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2006-07-15(土)

 萌えカルチャーと教養主義 その2 ヒエラルキー崩壊


 ふと気付いたら4日間も更新を休んでしまった。

 朝起きるときにはちゃんと一日ぶんあったはずの時間が、夜寝るときにはすっかりなくなっているのはなぜなんだろう。どこへ消えたんだ、おれの時間は? ブラックホールにでものみこまれたのか? まあいいけど。

 さて、前回は「最近は情報量が多いから、むかしの作品とか振り返れないのも無理ないんじゃね」というところまで話したのでした。

 しかし、もちろんそれだけで「萌えオタにおける反教養指向」を説明できるはずもない。

 このことについてもう少し深く考えるためには、「昨今のヲタクカルチャーや萌え文化」が、「教養」を重視する岡田斗司夫的なオタク趣味とはあくまで別物だということを理解しておく必要があると思います。

 そもそもあるキャラクターに「萌える」ということは、きわめて感覚的な行為であるわけです。過去10年間の美少女キャラクターの変遷を理解した上でなければ萌えられない、とかいう性質のものではない。

 萌えカルチャーをたのしむためになにより大切なのは、そのキャラクターに深く感情移入しうる感性であって、間違えても知識ではない。

 岡田さんの「オタク学入門」では、オタクには上下があり、それはかれの知識量や作品に対する探求度によって測ることができる、という思想がはっきりと打ち出されている。

 だからオタクには上下がある。オタク度は「濃い」「薄い」で表現される。濃い、というのはオタク文化における「情熱が激しい」というか、単に「好き」とか「面白かった」では終わらない、終われない、ありあまる気持ちといえる。

(中略)

 彼は自分のその情熱のなさ、濃くない態度に「まだまだ」と思う。そして自分はなぜ、もっともっと濃くなれないのかと悩む。「好き」というだけでアニメを見ているわけではないのだ。もっと濃く、もっと深くを目指して日々、精進する。これこそがオタクの道である。

――岡田斗司夫「オタク学入門」

 しかし、おそらくいまどきの萌えオタの多くにとってこういった「濃い」「薄い」といった尺度は意味がないものでしょう。

 もちろん、現代の軟弱な萌えオタにも、たとえばエロゲーキャラの抱き枕を買ってしまった自分の「濃さ」を自慢する、といった形での濃さ自慢はまだのこっているかもしれません。

 好きな漫画の単行本を何十冊も「大人買い」してネットで自慢する、といった行為もあきらかにこの文脈で語れる行為です。

 けれど、それでもやはり萌えオタの行動原理は岡田斗司夫的な意味でのオタクとは別物だと思う。そしてそういった萌えオタのありかたは、古い世代を「いまどきのオタクはなんと薄くなってしまったのか」と嘆かせるかもしれない。

 その意味で「オタクは死んだ」というのなら、それはたぶんまちがえていない。しかし、本当にそのことは嘆くべきことなのでしょうか。

 萌えカルチャーと教養主義 その3 感性の時代


 じつは「オタク学入門」には、わずか数ページではありますが、美少女キャラクターについてふれた一節が存在します。

 そこで岡田さんはこういったキャラクターには「文脈」があり、それを把握しておくことが大切だ、という話をしている。しかし、ふしぎなことに、それではその「文脈」というものが具体的にどのようなしろものであるかは語られない。

 むしろそのような文脈とは、説明不要な、あるいは説明不可能なものとして捉えられているように読める。

 つまり、わかるひとにとってはあまりに自明なのに、わからないひとにとってはさっぱりわからない、そういうものであるということなのでしょう。

 しかもそれは時代時代によって瞬く間に移り変わっていく。それを捉えることができるのは、膨大な知識や執拗な分析ではなく、ある種の感性だと思います。

 まあ、ある作品を楽しむためにはそれなりの感受性が必要とされるという、あたりまえすぎるほどあたりまえの話なんですが*1

 ここから、「オタク」が死んだ時代、「萌え」の時代とは、即ち感性の時代だということもできるでしょう。ここにおいて、「濃さ」という尺度、あるいはヒエラルキーはもはや意味をなさない。旧世代から「薄い」と批判される新世代のオタクたちは、じっさいには薄いのではなく、「濃さ」に興味をもっていないのです。

 岡田さんに対しては、美少女ゲームやライトノベルを黙殺したという批判もあるわけですが、そもそも岡田さんが代表する世代の価値観では「Kanon」や「AIR」は語れないといったほうが正確なのではないかな。

 これらの作品はある意味、萌えカルチャーを代表する極北的傑作だと思いますが、緻密なプロットだの合理的解決だのを期待するかぎり、どうしようもない駄作でしかない。

 なにしろ山ほど矛盾があるし、辻褄はあっていないし、無駄も多い、しかし、強く感情に訴えかける力だけはある、そういう「感性の時代」の産物だからです。

 もちろんいまでもそういった矛盾や齟齬に対して、「こう考えれば矛盾しなくなる」と議論を行っているひとは存在する。

 しかし、そういったシャーロッキアン的行動は、「機動戦士ガンダム」の架空年表を作るのには役に立っても、泣きゲーの設定を補完するためにはたいして意味をなさないのではないと思う。「To Heart」や「Kanon」やはまだしも「AIR」なんて、どう考えたって矛盾だらけですからね。

 さて、そういうわけで「昨今のヲタクカルチャーや萌え文化」はオタク第一世代的の文化に比べると、非常に感性に片寄った文化であるわけです。そう考えると、べつの時代の感性の産物である「古典」とされる作品が受け容れられにくいのもしかたないのではないかと思うのです。

 もちろん、なにかのきっかけがあればその壁を超えられるかもしれませんが、それでも「ネギま!」から「アンナ・カレーニナ」に飛ぶのはなかなかむずかしいでしょう。この危機をどう超えるか、思案のしどころかもしれません。(おしまい)

*1:たとえば音楽を楽しむために感性が必要であることは、だれも疑わないだろう。それなのにオタク文化にかんしてはそれがほとんど無視されてきたという事実は、この文化の歪み、あるいは偏向を意味してはいないだろうか。