2010-09-05(日)
「パクリ」死すべし。
きのうラジオで延々と話していたのだが、「パクリ」という言葉を軽々しく使うことには問題があるよね、という話。当然ながらそう思うのはぼくひとりではないようで、たとえばニコニコ大百科にはこのような記述が存在する。
同じく模造などを表す言葉に「オマージュ」「パロディ」などがある。
これらの語句を明確に区別しようとする場合、線引きは人によって若干異なるため、しばしば議論になる。
(中略)
パクリとオマージュ・パロディは別のものであり、パクリを叩く理由を考えるとそれらを混同してしまうのは手段と目的を履き違えていると言わざるを得ないが、残念な事に混同して十把一絡げに「パクリ」と言う者が少なからず存在する。
(中略)
当然だが、パクっている訳では無い物をパクリと呼ばれれば、作者本人のみならずその作品を視聴していた第三者にも不快感を与える。
悪意を持って意図的にパクリという言葉を使う者は言うまでもないが、パクリの何たるかを良く理解せずに手当たり次第にパクリと言う言葉を使っている人は、どこかで他人に不快感を与えている可能性が高い。この記事を見て思い当たる節がある人は、パクリと言う言葉の持つ意味を考えて、本当に使うべきところでのみ使うように心がけて欲しい。
おおむね納得できる内容ではあるが、ぼくの意見はもっと極端である。「パクリ」なんて言葉そのものの使用をやめればいいと思うのだ。既に「盗作」という言葉があるのだから、そちらを使えばいい。「パクリ」という言葉はあまりに軽すぎ、特にネットでは、軽率に使用されすぎるきらいがある、と感じる。
いまでも憶えているのだが、TYPE-MOONの『月姫』が話題になったとき、『痕』のパクリだ、というひとが大勢いた。『Fate』のときは『仮面ライダー龍騎』のパクリだ、というひともいた。ぼくはこのような指摘は意味がないものだと考える。
じっさいに『月姫』や『Fate』が先行作品から影響を受けているかどうかは問題ではない。仮に影響を受けていたとしても、それを非難することに意味がないと考えるのである。それらの作品が先行作品の「パクリ」だとして何なのだ?としか思わない。
それらの作品が「オリジナリティに欠ける」ことが問題なのだろうか? だとしたらそういえばいい。「パクリ」などという言葉を使う必要はない。あれも「パクリ」、これも「パクリ」、といって悦に入ることはかってだが、無意味としか思えない。
よくいわれることだが、ある作品があり、それに類似した作品があるとき、最初の類似作品こそ「パクリ」といわれるが、それが広まると「ジャンル」になる。
たとえば「透明人間」や「タイムマシン」といった広くしられるアイディアも、宇宙開闢からあったものではなく、H・G・ウェルズの創案だ。しかし、『ドラえもん』はウェルズのパクリだ、などというひとはいない。あまりにもあたりまえになってしまうと、それは「パクリ」とは認識されなくなるのである。
そしてまたこれもよくいわれることだけれど、純粋にオリジナルな作品はない。すべての作品はその意味ではどこからかアイディアを「パクって」いるのであって、その文脈では「パクリ」という言葉に意味はないことになるだろう。
むろん、だからといってぼくも無条件に剽窃を認めようとは思わない。それがたしかに「盗作」だといえる根拠があるのだったら、はっきりそういって告発すればいい。もし間違えていたらあきらかな名誉毀損ではあるが、それだけの確信があるのならいってもかまわないだろう。
しかし「盗作」というほどの確信がないのに、ただちょっと似ているという理由だけで「パクリ」と非難することは、これは、ニコニコ大百科にもあるように、ひとに不快感を与える可能性が高いし、創作者のモチベーションをも下げる。控えるべきではないか。
「パクリ」と「盗作」はほぼ同じ意味合いの言葉だと思うが、しかしあきらかにニュアンスが違う。「パクリ」という言葉の軽さに対し、「盗作」という言葉には重い犯罪の響きがある。気軽には使いづらい言葉である。だから気軽な「パクリ」を使いたい気もちはわかる。
しかし、そもそも気軽に他人を盗作者扱いできることが問題なのだ。ひとを告発するのだったら、それなりの覚悟を持ってなすべきだろう。
「パクリ」死すべし、とぼくは考える。この言葉にあえて使うべき意味があるだろうか。
2010-09-04(土)
なぜぼくは偉そうで性格が悪いのか? あるいは親切にかかるコストの問題。
先日の記事について儀狄さんとスカイプで話した内容が、なかなかおもしろかったので、本人の許可を取って記事にする。ぼくが骨惜しみしない人間だったら、話した内容を的確にまとめてみせるのだが、面倒なので、該当箇所をコピー&ペーストしてしまおう。
なお、この会話は誤字などを直し、会話が前後した部分を修正してあるほかは、基本的に話したときそのままである。話はぼくが「乱暴な言葉づかいの人間は差別する」といった、その話題から始まる。
儀狄:ただ、このての排除ってのは怖いですよ。
海燕:まあね。
儀狄:例えば、「東京都が職員採用試験に乗馬を導入し、乗馬が一定のレベルに達していない人はいくら他の成績が良くても落とす」ってやるのは、たぶん特定層の優遇だと思う。
海燕:うむ。
儀狄:同意しました? 其の理由は何ですか?
海燕:乗馬をする能力をもつ特定層を優遇していることには間違いないんじゃないですか。
儀狄:『乗馬をすることは乗馬クラブに行けば誰にでもできる。排除ではない。今後も続けていく』と言われたら?
海燕:いや、それはほかの条件でも同じでしょ。簿記一級だって英検だって同じ。ただ、乗馬という技術が仕事に関係ないなら不条理だと感じますが。
儀狄:SPI(一般教養)ってどこまで仕事に関係あるんですかねー。
海燕:なるほど。それもそうだな。
海燕:まあ、学生が感じる不満ですよね。「こんなこと勉強して、社会で何の役に立つんだよ!」。もっともな不満ではある。
儀狄:で、上の乗馬の例は本当は何を排除しているかというと、「馬に乗れない人」ではありません。「貧乏人」です。
海燕:デジタルディバイドとかと同じ問題ですね。
儀狄:誰にでもできると言いましたが、乗馬を習える人はやっぱり家がそこそこ以上に裕福な人に限られます。なので、乗馬により東京都が職員採用するのは、貧しい人の排除であり、(公務員のように)元々家が裕福な人への優遇になります。
海燕:それはそうですね。
儀狄:乱暴な言葉遣いはあらためられるか。周囲が皆、乱暴な言葉遣いをしているような環境で育ち、2chを見てたような人だったらたぶんそれは『本人に染みついた文化』だ。改めようと思って簡単に改められるようなものでもない。
海燕:そうかなあ。仮にリアルではそうであるとしても、ネットでは考える時間がありますよ。
儀狄:いや、考えても無理でしょう。習慣なんだから。
海燕:人間には自由意志というものがあると思いますが。
儀狄:人間は育った環境の影響を大きく受ける物だと思います
海燕:影響を受けはするにしろ、支配されるものではないでしょう。親が暴力をふるう人間だったとして、子どもがそうなるとは限らない。
儀狄:それはむしろ、8割方『あらゆる理不尽な暴力に怯える人』に育つと思います。
海燕:まあ、たとえ話するとまた話がそれますが、周囲が乱暴な言葉づかいで育ったからといって乱暴な言葉づかいになるとは限らないでしょう。その可能性は相対的に高いとはいえるにしろ。
儀狄:そうですね。そこで乱暴な言葉づかいになるひととならない人の差って何だと思いますか。
海燕:最終的には個人の問題だと思いますけど、そこにいたるまで、周囲の影響とか、教育の問題とかはあるでしょうね。
儀狄:まぁそうですね。で、私は思うわけです。「乱暴な言葉づかいの人を差別するというのは、周囲が乱暴な言葉づかいをしていて、そしてそれを直してくれるような教師・友人・大人たちに恵まれなかった少数者(1〜5%くらい?)の排除ではないか?」と。
海燕:ある意味ではそうですね。
儀狄:それは「教養がないやつは差別する。2,2,2,2の間に四則記号を入れて10にできないヤツは差別する」とどう違うのでしょうか?
海燕:違わないと思いますよ。でも、教養がない奴とは付き合えないというひとは現実にいますよね。
儀狄:違わないんですね。では、その差別は「正しい」「正しくないがやむを得ない」「正しくない」のどれに分類されますか?
海燕:「正しくない」。正確には「好ましくない」。
儀狄:では、海燕さんの「乱暴な言葉づかいの人間は差別する」も好ましいことではないのですね?
海燕:ええ、ぼくはそう書いているはずですよ。「大人」なら乱暴な言葉遣いの相手にも相応の態度をとるはずだって。ただ、ぼくはそこまで大人にはなれない、と。
儀狄:なるほど。よく分かりました。
以上である。どう思われただろうか。個人的には、ぼくの論に対するかなりクリティカルな指摘になっていると思う。
儀狄さんが指摘するのは、こういう内容である。あなたは乱暴な口調のひとを排除するという。それは乱暴な口調のなかで育ち、丁寧な口調を学習しなかった少数者の排除にも繋がるのではないか。あなたはその行為を正しいと思うのか、と。
で、ぼくの答えは「好ましくない」である。正しいか正しくないかというと、また問題が変わってくるが、好ましいか好ましくないかといったら、好ましくないと思う。
たしかに、ぼくに絡んでくる何とも気にくわない乱暴な口調の人間は、実はその人生において丁寧な口調で話しかけるほうがより大きなメリットを生むことを学ばなかった可哀想なひとなのかもしれない。
そして、ぼくにはかれを善導し、より丁寧な口調で話すことを学習させることができるのかもしれない。そう考えると、乱暴な口調の人間でも、丁寧に対応してあげることが親切というものであろう。
そういう人間を自分のまわりから排除してそれでよしとするのは、かれが立ち直るチャンスを奪うことになるわけで、社会的な不公平を放置することに繋がる。
それはわかる。わかるのだが、ただ、そこまでわかっても、ぼくはそんなふうに親切になるつもりはない。なぜなら、ひとに親切にするにはコストがかかるからである。
この場合でいうと、乱暴な口調のひとに丁寧に対応することにはストレスが伴う。そしてかれの考えを変えさせ、かれの人生を良い方向に導くにはさらに膨大な時間と労力がかかる。ぼくにはそのコストを払う意思はない、ということである。
もちろん、それはある種の差別であり、排除である。ぼくが十分に親切であれば、そのような態度は取らないであろう。その意味で、ぼくはその程度の人間だ、といえる。しかし、見方を変えるなら、誰もがその程度の人間なのである。
ここにぼくより親切なひとがいるとして、そのひとはあいてがひとりなら乱暴な口調にも我慢できるかもしれない。しかし、十人ならどうだろう。百人なら? 一万人なら? どこかでかれにも対応し切れないときが来るはずだ。これは人間の限界である。ひとりで万人を救うことはできない。
だから、問題はどこで線をひくか、ということになる。だから、ぼくは「乱暴な口調の人間は差別する」というところで線をひく。それが正しいと思っているわけではないし、他のやり方もできるだろうとは思う。しかし、いずれにせよどこかで線をひかなければならないのだから、そこにひいても最悪とはいえないだろう、と考える。
これがぼくの答えだ。さらに考えを進めてみよう。先の記事のコメントで、こういうものがあった。
>丁寧なあいてには丁寧に、乱暴なあいてには乱暴に、相手にしていられない内容には無視を。
無視は構わないですけど、乱暴には乱暴で返すのは人からの評価を下げるだけですよ。
敵意持った人達からの的にもなりやすいし損しかしない。
乱暴な言葉を使うのをカッとなってやってんなら未熟としか言いようがないですが、意図的にやってんだから簡単に抑えられるでしょ。
さっきも書いたけど屑だと思ってる連中の相手をするよりは、好意を持ってくれてる人達に対し可能な限り返信してあげるのが大事なんじゃないの?
全くもってそのとおりである。では、なぜ、ぼくはそれがわかっていて時折り、乱暴な口調に対し乱暴に応じるのか。それは結局、ぼくの性格が悪いからである。
ぼくは乱暴な口調で攻撃されて「ご意見ありがとうございます。これからの参考にさせていただきます」と答えるような善人ではないのだ。そしてそのことを隠すつもりもないのだ。だから、ぼくは自分じしんを公開するのである。
もちろん、それもまたある種の演技なのだけれど、ぼくはそういうキャラとして自分を受け止めてもらうことを希望する。間違えてもいい人だなどと誤解してほしくない。
ぼくはよく偉そうだといわれる(そういうときは大抵、「それはお前に比べれば歴然と偉いからだ」と答える)。しかし、もちろん、謙虚にふるまってみせるのは簡単なことである。何も本当に謙虚になる必要はないのだ。ただブログに文章を書くときだけ、そう見えるようにすればいいだけのことなのだから。
しかし、ぼくはそうしない。いやなのだ。そんな態度を取りたくないのだ。そこに感じる欺瞞が耐えられないのである。結局のところ、一種の露悪に過ぎないし、ぼくの性格がつむじ曲がりの天邪鬼だということではある。
でも、ぼくはそういう奴なのである。それはもう、善悪の問題ではない。こういうぼくが気に食わないひともいくらでもいるだろうが、べつにそういうひとと友達になる必要もないことだから、それは放置する。ぼくの文章はこういうぼくを受け入れられるひとだけ読んでくれればいい。
なぜ海燕は偉そうで性格が悪いのか? それはつまり、そういうこと。まあ、ほんとは素で偉そうなんだけどね。
2010-09-01(水)
乱暴な言葉遣いの人間は差別する。
先日、Twitterにこのようなことを書いた。
特にネットでは、ぼくは意見の正否「だけ」で相手を判断するつもりはもはや全くない。下品な人間の相手をすることはいやだし、ひとの悪口を安全なところから吐く人間にかかわるのもいやだ。しらないひとと不毛な議論をする意欲もない。それで当然だと思っている。そうすべきでない理由はあるだろうか?
「意見と人格は切り離して考えるべき」「嫌なやつのいうことでも正論は正論」という考え方があることはわかるけれど、逆にいうと「いくら正論をいっていても嫌なやつは嫌なやつ」であるわけで、そういう人間は遠ざけたい。遠ざけることが逃げだとは思わないし、閉塞だとも感じない。精神衛生上の問題。
まあ、「意見だけはとりあえず受け入れて、その人物は遠ざける」というのがいちばん適切な対応かな……。「批判は受け容れるべき」という言葉には条件付きで賛成できるけれど、「批判は無条件で受け容れるべき」には全く賛成できないということ。だから、ぼくはブロックが悪いとは全然思いません。
この三つのツイート(呟き)は合計16のお気に入り登録を受けた。それなりに注目されたツイートであるといっていいだろう。
ここに書いたとおり、「人格と意見は切り離すべきである」、つまり「いやな奴の言ったことでも意見は意見として受け容れるべきだ」という考え方を、ぼくは拒絶する。正確には、「受け容れつづけること」を拒絶する、というべきか。
なるほど、それは一見、「成熟した大人の態度」に見えるし、尊敬すべきあり方には違いない。しかし、現実にそのような態度を一貫させようとしたら、はてしなくストレスが溜まっていくだろうし、ぼくは(労働ならともかく)ネットにそこまでの労力を割くつもりはない。
それが未熟だ、非論理的だという非難は甘んじて受けよう。しかし、一時的にせよ数千、数万という読者が存在するとき、そこから無数に投げかけられてくる「意見」を、純粋にその内容のみで受け止めるということは、ぼくには不可能である。大半のひとにも不可能だと思う。
「いやな奴の言ったことでも意見は意見として受け容れるべきだ」という意見は、実は自己正当化にも使われる。この意見は主語が「わたし」に変換されたとき、次のように変わる。「わたしがどんなに乱暴な文調を使おうと、わたしの意見を受け容れるべきだ。なぜならそれは正論なのだから」。
この言い分は正しいだろうか。ぼくは一面正しく、べつの面では正しくないと思う。なぜなら、「意見」を寄せるひとには、ごく丁寧な文調でそれを指摘することも可能であり、その選択肢を選ばなかったことは、当人の問題であるからだ。
「あまりにもばかばかしい主張に対しては乱暴な文調を使わざるをえない」? そんなことはありえない。どの文調を用いるかはあくまでその当人の問題であり、指摘/批判/非難されるあいての問題ではない。ここを混同してはならない。
たとえば、「1+1=2」という問題に対して、「1+1=3」だと主張するひとがいるとする。これは間違いを指摘されて当然である。しかし、その指摘の際、「1+1=2だと思います。ご注意ください」と丁寧に書くこともできれば、「1+1=2に決まっているだろ。ばかじゃねえか。死ね」と乱暴に書くこともできる。
両者は「主張」の中身は同じである。しかし、あきらかにその文調は異なる。むろん、その「主張」が正当である以上、それは受け容れるのが「大人の態度」ではあるだろう。しかし、後者のような文調で「意見」を受ければ気分を害することは当然だ。
「間違えたのは自分なのだから、正しい指摘を受けて気分を害することはおかしい」? そうは思わない。なぜなら、このとき、気分を害する原因は、その「主張」ではなく「文調」にあるからである。
ただ丁寧に伝えることもできることを、揶揄、皮肉、罵倒を交えて書くのは、敵意や悪意、もしくは何らかの負の感情の発露でなくて何であろう。そのような情緒を交えた文章に不快を感じることは、あまりにも当然のことではないか。
同じ内容を書くにしても、「届きやすい言葉遣い」と「届きづらい言葉遣い」が存在するということ。そして「届きやすい言葉遣い」を使ってもかまわないときに、あえて「届きづらい言葉遣い」をする人間はそのような意思の持ち主であるということ。
以上の理由で、ぼくは「届きづらい言葉遣い」をあえて用いる人間を差別する。そのような人間の意見も意見として受け入れはする程度には「大人」になるにせよ、かれに対し労力を払って対応する意思は全くない。それで当然だと思っている。何か問題があるだろうか?
2010-08-31(火)
録音。
28日に放送したラジオの録音をアップロードしました。
http://firestorage.jp/download/d841d1782a0f1dbd269e77ffdcf08856c3dc63a8






















































