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Something Orange このページをアンテナに追加

2006-06-09(金)


 終わる物語と終わらない物語

終わるべく進むはずの物語が、短編集で終わらない物語にされていくのを見るのは悲しいです。

だがしかし、「自分の好きなキャラクタ・物語にまた逢える」という麻薬のぬるま湯につかるのが楽しいのもまた事実です。

 時は過ぎる。どんな物語も、いつかは終わる。それを知っているのに、ぼくらは時々永遠に終わらない物語(ネバーエンディングストーリー)をもとめてしまう。その物語世界が好きだから。あるいは、そこに生きている人間たちと離れたくないから。

 そしてそんな読者の望みに応えて、「終わらない物語」は生まれる。しかし、現代の商業主義は「終わる物語」でも「終わらない物語」でもない「終われない物語」を大量に生み出した。あきらかに物語的必然性を超えて続いていく物語に、多くのひとが失望した。

 それは、そのときのことだけを考えるなら商業的に有益な選択であったかもしれない。しかし、長期的には業界全体に対する不信感を生み出し、不利益につながった一面もあるのではないか。

 すべてを語り尽くしたはずなのに、終わることなく延々と続く物語は、なんとなく物悲しいものだ。そういった物語は、完全に読者に飽きられ、人気が衰えてはじめて終わっていった。

 そもそもぼくたちはどうして物語に「終わる」ことを求めるのだろうか。こんなに物語を愛しているのに。

 それは、終わっていない物語はしょせん未完成品だからだ。その物語が続いているかぎり、どんな事実も上書きされる可能性がある。死んだと思ったキャラクターが生き返ったり、善人だと思ったひとが悪人だったり――あらゆる事実は完結のそのときまで確定しない。

 ということは、紛うかたなき傑作と思われた作品が、目もあてられない凡作に堕落する可能性はつねにあるわけだ。だからぼくたちは美しい完結をのぞむ。でもやっぱり大好きなあのキャラクターと別れることは辛くて――ああ矛盾。

 しかし、やはり作家は読者が泣こうがわめこうが非情に物語を完結させるべきではないのか、とぼくは思う。なにより、みごとな物語がみごとに完結する瞬間には、ことばに尽くせぬ感動がある。

 ひとつの円環が閉じられることのえもいわれぬカタルシス。自分が愛した物語が、ひとつの作品として完成するよろこび。

 結局のところ、どんな物語もいつか終わってしまうことには変わりはないのだ。ひきのばして、ひきのばして終わるよりも、惜しまれつつみごとに完結するほうが良いではないか。まあ、そう簡単にいくものでもないんだろうけれど、でもそう思う。

 人気絶頂で「戯言シリーズ」を完結させた西尾維新は、やはりただ者ではない。そういえば、「銀盤カレイドスコープ」の最終巻はどうなったんだろうね。終わりどころを間違えた作品だった、ということにならなければいいのだが。