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2006-08-28(月)


マリア様がみてる 6 (マーガレットコミックス)

マリア様がみてる 6 (マーガレットコミックス)

 本の雑誌編集部編の「よりぬき読書相談室」は、読書にかんするさまざまな要望に対して海千山千の読書玄人たちが回答をならべた本だ。

 そのなかで、「BL(ボーイズ・ラブ)ならぬGL(ガールズ・ラブ)小説を読みたい」という声に対して、回答の東えりかはこのようにこたえている。

 「GL小説」でいちばん売れていると思われるのは今野緒雪「マリア様がみてる」シリーズではないでしょうか? 集英社のコバルト文庫よりシリーズ化されている、カトリック系私立リリアン女学園を舞台にした物語です。すみません、ワタシは一冊も読み通したことがないのですが、熱心な読者が多いと聞いています。女性どうしの恋愛の小説といえば中山可穂。そういえば新作が出ていませんが、文庫になった『マラケシュ心中』(講談社文庫)は性をこえた純愛物語で、心が痛くなるようでした。

 というわけで、「マリア様がみてる」は識者からもGL小説の代表格とみなされているようである(まあ、そのわりにこのひとは実物を読んでいないようだが)。

 その「マリみて」を長沢智が漫画化したのがこの作品。これで巻数は6巻目になる。小説作品の漫画化として、非常によくまとまった作品だと思う。

 小説をそのまま漫画の形にすることはできないので、必然的に原作を換骨奪胎することになるのだが、おさえるべきところをおさえ、削るべきところを削り、みごとに一作の漫画作品としてたのしめるものに仕上げている。いやあ、この頃の「マリみて」はほんとにおもしろかったですね。

 しかし、じつは「マリみて」のような作品が登場するまでには長い歴史があるのであった。

 いわゆる「百合」ジャンルの先達、今野緒雪の遠い祖先にあたる作家には、吉屋信子がいる。大正・昭和にかけて活躍した吉屋は既に半世紀以上も前の作家ということになるが、少女どうしの「S」の関係を描いて、当時、圧倒的支持を得たという。

 吉屋の小説は、ときに感傷的すぎるきらいはあるが、いま読んでもじゅうぶんおもしろい。最近では嶽本野ばらがこの作家に対してリスペクトを表明しているので、知っている方も多いだろう。

 ところが、吉屋のあと、「百合」作品の後継作は少なくなり、また、内容的に偏りがみられるようになっていく。

 藤本由香里は「私の居場所はどこにあるの?」のなかで、そのことについて、このように記している。

 吉屋信子の時代には、女子校というのは「結婚」までの避難所であり、「結婚」というのは、たいてい否も応もなく親から押しつけられるものだった。したがって少女たちは、その「結婚」までの限られた時間の中で、唯一自分で自由に選びとれる愛、すなわち女どうしの愛のファンタジーを求め、それを味わったのである。しかし「自由恋愛」が一般化するにつれ、「異性との恋愛」が、女が自分の人生を、「結婚」を貫いて選びとるための道として浮上してくる。いわゆる近代ロマンチックラブイデオロギーの成立である。そしてこの強固なファンタジーが他のファンタジーを駆逐していってしまったのだ……。

 ようするに男女間の自由恋愛という形式が成立する前には存在しえた幻想が、それ以降は成立しえなくなってしまったということか。

 「男女間の自由恋愛」というまぶしい太陽のかがやきが、ほかの小さな星ぼしの光をかき消してしまうところを想像すればあたっているかもしれない(でも、それでもボーイズ・ラブものは成立しえたんだけどね)。

 同書は少女漫画の批評/研究書なので、その後、少女漫画のなかでどのように百合作品が描かれてきたかを詳細に見ている。藤本によれば、これらの作品にはいくつかの明白な共通点がある。

 まず、主人公の二人が、美人でかっこよく、はっきりした性格のスーパーウーマンタイプと、いかにも女の子女の子したあどけないタイプに設定されること。

 次に、このふたりが家庭的な不幸を背負っていること。それから、ふたりのレズビアン関係が、必ず噂になり、スキャンダルとしてあつかわれること。

 そしてその結果、どういうわけか必ずスーパーウーマンタイプの女性が死ぬことになること。とにかく百合漫画(という言葉はなかっただろうが)は、宿命的に暗い結末を背負っていたわけである。

 こういった決まりきった図式が壊れはじめるのは、90年代のことである。秋里和国の「10回目の十戒」(未読)や清水玲子の「輝夜姫」など、個性的なテーマ性の百合的な作品があらわれはじめる(まあ、「輝夜姫」は途中で路線変更してしまうんですが)。

 そしてこれに並行して、同人業界では「美少女戦士セーラームーン」がブームを巻き起こした(らしい)。

 その頃、ぼくは同人誌などには近づくべくもない生活をしていたのでじっさいは知らないが、やっぱり百合漫画の歴史の語るとき、「セーラームーン」の存在は大きいようだ(「すべてを一変させたのが、セラムンです。」と語るひともいる)。

 藤本はこれに並行する百合小説やレズビアン小説の流れを書いていないが、松浦理英子「ナチュラル・・ウーマン」が出版されたのが94年ということを考えると、やはりレズビアン・テーマの作品が広く受け容れられるようになっていったのは90年代中期からなのかな、という気はする。

 まあ、ここらへんはいいかげんなことを書くと突っ込みが入りそうなので、このくらいにしておこう。そしていろいろあって、「マリみて」に至る、というわけだ。

 べつだんレズビアン・テーマにこだわりをもっていない男のいうことだから、あまり信用できるものではないかもしれないが、「マリみて」の登場はやはり斬新に感じた。

 冒頭の引用文では「GL小説」に分類されているが、厳密にいうならば「マリみて」は「百合小説」には入らないだろう。しかし、それでも「マリみて」がその後の百合小説や百合漫画に大きく影響をあたえていることはたしかだと思う。

 それでは、設定だけならむしろ吉屋信子の時代に退行したかと見えるほど旧態依然としたこの作品の、どこがそれほどあたらしかったのか。

 それは女性どうしの関係性を徹底的にポジティヴに描いた、ということに尽きると思う。とにかく、「マリみて」の世界には男性をめぐる女性どうしの嫉妬やあらそいといったものが存在しないのである。

 ひとりの男性としてほぼ完璧な能力を誇る「王子様」である柏木は、第一巻の段階で少女たちの王国から蹴りだされてしまう。

 女性は、女性だけで、嫉妬も争いもないポジティヴな関係をつくりだすことができる――それこそが、「マリみて」が示した福音だった。

 ここには、型通りの人物像と暗い結末しか用意できなかった以前の百合作品とはあきらかに違う次元の価値観が見て取れる。その背景にあるのは、作家と読者の女性性に対する意識の変容なのだろう。

 また、この作品が女性読者のみならず男性読者にも広く受け容れられたことの背景には、やはり男性側の意識変容もあったことはまちがいない。

 少なくとも、この時点で多くの男性読者は男性視点が存在しない物語をフィクションとして楽しむことができたわけだ。これもまた、おそらくは長い時間をかけて少しずつ進んできた変化のあらわれである。

 そして、そのあたらしい意識が「あずまんが大王」のような、百合作品ではないが、しかし男性登場人物がほとんど存在しない作品を生み出す背景になっていることもたしかだと思う。

 熊田一雄は、その著書「男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学」のなかで、男性読者による百合作品の受容のされ方に注目している。

 熊田は百合作品を需要する男性読者について、「百合を愛好する男性は、作品を外部の視点から一方的に観察しているんではなく、作品中の登場人物である女性に自己同一化しているのであり、やはり彼らの男性性は「フェミニスト的偽装」からさらなる変容を遂げ、確実に一歩前進している」と書いている。

 ここらへん、ぼくなどはどうなのかなあ、と思わないこともない。少なくともぼくは必ずしも「作品中の登場人物である女性に自己同一化」して百合作品を読んでいないと思う。

 そういえば、初期の「マリみて」を読んでいた頃は、「この輪のなかに入りたいなあ」と思って読んでいた気もするが、それは百合作品一般に対する感慨というよりも、むしろ「マリみて」の特殊事情ではないか、とも思える。

 まあ、主人公の少年が女性に性転換して、ふたりの女性と三角関係を繰り広げてしまう「かしまし」などを見ると、「女性になりたい」という願望をもった男性層はたしかに存在するのかもしれない、とは思う。

 しかし、個人的にはどうも熊田の考えは楽観的すぎるのではないか、と思えてならない。むしろオタクはミソジニー(女性嫌悪)の方向に進んでいるような気すらするからなあ。ああ、やだやだ。

 さて、「マリみて」の話から、かなり遠いところまで来てしまったようだ。なにを長々と書いているんだ、ぼくは。ひさしぶりに読んだ「マリみて」が予想外におもしろかったので、つい書きすぎてしまったようだ。

 この巻を読んであらためて思ったのだが、この作品の素晴らしさは、「どんなに辛い別れがあっても、時はかならずあたらしい出逢いをもたらす」という思想につらぬかれているところにある。

 この巻には志摩子が聖との別れを思って悲しむ場面が出てくる。これだけを見れば悲しいシーンだ。しかし、来たるべき春に彼女が乃梨子と出逢うことを知っている読者にとって、この展開はなんともいえない感慨をもたらす。

 ここらへんの繊細な心理描写は、百合(っぽい)作品ならではのものといえるかもしれない。いや、べつに、ぼくはそれほどの百合好きじゃないんですけどね。たぶん。

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