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Something Orange このページをアンテナに追加

2006-10-28(土)


Fate/stay night 通常版

Fate/stay night 通常版

鬼哭街

鬼哭街

お嬢様組曲 初回限定版

お嬢様組曲 初回限定版

To Heart 2 XRATED 通常版

To Heart 2 XRATED 通常版


 「お嬢様組曲」、西九条小雪シナリオをクリア。お約束のラブコメ展開を経て、お約束のハッピーエンド。意外性のかけらもないシナリオであった。

 おかげで、3,4時間もあれば終わるシナリオに3週間もかかってしまった。さすがにほかのヒロインまで攻略する気にはなれないので、このゲームはここで終わりにしよう。いやあ、長かった。

 さて、この体験をもとに言うのだが、この記事の「ちゃんと萌えるには、オタク的童貞メンタリティが必須である」という主張にはやはり賛成できない。

 id:p_shirokumaさんは「恋愛を大きなテーマにしたオタクコンテンツに出てくる男性主人公キャラの女性観にはある種のステロタイプが」あると言い、具体的には以下のような特徴を挙げている。

・とても奥手で内気で

・女の子に興味があったり恋慕があったりしても、恥ずかしさや自信の無さ故に表明する事が出来ない

・しかも、そんな自分に言い訳するのが大好きで

・告白することが出来ない

・女の子が傷つくかどうかに過剰だが、実は自分が傷つくかどうかにはもっと過剰(当人は気づいてない)

・体育会系は大抵苦手。かと言って、極端に文化系に秀でているわけでもない

 上記の条件は、どれも「お嬢様組曲」の主人公にはあてはまりそうもない。

 この主人公は、むしろなにごとにも積極的で、適応力に富み、ひとを好きになったらすぐに想いを言葉にし、ほかに取り得はなくても体力には自信がある、というキャラクターである。少なくとも「とても内気で奥手」とはいえないだろう。

 たしかに、上記の条件は、id:p_shirokumaがいまプレイしているという「To Heart2」の主人公にはあてはまると思う。しかし、あてはまらないキャラクターも大勢いるはずだ。

 「To Heart2」の主人公が極端に内気な性格になったのは、たぶん前作と差別化するためだろう。この作品では、主人公とメインヒロインの性格や関係が前作とは逆に設定してある。

 たとえば、前作では、朝になると幼馴染みの少女が主人公を起こしにきたが、「2」では主人公の方が起こしに行かなければならない。

 また、前作では主人公の方が足が速く、ヒロインを置き去りにすることがあったが、「2」ではヒロインの方が速い。

 このような逆転設定の一環として、主人公は内気な少年に決められたのだと思う。

 もっとも、シナリオの不備もあって、この性格設定はうまく機能しているとは言いがたい。

 シナリオを書く側にしてみれば、主人公を完全に受動的性格に設定してしまうと、動かしづらい場面もあるのだろう、結果的に、シナリオが進むにつれて前半と後半で主人公の性格が変わってくるように見えることが少なくなかった。

 そのせいか、結局、ぼくはこの主人公をあまり好きになれなかった。しかし、べつにかれに成りきってプレイしているわけではないので、それでも問題がないとはいえる。

 ここにはたぶん、ノベルゲームを遊ぶときのプレイスタイルの問題がかかわっている。

 よく「萌えゲー」と「擬似恋愛ゲー」は等号で結ばれる。しかし、ぼくとしては、この等式には大きな違和感がある。

 ぼくがノベルゲームを遊ぶときの感覚は、たぶん一人称小説を読むときとそれほど変わらない。

 つまり、主人公にそれなりに感情移入しながら、しかし決して自己同一化はせず、一歩引いた視点から世界を眺めているわけだ。これは物語を物語として楽しむためには最低限必要なポジションだと思う。

 あまりに主人公に自己投影してしまっては、物語を楽しみづらくなる。広く物語を鑑賞するためには、主人公自身をも含んだ物語世界全体をながめる視点が不可欠だからだ。

 この場合、主人公とプレイヤーはあくまで別人格だから、主人公の個性を薄めてプレイヤーの自己投影を助ける必要はない。むしろ、長い物語の主人公には、魅力的な個性が要求されることになるだろう。

 ここでは仮に、こういった遊び方を「物語的」なプレイスタイルと呼ぶことにしよう。

 id:p_shirokumaさんの記事を受けたこの記事で、id:NaokiTakahashiさんは、

最近俺がヒロインに感じている「萌え」は、どうも面白いキャラを距離をとったところから鑑賞するような感覚らしい。昔はもうちょっとのめりこんでた気がするんだけど。距離をとってるから、キャラクターの相関関係、布置、意匠やストーリー構成が気にかかるわけで、特に「ハルヒ」アニメ版なんかは、そういう見方をしていたなあ。そこまで主人公に自己投影出来ない。

 と書いている。これはまさに「物語的」に作品を享受する態度だと思う。

 その一方で、主人公と同一化し、かれの経験を自分の経験のように感じる遊び方もある。このようなスタイルは「ドラゴンクエスト」以来のロールプレイングゲームの伝統を引き継いだものといえるかもしれない。

 今回はこれを「ゲーム的」なプレイスタイルと呼ぶことにする。

 この場合、主人公が強烈な個性のもち主だと自己投影の邪魔になりかねない。多くのノベルゲームで主人公の顔が隠されていたり、主人公にだけ声が用意されていなかったりするのは、たぶんこのプレイスタイルに配慮したからだろう。

 先述したように、ぼくは物語が好きな人間だから、無意識に「物語的」なスタイルを選ぶことが多い。したがって、主人公の個性が薄いと、なんとなくもの足りなく感じる。

 だが、「ゲーム的」に作品を楽しんでいるひとは、まさにその逆の考えかたをするのかもしれない。

 さて、このプレイスタイルの違いは、製作側にとっても重要な問題だと思う。「物語的」におもしろいものを目指すか、それとも「ゲーム的」に心地よいものをめざすかによって、当然、作品の中身は変わってくる。

 その意味で、id:psb1981さんによるこの記事の「ギャルゲーのゲーム性は物語を損なう」という主張は鋭いものがある。

 あくまでも「ゲーム性」を重視して選択肢を増やしていけば、物語としての緊迫感は落ちる。

 たとえば「ロミオとジュリエット」の結末に、だれも不幸にならない「グッドエンド」が用意されていた場合を想像してみればいい。せっかくの悲劇が台無しになることはあきらかだろう。

 無数に分岐が用意された世界は、いま眺めている物語こそが唯一無二の現実だという意識を打ち壊す。したがって、「ゲーム的」な物語は、何となく「ゆるい」ものになってしまう。

 解決策はある。選択肢が物語の緊迫感を奪うというのなら、それをなくしてしまえばいいのだ。

 ニトロプラスの「鬼哭街」はおそらくそういう発想から作られたのだろう。この作品には選択肢がひとつもない。したがって、狭義のゲーム性というものもない。ただひたすら目の前で物語が進んでいくさまを見守るばかりである。

 ある意味で、小説や映画にかぎりなく近いスタイルともいえる。その証拠に、のちに「鬼哭街」がノベライズされたとき、その内容はゲームのシナリオを書き写したのとそれほど変わらない代物だった。

 また、上記記事でも名前があがっている「Fate/stay night」も、いくつかバッドエンドは用意されているものの、ほぼ一本道の物語と言っていいだろう。

 東浩紀さんあたりは、すべてのシナリオがほぼパラレルに並んだ「月姫」に対して、3本のシナリオが順番に進んでいくだけの「Fate」を、システム的に後退した作品と捉えているようだ。

 しかし、あくまで「物語的」に作品を楽しむだけのぼくとしては、お話さえおもしろければそれでいいとしか思えない。

 ただ、このような作品に対しては、それならばそもそもゲームである必然性がないではないか、という批判が寄せられることだろう。

 たしかに「Fate」は、「鬼哭街」ほどではないにしろ、かなり物語性に特化した作品だ。しかし、それでいて「Fate」のおもしろさはやはりゲーム独特のものだと思う。

 この作品では、ひとつの初期設定から全く違う三つの物語が描き出され、しかもそれぞれの話が絶妙に絡まりあっている。

 たとえば小説「バトル・ロワイアル」は、数十名の登場人物のうち、わずか数名だけが生きのこった場面で終わっている。あのあと、もう一度はじめからべつの可能性を描く、ということができるだろうか。不可能だとは言わないが、非常にむずかしいことだろう。

 ところが、ゲームならそれができる。そして、「Fate」はじっさいにそれをやってのけているのだ。ゲームでしか表現しえない物語の形が、ここにはある。

 「Fate」がその年いちばんのヒットを記録したことを考えると、ノベルゲームを「物語的」に楽しみたい、という層は決して薄くはないと思う。

 そしてまた、このプレイスタイルの差は、どのようにしてヒロインキャラクターに「萌える」か、ということにも深くかかわっている。

 「物語的」に作品を楽しんでいる人間にとって、主人公とヒロインの恋愛はあくまで他人事である。したがって、ヒロインは自分ではない男を愛する女性ということになる。

 それを承知でそのキャラクターに萌えることができるということが、即ち「物語的」に作品を楽しむ資質があるということだ。

 一方、「ゲーム的」に作品を楽しむひとの場合、ヒロインは自分自身の分身を愛する女性ということになる。この場合は、たしかにノベルゲームは一種の恋愛シミュレーターとして機能している。

 しかし、ぼくはノベルゲームが語られるとき、あまりにも「ゲーム的」なスタイルだけが喧伝されすぎているように思う。

 おそらく、ぼくのように主人公に自己投影することができず、あくまで物語として作品を楽しんでいるひとも大勢いるはずなのに。

 「物語的」なプレイスタイルと、「ゲーム的」なプレイスタイル、そのどちらが正しいというわけではない。そもそも遊びなのだから、他人に遊び方を強制される謂われもない。

 ただ、あたりまえのように「萌え」=「擬似恋愛」といわれてしまうと、どうしても違和感がのこる。以前にも書いたが、ぼくはべつに自分で恋愛したいわけではない。他人の恋愛を横から見たいだけなのである。