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2006-10-23(月)


初回限定版 魔法先生ネギま!(16) (プレミアムKC)

初回限定版 魔法先生ネギま!(16) (プレミアムKC)

 〈魔法先生ネギま!〉の今後の展開にかんする話。長いです。

つまりね、世界には、ルールとか過去と理(ことわり)があります。一番大きなものは、時間は元に戻せない、ということです。あたりまえですが(笑)。

しかし、それを個人の動機で曲げてしまうと、その動機の出発点は、家族を殺されたくないとか言う純粋な動機でも、それに波及して、その代わりに誰かが死んでしまったりすることが発生してしまいます。

だから、個人の動機で、世界の理を曲げることは、許されないんです。倫理的に。

「起きてしまった事」は、受け入れこと以外の選択肢がないんです。

何かを変えるならば、「過去を変える」のではなく、「未来を変える」べく動くべきなんです。
 

 ぶっちゃけてしまうと、あの状況を覆し帰ってきたネギ一味の「動機」は、「麻帆良の魔法使いたちを苦境(オコジョの刑)から救いたい」というだけでしかありません。もっと言うと、ネギ以外の面々にとっては他の魔法使いなどほとんどどうでも良く、「ネギを救いたい」の一言に尽きてしまいます。

 そう、これは個人的悲劇から歴史改変を企てた超の行為と、まるで同じなのです。

 これでは夕映の言葉も力を持ちません。いや夕映の中では論理が通ったとしても、他者の心を、とりわけ様々な可能性を既に検討してきたはずの超の心を動かすことはできません。

 超はただ一言、こう言えばいいでしょう。「夕映サンたちにソレを言う資格はないネ」と。

(中略)

 ここで1つ、学園祭編の全体を、否、「ネギま!」の物語全体を貫くテーマを思い出してみて下さい。「少年の成長」、その中でも「精神面」においてどのように成長したのか、思い出してみて下さい。

 「小さな勇気」や「悪になる覚悟」など、他にもいくつか精神面の成長を示すキーワードはありますが……その中でも学祭編の中で大きく変わったのは、他者に対する「信頼」の在り方です。

 1人で何でもやりたがっていた彼が、武道会(特に刹那との試合)を通じて自らに寄せられる信頼を自覚し、エヴァの格闘相談で自己欺瞞を指摘され、一週間後の世界で皆に逆に助けられるという経験を経て、最終日の作戦では下準備を「皆に委ねることができる」程に成長しました。

 一言で言えば、ネギはリスクを恐れず「他人を信頼できる」ようになったということです。

 現在進行中の作戦は、極端なことを言えば、一般人生徒の能力を「信頼」し、敵であるはずの超すらも「信頼」した上に成り立っています。

 超一味が他者を傷つけることはない、との確信が持てなければ、こんな作戦立てられません。そしてそういう人間性の面については、ネギは超のことを深く信頼しています。種類と方向性こそ違えども、ネギ一味に対する信頼と何ら変わらぬ強固な「信頼」でしょう。

 対して、超は――よくよく見ると、彼女は自分以外の誰をも「信頼」していない。

 少年漫画的な王道として、「他人を信じられない者」の計画が上手くいくはずがありません。

 必ず、どこかで破綻します。

 そしてネギも、こういう彼女の態度を許さないことでしょう。

 これが学祭1日目のネギだったなら、超を批判する権利はありません。彼自身も「何もかも自分1人でやろう」としていたわけですし、本当の意味では他者を信頼できていなかったわけですから。

 ただ、今のネギなら反論できる。学祭3日目の彼なら反論できる。
 

 長々とした引用になってしまいましたが、なるほど、これはおもしろいですね。

 一応、「ネギま!」を読んでいない方のためにフォローしておくと、現在、この作品では未来からやってきて歴史を変えようとするチャオ・リンシェン(ネットでは振り仮名が使えないので、あえて片仮名で書きます)と主人公ネギたちのたたかいが繰り広げられています。

 チャオはこの世界にいる多くの不幸な人びとを救うため、魔法の存在を公開し、歴史を変えようとしています。

 ネギたちはこれに対抗しなければならないのですが、かれは、はたしてチャオを止めることが本当に正しいのかどうか、確信を抱くことができません。そんななか、ネギの生徒のひとりである綾瀬夕映は、チャオを止める論理的根拠を思いついたらしいのですが――というのが前回までの物語。

 さて、夕映の思いついたチャオを止める論理的根拠とはなにか、ということで議論が起こっているわけです。

 ここでちょっと話が横道に逸れますが、じつは今回の戦い、ネギたちはあとがありませんが、チャオにはまだ逃げ道があるんですよね。

 ネギの手もとのタイムマシン・カシオペアが壊れてしまっているのに対し、彼女の手にはまだ完全なカシオペアがあるのだから、敗けたときはまた時をさかのぼってやり直せばいい。

 したがって、ネギたちはただチャオを倒すだけではなく、なんらかの手段で彼女が時をこえることを阻止するか、もしくはチャオの行動の論理的根拠そのものを論破しなくてはならないということになります。

 そういう意味でも、夕映がチャオを論破できる根拠を有しているのかということは、重要な意味をもってくるわけです。

 そこで、ペトロニウスさんは、

「超さんが 変えようとしている 不幸な未来とは 地球・・・或いは 人類の存亡といった究極的自体に関係しているでしょうか?」
「いや・・・そんなSFめいた大袈裟な話はないさ 奴の動機の源泉は 今現在もこの世界のどこかで起こっているありふれた悲劇と変わりはないだろう」

 という夕映と龍宮真名の会話を根拠に、夕映の論理は「個人の不幸を理由に歴史を曲げることは倫理的に許されない」ということではないか、と推測します。

 そして、それに対し、名もなき読者さんは、ネギたちもまた歴史を変えるべく過去から戻ってきたことを踏まえて、その考えかたではチャオを説得できないだろう、としています。

 この理屈は相応の説得力をそなえているように思います。こうかんがえると、なぜ作者が直接物語を学園祭最終日の決戦にもっていかず、ネギたちを一度未来に送り込むという回りくどい真似をしたのか、説明がつくからです。

 つまり、ネギとチャオを同じ「歴史の改変者」という立場に置くことこそが、この展開の真の目的だったことになります(したがって、チャオはネギたちがふたたび歴史を変えるため戻ってくることまで予測していた、ということになる)。

 名もなき読者さんは、その上で、チャオとネギの差はひとを信頼できるかどうかという点にあり、それが勝敗を分けるのではないか、と見ています。しかし、チャオは本当にひとを信じることができない孤独な人間なのでしょうか?

 そういえば、チャオの思想と行動は、どこか「DEATH NOTE」の夜神月を思わせます。

 手にしたものが、名前だけでひとを殺せるデスノートか、時をこえることができるカシオペアかという差こそあれ、超越的アイテムと天才的頭脳を活用して世界に平和をもたらそうとするという意味で、月とチャオはよく似ている。表に出ることなく裏から世界を支配しようとするところもそっくり。

 いわば、チャオはもうひとりの夜神月であり、ネギはその野望を阻止せんとするLの立場に立たされているといっていいでしょう。

 そして、夜神月の末路についてはご存知の方も多いかと思います。独善的な正義のためひとを殺しつづける日々のなか、いつのまにか狂っていたものと思しいその天才は、さいごには無残な破綻を迎えたのでした。チャオを待っているのもこのような悲惨な運命なのでしょうか?

 しかし、夜神月とチャオには決定的な差があることもたしかです。月が理想のためなら無関係の人間を殺害することもいとわなかったのに対し、チャオは決してひとの血を流そうとしないのです。

 いわば、月がめざしたものは「流血革命」であり、チャオが成し遂げようとしているのは「無血革命」だといえます。

 また、彼女がクラスメイトたちにさいごの別れを告げる場面を見ても、チャオが決して冷酷な人間ではないことがわかります。

 だとすると、ひょっとしたら、チャオは天才らしい傲慢さでひとを信頼できないのではなく、あえて信頼しないことを選んでいるのではないでしょうか。

 このことを理解するためには、まずひとが時間を操るということがどのような意味をもつのかかんがえなくてはなりません。

 これにかんしては細田守監督の「時をかける少女」で非常に丁寧に説明されているので、この映画を見てもらうとわかりやすいのですが、ようは、時を操るということは、神にひとしい権力を手に入れることなのです。

 ペトロニウスさんが言うように、すべてのひとが幸福になれる歴史というものはありえませんから、時を操るからには、どの人間を不幸にし、どの人間を幸福にするか、自分の意志で決定することになります。ある意味では、デスノート以上の絶対権力です。

 「時をかける少女」の主人公は、ごく普通の人間であったため、さいごにはこの重圧に耐え切れなくなりました。

 しかし、チャオはどうでしょう? ひょっとしたら彼女は、すべてを知ったうえでなお、世界を救うためその責任を自分の肩に背負うつもりなのではないでしょうか。

 たとえ時を操り歴史を変えても、すべての人間が幸福に暮らすユートピアは作れない。ただ、より多くの人間がより幸福に暮らす社会ならできる。

 しかし、そこに生まれるのが、ひとりの神のような独裁者によって管理される世界である以上、その独裁者が他者に信頼を寄せることは許されない。なぜなら、だれかに心を預けてしまえば、その個人のために世界の運命を左右したくなってしまうかもしれないから。

 時を操り、ひとの命をもてあそぶ以上、独裁者は絶対的に孤独でなければならない――もしかしたら、チャオはそこまでかんがえたうえで、あえて最小限の人数にしか協力を求めずたたかっているのかもしれません。

 ただ、これすらも、チャオの傲慢と見ることもできる。はたして、チャオがめざしているような独裁権力の存在は許されるのか。

 思えば、20世紀は独裁者の時代でした。はじめは「世界を救いたい」という無私の感情から生まれた独裁国家が、どれもさいごには無残な末路を迎えたことも事実。

 ネギがひとを信じ、そのつながりのなかで生きていくことを選ぶなら、チャオの理想は否定されなければならないことになる。

 チャオがどれほど高潔な理想のもち主であったとしても、ひとりですべてを背負おうとするなら、その理想の重みが彼女の背を負ってしまうかもしれないのだから。そう、ネギは彼女の先生として、チャオを救うためにこそ、行動しなければならないのかもしれません。

 ここらへん、永野護の〈ファイブスター物語〉あたりに絡めてさらに語りたいところですが、さすがに長くなったのでこのくらいでやめておきたいと思います。引用部分も入れると、1日ぶんの記事としてはいままでいちばん長いものになったかも。

 さあ、こうなってくると、本当に来週の展開がたのしみです。もしかしたら、既に早売りされた次号を読んでいるひともいるかもしれませんが、知っていてもネタバレしないように。

 ぼくがかんがえたことがたんなる妄想なのか、それとも神なる作者の手の内なのか、あと少しで明かされることになるでしょう。

 しかし、こんなに深い問題提起を孕んだ萌え漫画ってありなんだろうか。ぼくは連載前、この作品になんの期待もしていませんでした。本当に漫画というものは、読んでみるまでわからないものです。

 まいったね、まったく。