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2006-08-22(火)

 作家の坂東眞砂子が18日の日経新聞で日常的に子猫を殺していると語る


 昨日、一日中この記事のことを考えていた。直木賞作家の坂東眞砂子が自分の飼い猫のこどもを間引いていたという話である。生まれたての子猫を殺害することになるわけで、当然のごとくネットでは非難の嵐が巻き起こっている。

 感情的にはぼくもそれに賛成しないこともない。まだなにも知らない無垢な子猫を殺すなんて、なんというひどい奴! だが、はたしてそれで済む話だろうか。

 ぼくの場合、わりとむかしから、動物愛護とか動物虐待という概念には違和感を感じていた。自然界では弱肉強食の原理で生きている動物をつかまえて、虐待だの愛護だのということには、どこかに欺瞞が隠れているように思えたからだ。

 だから、とりあえず今回は感情の声は無視することにしようと思う。そのかわり理性の声に耳を傾け、少し真剣に考えてみることにしよう。

 さて、あらためて考えてみる。本当に子猫を殺すことは「悪い」ことなのだろうか?

 可愛くなければ殺してもいいのか、という問題というエントリでは、「この手の話を猛烈に批判する人は、猫殺しがダメでゴキブリ殺しがアリとされる矛盾に気がついているのだろうか。」とこの問題を捉えている。

 これには一理あると思う。ぼくらはだれもみな、平然と蚊やゴキブリを殺す。邪魔だから。わずらわしいから。これは「悪い」ことだろうか?

 あるいはまた、ぼくらはみな牛や豚を食べる。腹が減るから。うまいものを食べたいから。これは本当は「悪い」ことなのだろうか?

 あるいはこのふたつが「悪い」ことではなく、そして子猫殺しが「悪い」ことだとするなら、蚊や家畜と猫の差はどこにあるのだろう。

 知能が低い生き物なら殺しても許されるのか? あるいは、見た目がかわいくなければ許されるのか? それとも、食べるためなら許されるのだろうか? よく、わからない。

 もちろん、感情的には容易にラインを引くことができる。蚊が潰されて死んでしまうのも、牛が解体されてひとの胃袋に入るのも、可哀想でもなんでもないが、子猫が殺されるのは可哀想だ。そういうことはできるだろう。

 しかし、それは結局、個人レベルの感傷に過ぎない。自分が可哀想だと思うのだからそれを尊重しろ、と他人に押し付けることはとても危険だと思う。

 そりゃ、たしかに猫はかわいいよ。萌えるよ。しかし、ひとつの命に対し、かわいいかかわいくないか、という次元でその生存権を測るのはおかしい気もする。

 そもそも「かわいい」とはどういうことなのか。それはたぶん人間が感情移入しやすいということだ。我々は猫が本当はなにを考えているのか、知ることができない。しかし、その心を想像することはできる。

 おなかいっぱいで寝ている姿を見て、しあわせそうだ、と感じたりとか。足もとにじゃれてくるその感触から、かまってほしいのかな、と思ったりとか。

 というか、そうやって感情移入することがたやすい種類の生き物だからこそ、猫は愛玩動物として人気を集めているのだろう。

 ひとにも寄るだろうが、かえるや蛇におなじように感情移入することはむずかしい。それらは見かけからして人間とはあまりにも異質だからである。

 ここで注意しなければならないのは、じっさいには猫が人間が考えているとおりに思っているという証拠はなにもない、ということだ。ひとと猫はあくまでおたがいに理解しあえないままである。

 ここを外して、「猫の意思」を代弁しはじめると、おかしなことになる。坂東眞砂子は「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。」と書いている。

 しかし、ぼくなどはこの時点で既におかしいのではないかと思う。猫に言語化できるような意識などないのだから、「もし」という仮定は無意味なのだ。

 たとえば切り倒されようとしている樹を見て、「もし樹が言葉を話せるならば、倒されたくないというだろう」と代弁することにどんな意味があるだろう? ここでは「樹の意思」とは、樹を観察する人間の意思に過ぎないわけだ。

 しかし、こういった形での感情移入は、動物虐待に反対するサイドにもしばしば見られるということがぼくの実感である。

 ここでいきなり話が変わってしまうのだが、「こげんた」という猫をご存知だろうか。2ちゃんねるの掲示板上でリアルタイムに中継しながら殺された一匹の猫である。

 このときも、当然、さまざまな批判誹謗罵詈雑言が渦巻いたらしい。そして、この「こげんた」のことを記した「Dearこげんた」というサイトのトップページにはこんな文章が掲載されている。

ママをさがして7こくらいよるをすごした。。

ママはぼくがきらいになったのかな?

ママはどこへいっちゃったんだろう。

すてられたの?

おなかがすいてぺこぺこになった。

しかたがないから ゴミすてばにいたんだ

そしたら

おにいちゃんがきて ぼくをいえにつれていった

あたらしいおうちだとおもって

とっても うれしかった。

おいしいごはんもくれたのに、、

なんで?

なんでぼくのしっぽをきったの?

なんでぼくのあしをきったの?

ぼく いいこにしてたよね

なんのために ぼく うまれたの?

 ぼくは、こういった文章を非常に悪趣味だと感じる種類の人間である。会ったこともない猫の内面をかってに擬人化するなよ、と思う。

 まあそれは余談だが、なにがいいたいかというと、人間は決して「その猫のために」なにかをするなどということはできないということだ。

 だから、ぼくは猫を去勢したり、不妊手術を受けさせたりすることが、「その猫のためを思った」「飼い主の責任を果たす」行為だとは思わない。

 そこにあるものは、たんなる人間のエゴに過ぎない。そう、生まれたての子猫を殺すことがそうであるように。いずれにしてもそこにはみずからの都合だけを考えてほかの生き物の生を弄ぶ人間の業が噴出している。

 しかし、だから親猫に不妊手術を行うことも子猫を殺すことも同じだ、とはやはりいえないだろう。「生まれてくる可能性」を削ることと、「生まれてきたものの命」を奪うこととのあいだには、あきらかな落差がある。

 といっても、ぼくは必ずしも不妊手術のほうがより適切な方法だとは考えない。そこらへんのことは、正直いって、よくわからない。ごめんよ。

 ひとついえるのは、坂東眞砂子が不妊手術が不適切で、猫を殺すことが適切な行為だと考えているわけではない、ということだ。

 上記ページのコメント部分には、「避妊手術は駄目で殺すのは良いという価値観w」というコメントがあるが、坂東はそんなことを書いてはいない。

 本来、不妊手術も猫殺しも「駄目」なのだ。だが、現実に猫を飼う飼い主として、どちらかを選ばなければならない。だから、自分は生まれてきた猫を殺すほうを選ぶ、と書いているに過ぎない。

 もちろん、第三の方法、たとえば生まれてきた子猫も親猫といっしょに飼い育てるといったこともできるだろう。しかし、その方法を選んでも、いつかは生まれてきたこどもが子を産むことになる。その時点で板東はふたたび選択を迫られるわけだ。

 なんだか煮え切らないままだが、ぼくは頭が悪いので、このくらいのことしか書けない。もっといろいろ書くことがある気もするが、さすがに長文を書くのも疲れたのでこれくらいにしておこう。あなたのご意見をお聞かせくださいませませ。

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