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Think Kagawa 賀川豊彦を考える RSSフィード

2010-02-09

上海からの二人のお客様

賀川豊彦記念松沢資料館の杉浦秀典学芸員ブログが最近のおもしろい。「上海からの二人のお客様」を転載させてもらう。
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先々週、中国上海の復旦大学の大学院生の方がこられて、資料を探してゆかれた。学部時代は米国アイビーリーグ人類学を修められた方であったが、大学院は母国中国での日中キリスト教近代史、特に賀川豊彦について研究をされるとのことであった。流暢な日本語であり、三ケ国語を使いこなせる非凡さは、将来が楽しみな方である。昨年、シルジェンの中国語版が出たこともあり、韓国に続いて今後は中国での賀川研究の発展が望まれる。

その翌週には、同じく上海に留学中の日本人学生が訪問された。奇しくも近代史で賀川と中国の関係を研究されるとのことである。しかしこの方は、先の中国の方とは全く別に研究を進めておられた。同じ時期にお二人も、しかも同じ上海から… 目に見えない不思議な同時共調性ともいうような印象を覚えた。やはり時代が、賀川を要望しているのだろうか?他にも似たようなシンクロが起きているのかもしれない。

今後お二人の成果を楽しみにしつつも、さらに様々な角度からアジアにおける賀川研究が進んでいって頂きたいと願っている。

続きは http://kagawa100.blog.shinobi.jp/Entry/90/

2009-11-06

友愛のコペルニクス的転換 賀川、鳩山、オバマ 【三条ネットカフェ】

第84回 友愛コペルニクス的転換 賀川、鳩山オバマ
財団法人 国際平和協会 伴 武澄

 http://fm797thinktank.seesaa.net/article/130321312.html

 10月15日に開催された京都同志社大学での賀川講演会の折り、京都のFMミニ局、三条ネットカフェの「Thinktank Journal」に出演し、主催者の中野有氏と「友愛コペルニクス的転換 賀川、鳩山オバマ」と題して30分間、賀川豊彦を語った。興味のある方は上記urlで内容を聞くことができます。でたところ勝負の録音でしたが、思わず「コペ転」という表現が生まれました。(伴 武澄)

2009-10-12

ジュネーブ講演が火を付けた賀川ブーム

 Think Kagawaの読者は1936年のロチェスター大学で賀川豊彦が行った「Brotherhood Economics」と題した講演が英文で出版され、欧米を中心にセンセーションを巻き起こしたことはご存じのことだと思う。賀川はその後、ヨーロッパに渡り同年8月6日ジュネーブ大学講堂の演壇に立った。米沢和一郎氏が明治学院大学キリスト教研究所から出した『賀川豊彦の海外資料2』からその様子を書き写したい。
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 新渡戸稲造が1926年講演したジュネーブ大学講堂の同じ演壇に、賀川は10年後の1936年8月6日に立った。ジュネーブ市庁の下に広がるバスチヨン公園にあるジュネーブ大学講堂の真正面には、公園をはさんで対極に宗教改革記念碑がある。その(カルバン)宗教改革記念400年祭の記念行事として開催されたジュネーブ大学エキュメニズムセミナー講演のためであった。このエキュメニズムセミナーは、その後欧州のオランダ、イタリア、バチカン、ローマ法王を元首としていたアンゴラでの出版や、シンポジウムがなされている。そうした派生展開から要請を受け、賀川がToppingを派遣したのは1937年のことである。話を賀川講演に戻すと、のちにWCCのトップとなるオランダ人のヴィッサー・トッフトをはじめとして、回勅で反ナチズムを鮮明にしていたピウス11世が派遣したバチカン使節も聴衆のなかにいた。本題は、エキュメニズムであったが、なぜか、講演冒頭で時局を投影したような話から入ったと記憶していた人がいた。このセミナーで賀川の英語講演をフランス語に通訳していたアーノルド・モップである。主宰者アドルフ・ケラーに促されて演壇に立った賀川は下記の冒頭の言葉を発したという。
 「凡てのものが成長する。都会が成長し、機械が成長し、資本主義が成長する。だが魂と愛だけが成長しなかった。そこに地球の悩みがあるのではないか。宗教的精神が涸れる時、各民族は痛ましくも流血の中に喘ぐ。その実例を最もよく示したのが欧州の歴史である」
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 1936年、すでに戦争の暗雲が立ち込めていた欧州で、賀川は再び「Brotherhood Economics」を説いたのである。戦争を避けるために、共に生きるための協同組合精神を訴えたことが、欧州の人々の心に響き、各国での翻訳出版が相次いだほか、各地でシンポジウムが開催され、賀川の代理としてヘレン・タッピングが派遣されたということである。賀川ブームが欧州を席巻したといえばいいすぎか。(伴武澄)

2009-09-29

ロッチェスターの戦争 『世界を私の家にして』から

「ロッチェスターの戦争」といふ初号の見出しを、保守派の宗教新聞がつけている位、故ラウゼンブッシュ教授の記念講演は、私が同市に行く前からセンセーションを起こしていた。
 あまり人の批評を気にしない私も、、学校が学校だけに、先方に対して気の毒だと思った。ロッチェスターには全米商工会議所会頭が住んでいるといふ理由もあったが、超綱領派のノリスは、私が8回講演すると聞いて、私を8回攻撃すると新聞に発表した。それより先、市の公会堂を私のためには貸すなと市長に講義した団体があった。それは、市在郷軍人会で、それに愛国的婦人団体も参加していた。愛国団体は私の平和主義が米国の軍備を虚弱ならしめ、私の協同組合主義が、米国を破壊するから不可だと主張した。新聞紙はこれを面白がって書き立てる。ロッチェスター神学校は全責任をもって、私が決して危険人物で無いことを証明しようとしても、保守派の牧師達はきかない。論議につぐ論議が毎日新聞紙上にのり、遂に新聞社の社説までが、私の思想傾向を論説に書くやうになり、「自由思想を許して来たロッチェスターはカガワの説を先ず聞き、しかして後に彼に反対すべし」と正論を吐いた。この論説などが利いたと見えて、市は在郷軍人団の要求を退けて、私に公会堂を開放してくれた。
 ところがその夜、私の反対者フランク・ノリス氏は他の大講堂を借りて、「カガワ論」を大いにやったさうである。面白いもので、あまり無茶な攻撃をするので、聴衆が怒り出し、ノリス氏に質問演説を始める人間が現はれ、会場が混乱したので、ノリス氏は巡査を呼んで、質問者を捕縛すると怒号したとのことであった。殊に同市にある独逸神学校の学生及び教授が、ノリス氏の狭量と独断に反対したので、翌日よりは独逸神学校の学生を監視する者をつけたとの事であった。
 私は保守派に対して何等批評を加へず、私の信ずるキリスト教的社会改造論を主張したので、三夜の連続講演を、静粛に大衆がきいてくれたのは嬉しかった。
 かうして三日間の激動の後に、同市の新聞の社説や投書は、ノリス氏を反駁する記事で満たされていた。
 ある投書の如きは「何人がノリス氏に会場を貸したか、市民の公安を害したのは彼であった」と書いていた。で、私の無抵抗主義が或種の効果を納め得たことを私は喜んだ。
 然し納まらないのはノリス氏である。最後の晩に、彼は「カガワを送還するめに、諸君はワシントン政府に電報を打て」と叫び、更に「これより私は、シカゴに行き、カガワ反対の大道団結を作り、彼の仮面を剥いでやる」と断言したさうである。
 実際、その後、私に反対するパンフレット及びリフレットが全国で発行せられ、私も数種土産として日本に持って帰ったが、これだけ反対せられた米国訪問客も少ないであろうと私は思った。
 ところが反対が加はれば加はるほど、米国人は私の演説会に雲集して来た。それで私を慰める人々はこんなことを言うた。「カガワ、米国人は賛成する前に一度、反対してみて、どれ位忍久力があるか試す癖があるから、君、反対せられても悪く思ひ給ふな」と。米国人の心理が何処にあるか、かうなるとよくわかる。

2009-09-24

賀川豊彦の名を世界的にしたタッピング一家 女優長岡輝子

 賀川豊彦の名を世界的にしたタッピング一家 長岡輝子
 資料館ニュース1997年12月1日

 明治の終わりから大正、昭和にかけて大人になった日本人で、賀川豊彦の名前を知らない人はいないでしょう。それに反して、その背後で彼を支え続けたアメリカ人宣教師タッピング一家を知る人は、ごく一部の人になってしまいました。
 今、私の手もとにある「日本英学史学会」発行小林功芳氏の「タッピング家の人々」によると、「その先祖はイギリスの貴族で、当時禁止されていた新教(プロテスタント)の信仰を守ったために、領地は取り上げられ首に懸賞までつけられました。更に、信仰の自由を求めてアメリカに亡命したのが、1960年との事でした」とあります。こうした家系を持つタッピング一族は、その後ウイスコンシン州に最初のバプテスト教会を建てたり、その孫は黒人解放、禁酒運動、農場経営や穀物取引のかたわら、手広く商売もされていました。
 私が盛岡で幼稚園児だったころ盛岡に来られたミスター・ヘンリー・タッピング先生も、お若い時に不動産に手を出して騙され、大きな借財を抱えました。それを自力で全部返された後、自分の使命は聖職であると痛感し、シカゴ大学を出て、ニューヨークの神学校に新婚の夫人と共に学び、更に別な神学校在学中に娘ヘレンが誕生したのです。
 タッピング夫人は、夫と同じウイスコンシン州生まれで、大学卒業後シカゴで保母資格を取得され、その後ドイツのライプツィヒで音楽を学びました。結婚した二人は、コロンビアのベネディクト大学に呼ばれて、聖書と音楽の教師となったのです。
 こうして何年か経ち、明治28年タッピング夫妻は来日して、夫は東京中学院で宣教師として生徒の信望も厚く、夫人は築地の居留地と、四谷に幼稚園を開き、また保母養成所も発足させました。
 話が変わって、私の母「長岡 栄」は、東京の女学師を出て、盛岡高等女学校に勤務したのが、明治33年でした。その頃、女学師には幼稚園があって、フレーベルの教育法も学んでいましたが、自分の息子がその年齢になっても幼稚園がなかったので、教えていた学校の雨天体操場と、校庭を、保育会として週三日間使っていました。しかし、校長が変わると同時に、そこを立ち退かされる事になってしまい、困り切っていました。そこにタッピング夫妻が盛岡に来られて母の話を聞かれるや、さっそくその保育会を引き受けて自宅を開放し、盛岡幼稚園として発足させる事になりました。これが今日も続いている内丸幼稚園で、明治42年3月に県に正式認可されたのです。タッピング家の二人の子どものヘレンと、ウィラードの教育は、アメリカで受けていたので、ヘレンもウィラードも、休暇には盛岡の家に来ていたようでした。タッピング夫妻は、大正9年に幼稚園を新しい園長に任せ、ご自分達は帰米して5年後に再び来日され、横浜に新しく家を建てられ、関東学院で教師をされたり、A・ライシャワー牧師(ライシャワー元駐日大使の父)の仕事を手伝われたりしていました。そこにあの関東大震災が起こり、家も何もかも消失したのです。その中で被災者たちのために老齢もかえりみず、宣教師の働きをなされたのです。その結果、体をこわされて昭和2年、ミッションを引退されました。
 長女ヘレンは、明治44年コロンビア大学を卒業して宣教師となり、大正10(1921)年頃は、神戸女子青年会(YWCA)の初代総幹事といして活動しているので、その頃活躍していた賀川豊彦の仕事には、多大の共感を持たれたのでしょう。
 へレンがこの4年前にミッションを辞めているのは、ミッションの枠の中にいては思うような仕事が出来ない、と感じられたからではないかしら。賀川豊彦がニューヨークで帰米中のヘレンに会い、彼の仕事に参加を求めると、彼女は両親と三人での参加を申し出ました。この三人の参加は、賀川の仕事を世界的に広めることになりました。
 ヘレンは、先ず、賀川豊彦の海外伝道旅行に同行して秘書の役割を果たしました。老齢の両親は、賀川の伝道文書の翻訳、整理、英文パンフレットを作成して海外に発送する・・・賀川はそういう彼らのことを天使たちと呼びました。又、賀川が組合病院を東京に建てた時も、彼の苦境を知ったタッピング家は、宣教師での僅少な貯金から思い切った寄付をして人々を感動させました。
 昭和14(1939)年から翌年にかけてヘレンは、フィリピンで教育事業をしていました。昭和16年に日本に来ていたヘレンも、日本を去り、軽井沢には両親が残ったものの、8月の暑さの中で、世田谷の自宅に戻ったヘンリー・タッピング氏は、脳卒中で帰国の船に乗る事もならず、息を引きとられました。85歳。昭和17(1942)年の事でした。
 その後、まもなくひっそりと告別式がありましたが、タッピング氏の最後の祈りは、「主よ彼等の罪を許し給え、彼等はそのなすべき事をしらざればなり」であったと、司会の方が話された事だけを私はよく覚えています。
 残されたタッピング夫人は、病気を理由に頑として帰米を拒否し、戦時中の窮乏生活を耐えられました。敗戦後、宮中に招待された夫人は、昭和天皇と、お互いに自分の方が悪かったと、譲り合わなかったのは有名な話です。その後、一時帰米した夫人は、ヘレンと共に来日して上北沢に住まわれましたが、昭和28(1953)年7月18日老衰で世を去られました。91歳でした。
 そして同月25日には、松沢教会でタッピング夫妻合同葬があり、私は盛岡境地縁の卒業生代理で追悼の辞を捧げました。