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2005-12-29(木)

 「GUNSLINGER GIRL」論


 以下の文章は、以前(3年くらい前かな?)「Gunslringer girl」について書いた文章をリライトしたものです。無駄を刈り込んでいった結果、なんと半分以下の分量になっています(ちょっと文章がうまく繋がっていないかも)。

 当時は誤解されたくないという意識がありましたから、ついつい文章が過剰になっていました。いつか書き直したいという思いはあったので、この機会に挑戦することにしました。

 刈り込んでいった結果、インパクトが薄れている部分はあるでしょうが、内容的にはほとんど変わっていません。したがって、以前の文章を知っている方は読む必要がありません。

 また、当時はまだ単行本も2冊しか出ていませんでしたが、この作品に対する基本的な考えはその頃から大きくは変わっていません(技術的水準はかなり向上した気がしますが)。

 いったいこの物語はどこへ着地するのでしょうか。それは「萌え」とよばれる文化そのものの行末をも占なうものなのではないかと思います。


GUNSLINGER GIRL 6

GUNSLINGER GIRL 6

 「GUNSLINGER GIRL」の舞台はイタリアである。

 この国の公益法人「社会福祉公社」は、表向きは障害者のための福祉施設だが、陰で少女に「条件付け」と呼ばれる薬物洗脳をほどこし、暗殺に利用している。

 少女たちひとりひとりには管理のため「フラテッロ(兄弟)」と呼ばれる男たちが付き、その時々で主人のように、家族のように、恋人のように接している。

 物語は、少女たちとフラテッロの非情なドラマを静かに追っていく。映像化もされ、いままさに議論のただなかにある作品である。

 その内容の正否については、賛否両論かまびすしい。

 私見では、作品のリアリティという次元で見ると、いくつかの目立つ難点を抱えた作品に思える。

 そもそも、どう考えても身寄りのない子供を見つけだして暗殺仕事をさせる行為はリスクに見合わない。

 もしこの犯罪が発覚すればイタリア政府を転覆させることは確実だが、作中の「公社」は組織の存在をしっかりと隠しているようには見えないのだ。

 また、義体化少女たちは精神的に不安定でときに突発的な行動をとる。なんのためにわざわざこういったあやういこどもたちを使うのか、説得力が薄い。

 それをいうなら、なぜ義体化兵士は少女だけなのか。

 もちろん、実際には「かわいい女の子に銃を持たせて戦わせたい」という欲望が先にあり、設定はそれを補うために生まれたのだろう。

 だが、このたったひとつの無理が、作品の質感を軽薄なものにしてしまっている気がする。

 ただ、作品の性質を考えると、こういった「ツッコミ」はあまり意味がないかもしれない。

 「GUNSLINGER GIRL」が話題にのぼるとき、大抵、それはこの作品のリアリティではなく、モラルについて語るためである。

 つまり、少女たちを食い物にしている(ように見える)「公社」の男たちをどう見るかという点が問題なのだ。

 ジャンやジョゼといったフラテッロたちは、少女たちを洗脳し、道具として利用する。

 しかし、作者が作中でかれらを非難することはない。このようなモラルを無視した作品が存在して良いのだろうか?

 もちろん良いのだろう。結局のところ、漫画は漫画であり、その内容が反モラル的だからという理由で否定されるべきではないと思う。

 だが、一方では、この作品世界が重く病んでいることもまた事実なのだ。

 それは、作品そのものの問題というより、作品の読まれ方の問題かもしれない。

 この作品に問題点があるすれば、それは「悪い奴が悪そうに描かれていない」こと、これに尽きる。

 「GUNSLINGER GIRL」において、少女たちを調教・改造・管理・使役するフラテッロの男たちは、決して単なる悪役ではなく、主人公格の存在である。

 したがって、そこにはかれらの人柄に対する想像(誤読?)の余地がある。

 年端もいかないこどもの肉体を切り刻み、薬漬けにするジョゼは、常識的に考えれば悪辣な男だ。

 だが、かれを自分の無力に苦悩する心優しい慈善事業家かなにかのように見ることもできるだろう。そこにこそ、この作品の焦点はある。作品の最も醜悪な部分にオブラートが被せられているということ。

 「GUNSLINGER GIRL」は、すくなくとも僕の目にはすさまじくグロテスクな物語に思える。そのグロテスクさを実感しながら、それでも作品を楽しむというならそれも良いだろう。

 しかし、せめてジョゼの行為がヘンリエッタからどれほどのものを奪ったのか、それだけは認識して読むべきなのではないだろうか。

 「家族の死体の隣で一晩中暴行を受けて」いたヘンリエッタを前にして、ジョゼは思う。

 「国立病院で会った彼女は身も心もぼろぼろで 僕はこの子をパートナーに選んだ 善行を積みたかったのか同情したのか とにかく彼女を救いたかった」。

 まるで慈善をほどこしてやったような言い草。

 だが忘れてはならない。ジョゼは使い捨てにする児童を探しまわった結果として、ヘンリエッタに出会ったのだ。ヘンリエッタを救うためにフラテッロを職業にしたわけではない。

 ヘンリエッタが哀れだから、可哀想だから、守ってやるべき存在だから、洗脳して助けてやったのだ、とジョゼは考えているように見える(「彼女にとって幸いだったのは たいてい条件付けの結果 以前の記憶が消されることだ」)。

 しかしそこにはあからさまな欺瞞がある。たしかに洗脳されたヘンリエッタは幸福かもしれないが、それはただそうあるように洗脳されているからにすぎない。

 ジョゼは本来ヘンリエッタの問題であるものを自分の問題であるかのように思い込み、ヘンリエッタの権利であるものを自分の権利であるかのように思い込んでいる。

 かれの善意は免罪符にならない。ひとはときに純粋な善意から凄惨な悪をなすものだから。

 ジョゼは語る。「義体を使うためには「条件付け」が必要だ ヘンリエッタも例外じゃない でも僕は大量の投薬で忠誠心をあおりはしないし 愛情を強要したりもしない」。

 そしてその言葉に対し、「そんなに違うものなのか? 程度が低けりゃ許される問題じゃないだろう」と返されると、「あの子を公社や自分のために使っているのはわかってる わかっているんだ……」と呟く。

 こう書いていくと、ジョゼは加害者というより被害者であるような気もする。かれは決して極悪人ではない。同情すべき点も多々ある。そんなふうにも思える。

 だが、多少ひねくれた見方をするなら、相田はジョゼの苦悩に正当性があるように見せるために、ただそのためだけに、ヘンリエッタの手足を切り取り、家族の亡骸の横で何時間も強姦してみせたのではないか。

 もちろんジョゼやフラテッロたちの人間性に対する評価は、作品の質に対する評価と直結しない。

 作者は冷静な意図と計算のもとにかれらの偽善性を設定したのかもしれない。

 それに、もしかしたらかれらフラテッロも、巨大なシステムのなかの歯車のひとつに過ぎず、罪悪感を感じながらもやむをえず少女たちを「運用」しているのかもしれないではないか。

 ただ、個人的にはそうは考えない。やはりこれだけの数の大人の男たちが雁首そろえていて最悪の事態を改善しようとしない様子は異様である。

 そもそもこの「公社」という組織はなんなのだろう。かれらのやりくちはまるで独裁国家の秘密警察そのものだ。

 こうまで派手に銃撃戦を繰り広げ、目撃者があればあっさりと殺すというやりかたで、どうやって秘密を守っているのか見当もつかない。

 リアリティがないなどという野暮はもう言わないにしても、存在目的がまるで見えないこの組織の非常識さは、作品全体の不透明感を強める役割を果たしている。

 本編第2話では、義体少女のひとりリコが、彼女のフラテッロであるジャンの命令にしたがって、知り合ったばかりの少年を殺害してしまう。哀しくも冷ややかなエピソード。

 だが、このときリコが殺したのがこの少年ひとりだったことは偶然にすぎない。彼女は、ふたりに見られていればふたりを、十人なら十人を殺していただろう。

 ジャンはそのことを承知で目撃者の抹消を命令したはずだ。無辜の民間人の生命より、政治家から降りてくる依頼が優先されるこの思想。こういう思想の持ち主をテロリストと呼ぶ。「公社」の仕事は国家テロなのである。

 「GUNSLINGER GIRL」以前の漫画における秘密組織の数々、たとえば「新世紀エヴァンゲリオン」における「ネルフ」も、たしかに正体不明の超法規的組織ではあった。

 だが、この作品の「公社」は、やることなすことがあまりに乱暴かつ凶悪で、そもそもこの集団になんらかの統一された目的があるのかという疑問を呼び起こす。

 ひょっとしたら、ただ殺すためだけに殺しているだけではないのか。

 さもなければ、はじめの目的などとうに忘れ去り、自走する無目的のシステムに操られるまま殺戮のワルツを踊っているのではないか。

 いずれにしろ、ここには自分の意思でこどもたちを守ろうとするおとなはいない。

 この作品はどこまでも成熟することを拒絶し、おとなの登場を拒んできた「萌え漫画」が至ったひとつの到達点でもある。

 したがってこどもたちは暴走するシステムのなかで人工の幸福感に満たされ、うつろな笑顔を浮かべながら「消費」されていく。

 その光景は、あたかも生み出されては消費され、忘れ去られて消えていく山のような「萌えキャラ」たちを見るかのようだ。

 その意味で「GUNSLINGER GIRL」はたぶん究極の萌え漫画である。

 相田はここで、妹萌え、メイド萌え、幼馴染み萌え、メガネっ娘萌えといった項目に、さりげなく「義体萌え」と「洗脳萌え」を付け加えてみせた。

 ここで少女たちが背負う悲劇は、現代社会を象徴するリアルな問題というよりは、単に読者の興味を惹くために付与された「萌え属性」にすぎない。

 僕たちはいつのまにこれほど暗い袋小路に迷いこんでしまったのだろう?

 読者の同情を惹くために少女たちを傷つけ傷つけ傷つける方法論のエスカレーションは、ついにこんな作品を産み落としてしまった。

 今後、「GUNSLINGER GIRL」がどこまでたどり着くのか、ぼくは戦々恐々として注目している。

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