わたしたちは、国家というものの考えを、地球のひろさまでひろげていったらどうだろう。ほんの十日たらずで一周のできる地球だ。一つの国家として考えても、けっしてふしぎはない。
 世界を一つとする世界国家をつくれ、という声は、今や世界にさかんとなってきて、イタリヤやフランスでは、自国の憲法を改正して、そのことをきめ、アメリカなども、二十幾つの州ではこれを議決したほどである。これは今までの主権絶対の国家観念からすれば、相当の飛躍で、そのため昔の国家主義にこりかたまった人々からは「ユートピアだ」「夢だ」と反対されるが、ユートピアであるかないか、実行してみることだ。実現は可能である。必要は可能をうむであろう。
 人類を破滅より救うもの
 「最近の攻撃武器の発達は、歴史上その比をみない大量の人殺しの手段をつくり出した。これ等の兵器は他からの攻撃をふせぐというよりは、はるかに侵略に役立つ。だから、もし将来戦争のおきるのを放っておけば、人類の大部分はほろび、都市はこわされ、土地さえも毒をうけてしまうことになるだろう――」こういっているのは、世界的科学者としてその名をしらぬ者もないアインスタイン博士である。原子爆弾のような、世にも恐ろしい攻撃武器が発明されて、広島では、たった一発の原子爆弾のために死傷十数万の犠牲者を出したほどである。その後の研究で、さらに破壊力を増した原子爆弾水素爆弾のような攻撃武器が、敵味方によってつかわれることとなれば、アインスタイン博士のいわれるように、人類の大部分のほろびる日がこないとは、誰も保證はできない。そこで、博士はいっている。
 「こうした破滅から人類を救う方法は、一つしかない。それは、世界政府の建設である。世界政府が、すべてのこうした兵器を管理し、必要なる機関をもうけ、今まで戦争の原因となっていたすべての事がらについて、法律を制定できる権限をもつことにしなければならない」
 こういって、世界政府をつくることが、人類を破滅から救うただ一つの道であり、自殺的な文明の破壊を防ぐ唯一の方法だ、といっているのだ。博士は、この方法が唯一であるばかりか、「一ばんやすあがりの方法」だともいっている。そうだろう、世界国家ができれば諸国家間におこる紛争は、すべて戦争のような暴力手段に訴えることなく、世界連邦の大法院や最高法廷で審理するのだから、厖大な軍備も不用となり、兵員の育成や、兵器の発明や製造にうき身をやつすこともなくなって、各国の財政もらくになるであろう。そうした物質的な利益よりも、人類がたがいに殺しあわず、たがいに愛しあい助けあうことができるという精神的よろこびは、なにものにもかえがたいといわねばならぬ。
 日本国民世界連邦人民
 それならば、世界連邦ができれば、日本という国家がなくなり、わたしたちは日本人でなくなってしまうのかというと、そうではない。日本という国家は、世界連邦ができても厳存し、わたしたちは日本の国民であるとともに、世界連邦の一員となるのである。
 しかし、ここで一番大切なことは、昔のように、国と国とが対立し、競争し、にらみあう「国家時代」がおわりをつげて、「全人類時代」が来つつあるということを知ることだ。わたしたちの兄弟は「国家のため」という美名のもとに、戦争にかりたてられた。しかし、そうした時代はもうすぎて、「人類のため」という旗印の下に、四海同胞をもって、人類共通の目的である人間のさいわいのために、平和と正義を確保せねばならぬ時がきたのだ。
 では、そのために、われわれはどうすればよいのか。世界憲法草案によると、まず各国がその主権の一部をさき、これを世界の一つの政府――世界連邦政府にゆずる。そして、何よりまず各国の軍備を撤廃し、世界議会をひらき、世界行政府をたて、世界裁判所をもうけ、世界警察をおき、世界が一つの法の下におさまっていく仕組み、すなわち一つの法治社会としようというのだ。
 主権は世界人民にあり
 世界連邦では、主権は世界人民にあって、以前の日本のように、天皇にあるのではないばかりか、個々の国々が最高絶対の主権をふりまわすのでもない。もともと人間にある主権のうちから、何千人か何万人かに関係のある事柄についての主権を出しあわせて、第一の政府――市町村制を作り、百万人か、二、三百万人かに関係のある事がらについては第二の政府――府県制を作り、何千万人かに関係のある事がらについては第三の政府――国家を作り、さらにその上に二十四億の全人類に関係のある事がらを処理していくために世界国をつくる。この世界国を、世界連邦というのである。
 国家に武力主権なし
 戦争をするとかしないとか、軍備をするとかしないとかの権限は、各自国の政府からとって、これを新しくつくる一つの政府  世界政府にまかせるので、国家間に紛争がおこったとしても、各国が武力を行使できるはずもなく、つまり、戦争が不可能になり不必要になるのである。
 それなら、国と国との間の紛争は、どうやって解決をつけるのかというとそれは、ちょうど現在の一国の中で、ある集団と集団との争いが法でさばきがついているように、世界政府の審判によって解決される。つまり世界法にもとづいて処理され、わからないことは世界裁判所裁判し、法にしたがわないものがあれば、世界警察がそのまかされた権力で、しまつするのである。
 今日まで、国際連盟国際連合のような世界平和の維持を目的に国際組織がつくられても、戦争防止の力がなかったのは、バラバラの各国が絶対主権をふりまわして、それぞれ自国の利益を主張しあうばかりで、全人類が一つに結合した世界国は、なかったからである。世界連邦はこの点を考え合わせ、世界二十四億の人間が、めいめい市町村や、国の政府をもちながら、その上に、ただ一つの共通の政府――世界政府をもつことにするのである。
 こうしてはじめて、世界の土地と水と空気とエネルギーとを、本当に人類の共同の財産とすることもでき、国と国との間の戦争をなくすることもできるのである。
 特色ある立法機関
 では、世界連邦はどうして組織するか。連邦は、けっして一国が全世界を征服するのではなく、全世界が法をさだめて、これを連邦の盟約とする連合体だから、その立法司法行政の各組織は、世界連帯意識   わかりやすくいえば、二十四億の心と心が、一本の帯のようにつながる相互信頼、相互扶助の精神の上にたてられねばならないのである。
 政府の機関の中で、一番大切なのは立法機関――つまり議会で、シカゴ案によるとこの議会両院制で、世界人民代表大会(下院)と、世界連邦総会(上院)の二つとする。
 世界人民代表大会は「主権在世界民」の精神にもとづき、世界中から人口百万人につき一人のわりで、一般投票により代表を選出するので、世界の人口二十四億とすれば二千四百人の代表者がでるわけである。会期は三年に一回。世界連邦組織に関する重大な事がらを決議し、世界連邦総会を開くしたくもする(今のところ、一九五五年に連邦政府を樹立し、第一回の総会を開こうとしている)。
 もう一つの世界連邦総会の議員は、人民代表大会が選挙するもので、その議員の比例を公平にするため、全世界を九つの選挙地区にわけ、一地区から二十七人ずつの候補者を選出し、その中から、大会で一地区から九人ずつ、合計八十一名の議員選挙する。一方、べつに、地区選出によらない連邦総会の推薦した議員十八名をくわえ、計九十九人よりなる常設連邦議会が成立し、これが世界連邦政府の最高立法府となるのである。
 なお連邦総会議員の九つの選挙地区というのは、極東、南洋、印度中東、および近東、ロシアおよびその衛星国アフリカ、西ヨーロッパ北米南米で極東地区には中国韓国、日本がふくまれ、南洋地区には豪州フィリッピンインドネシアもふくまれている。
 世界連邦ができたら、みなさんの中から世界連邦総会の議員もでることであろう。
 少数民族擁護に人権護民官
 この憲法の特徴の一つは死刑が廃止されていることと、いま一つは連邦人民少数者を代表し、その利益を擁護する意味で、人権護民官を任命する規定があることである。これは人民代表世界大会で前記九十九人の議員選挙した後、同じくこの大会で選挙することになっている。ただし候補者は前記九大選挙地から各々大統領候補者に推薦された者以外の者のみが有資格者で、しかも投票の結果、最高次点者が当選する事になっている。
 人権護民官連邦人民少数者を代表し、利益擁護のため、世界国家大目付役として大審院高等裁判所等にオブザーバーとして出席する。
 このほか大統領議会大審院の協力により、自分のほかに現職軍人ではない六人の議員よりなる世界治安院を連邦政府連邦警察常備軍の指揮監督に当らしめ、専ら世界の平和と治安維持につとめる。
 世界連邦か世界破壊か
 以上は世界憲法草案シカゴ案の概要だが、この世界憲法草案は、次の四つの仮定原理から出発している。

  1. 戦争は違法である。そしてまた違法とすることができる。平和は、これを世界に強制することができる。そしてまた強制せねばならない。
  2. 世界連邦政府か、でなければ世界破滅か、この二つのほかに道はない。
  3. 世界連邦政府は必要である。だから、これは可能である。
  4. 世界連邦政府と平和の価値は正義である。

 そうだ。世界の情勢は、世界政府か、しからずんば世界破滅か、というところまで来ている。戦争を違法とし、平和を強制せねば、世界は破滅する。もう、世界連邦ユートピアだなんていっている場合ではない。ぐずぐずしていれば世界は破滅する。火はもえ出している。このさい、わたしたちは、どんな犠牲を忍んでも、世界連邦を樹立し、世界平和を確保せねばならないのである。

2011-07-03

少年平和読本(18)戦争のない一つの世界へ

  アリストテレス以来、世界を一つにしよう
    という努力はつづけられて来たが    

 永久平和への願い

 昔から多くの学者が、頭をしぼって、どうしたら戦争をふせいで永久平和が実現できるかということを考えた。
 アリストテレスという学者などは、『武力か政治力で世界を統一して、世界帝国を建設せよ」といった。しかし剣をもって征服しようとする者は、また剣でほろぼされるということは、もう今までにたくさんの例をもって説明したとおりだ。
 また文芸復興時代の哲学者カムパネラは「ローマ法王首長にいただいて、世界中の人々が、その教会の支配下に立てばいい」といった。しかし、ローマ法王に、その力のないことはあきらかだ。現に法王治下のカトリックのほかに、たくさんの宗教があるのだから――。そこで、近世になって、法律学の発達とともに、法律――といっても一国の法律ではなく世界法――の力で戦争をなくしようと考える学者が出て来た。そのうち一番早いのは、今から三百二十年ほど前、フランスアンリ王が、まずヨーロッパにクリスト教共和国を組織し、同時に最高国際裁判所をもうけ、国と国との紛争は、ここで裁判して、戦争をふせごうではないか――ととなえ出した。
 国際的連合組織の計画
 これを最初にして、国際的連合組織の計画がつぎつぎとなされるようになり、一七一三年――今から二百四十年ほど前、有名なサンピールの永遠平和草案ができ上がった。それが、カントの「永久平和論」の先駆をつとめたのである。カントの「永久平和論」の出版されたのは今を去る百五十四年(一七九四年)で、彼はすべての国家は今日のいわゆる民主主義の制度をもつようにすると共に、一方各国がたがいに協定を結んで、平和を保障するため、国際連盟を組織せよ、といいだしたのである。これが第一次世界大戦の後で、アメリカのウイルソンによってもちだされて、実際に国際連盟がうまれた。がしかし、せっかくのこの連盟も、独裁者たちに、ふみにじられ、第二次大戦後、改めて国際連合が組織された。
 国際連合憲章
 「われらの一生のうちに二度まで言語を絶するかなしみを人類に与えた戦争の惨害から将来の世代をすくわねばならぬ   」こういって、国際連合が正式にうまれたのは、一九四五年十月、第二次大戦が漸くおさまって半年とはたっていないころであった。
 国際連合は、戦争を防止し、国際紛争の平和的調整をおこない、国家間の協力によって経済的社会的その中のいろいろの戦争原因をとりのぞき社会の進歩をうながし、基本的な人権と人格の尊厳にふさわしいように、諸国民の生活を改善しようとするもので、国際憲章第一条にしめされた国際連合の目的は次のようなものである。
 一、A、平和の脅威を防止し、侵略その他平和破壊の行為を抑圧するために集団行動をとること、
    B、正義と国際法の原則にのっとり、国際紛争の平和調整を行って国際平和を維持すること。
 二、各国民の平等権および自決権の原則にもとづいて国家間の友交関係を促進すること。
 三、A,経済、社会、文化ないし人道に関する国際問題を解決すること。
    B,民族、性、言語、宗教差別なく、あまねく人種ならびに基本的な自由に対する尊敬心を振作するために国際協力を図ること
 右の目的をたっするために、国連には一般総会、安全保障理事会経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局の六つのおもな機関をもうけられてあるが、その中でも一番問題になるのは安全保障理事会である。
 問題の安全保障理事会
 国際連合は、さきに国際連盟が失敗しているので、その失敗にこりていろいろの点で改善されているのだが、その中一ばん改善されたのは、連盟規約には、経済上および社会的の戦争原因について、ほとんど考えられていなかったし、また侵略国にたいし行動をとる場合も、全加盟国の賛成を必要としたりして遺憾の点があったのでこれを改めた。
 けれども、ここに残念なのは、その国際平和維持のおもな責任を任された安全保障理事会の機能の不完全なことである。理事会は米英仏ソ中の五常理事会と、任期二年の非常任理事国でくみたてられているが、常任理事国は、手続き問題以外の、政治上の重要問題についての決定に当たり、拒否権の行使がみとめられていて米ソの対立から、ソ連は事ごとにこれを濫用し、せっかくの国連も仏作ってたましいのはいらないうらみを感ぜしめるようになったのである。
 朝鮮事変に国連軍が出動したのも、実はソ連が、ほかの問題ですねて、理事会をボイコットして欠席していたため決定を見たので、ソ連が出席していたらもちろん拒否権をつかって朝鮮国連軍を出させなかったにちがいない。
 こういうように、国連は、前の連盟よりはだいぶ進歩しているとはいうもののまだ不十分といわねばならないのだ。ただ、こんどの朝鮮事変に、ソ連の欠席がさいわいして、国連軍朝鮮派遣し、侵略軍をおっぱらったので、国連は世界から見なおされた形である。たしかに、こんどの国連軍の出動は、侵略の阻止と、平和の維持に役だったといえる。しかし、朝鮮では機能を発揮することができたが、今後、世界各地で頻発するであろう侵略を、ことごとく阻止し、世界の平和を永久に確保できるかどうか。
 国際連合から世界国家
 わたしたちは、国際連合に心からの敬意は表するものだが、その組織の上で、ややもろいものを感ぜずにはいられないのである。つまり、国連は、国家の集団で、それぞれ主権をもっていて、その主権をおかされない範囲で協調していこうというのだから、米ソの対立、これにともなう民主主義国家と共産主義諸国家とのにらみあいが、だんだんと激化して行く今日、意見の一致を見ることがなかなかむつかしくなっていくのはあたりまえのことである。
 そこでアメリカなどでは、この国連を世界政府に組織替えしようという意見がでている(世界政府については後で詳しく説明する)
 しかし、国連世界連邦とは、同じように、世界平和の実現を目的としてはいるが、その本質上、ちがいのあることをしらねばならない。国連は戦争防止のための国際機関だが、世界連邦は世界の政府である。前者は国家の集団だが、後者は全人類的組織である。そして前者の主権はそれぞれの国家の元首または国民にあるが、後者の主権は世界人民にある。こうした大きなちがいがあるのだから、たとえU・W・Fの決議が通過したとしても、国連というものはいちおう発展的解消して、各国家があらためて世界連邦政府樹立にむかって進むわけである。
 それはともかくとして、国際連盟が失敗し、また国際連合が現に十分の効果を発揮できないのは、つまるところ加盟国が、それぞれ無制限の主権をもっていて、他からいろいろいわれたがらないからである。そこでいっそのこと、各国が合意の上、主権の一部をさいて出しあわせ、共通のヨリ高い一つの主権を作り、人類全体を一つの世界国家に結合しよう――というのが、世界連邦の運動がおこった理由なのである。ドイツだ、フランスだといって、主権をもった国家として対立し、てんでの利益を主張しあうだけで、共通の一つの主権、一つの政府、一つの議会、一つの裁判所をもたないのでは、戦争の危険はいつまでたってもなくならない。だから一思いに、国家の上の国家、政府の上の政府、世界共通の一つの政府をたてて、戦争をなくしよう――というのである。みなさんは、どう思われるか。よく考えてみて下さい。