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2007-01-17(水)


 mixiで『アルスラーン戦記』のコミュニティを覗いていたら、この小説がペルシャ神話のパクリだという意見を見つけてちょっとおどろいた。

 ふつう、それをパクリとはいわないよなあ。そんなことを言い出したら『聖闘士星矢』はギリシャ神話のパクリで、『ドラゴンボール』は『西遊記』のパクリということになってしまう。

 また、『天空の城ラピュタ』はスウィフトのパクリだし、ほとんどの推理小説はポーやコナン・ドイルのパクリということになるだろう。

 あきらかにそんな考え方はおかしい。完全にオリジナルな作品というものが存在しえない以上、どんな作品も何らかの先行作品の影響を受けている。そのことを否定してしまったら、人類の文化そのものが成り立たなくなるはずだ。

 ただ、『アルスラーン戦記』での人名や地名は、作者自身そう認めているように、相当にいいかげんな使い方をされているとは思う。

 ちょっとペルシャ神話を調べてみると、いかに恣意的に名詞を利用しているかわかる。人名を一般名詞にしてしまっているところなどは無数にある。

 あまり詳しくないので断定は避けるが、「四行詩」と書いて「ルバイヤート」と読ませているのも、たぶん誤用である。もし向こうのひとがこの作品を読んだら、そうとう違和感を感じるのではないだろうか。

 ただ、作者もその程度のことは承知の上で書いているに違いない。物語作家とは、そういうところにオリジナリティを追及することにあまり興味を示さない人種なのだと思う。

 栗本薫も『グイン・サーガ』の物語世界をハワードから借りてきている。どうもこの人たちは、そうやって先行作品から設定を借りてくることで作品の価値が落ちるとは考えないらしい。

 その意味では、かれらは芸術家とはいえないかもしれない。しかし、物語作家にとってより重要なのは、細部の独創性ではなく、物語のダイナミズムなのである。

 田中はかれが書く小説が英雄伝説の伝統に則ったものであることをくりかえし語っている。『「銀河英雄伝説」読本』に収録されているインタビューを見てみよう。

田中 そもそも、英雄伝説というのは、みんなアンハッピーエンドなんですね。『アーサー王伝説』も『ニューベルンゲンの歌』『ローランの歌』『水滸伝』『三国志』……、みんな最後は皆殺しで終わるでしょう? ところが皆殺しで終わる前には、いわゆる犲些擶爿瓩箸いΥ兇犬如△覆爾修Δ覆辰討靴泙辰燭里……みたいな過程を書いていきますよね。たとえば『アーサー王伝説』では、キャメロットの幸福な時代が終わってしまった……みたいな。そういった哀切な感情みたいなものが、もしあったら、そういうのを表現できたらなと……すごく大それた言い方ですけれども、思うところがあるわけです。

 この文章を読むと、自分の書くものが決して独創的ではないことを田中ははっきり自覚していることがわかる。たぶんかれにしてみれば、それで一向にかまわないのである。

 かれは何百年、何千年の時を経ても変わらないものを、いまの小説という形で表現しようとしているのだと思う。それが物語作家の業である。

 以前、あらゆる文化は普遍性と特殊性を兼ねそなえていると書いた。そのなかでも、ある種の物語形式は非常に強い普遍性をもつ。田中が言う「失楽園」のパターンもそのひとつだ。

 その魅力には人種や国家、時代を超えたものがある。つまりは何百年経とうが人間が好むものはそう変わりばえしないということなのだろう。

 とはいえ、もちろん、だからといって田中の業績が無であるということにはならない。その骨子が『アーサー王伝説』の焼き直しであるとしても、『アルスラーン戦記』が田中芳樹にしか書けない作品であることに変わりはない。それが作品の特殊性だ。

 文化は常に普遍性と特殊性のなかで揺らいでいる。そしてあるときはきわめて奇抜な、その時代にしか生まれえないような作品を生み出すこともある。

 しかし、特殊性に偏りすぎると大衆の支持を得ることができなくなり、やがて衰退していくことになる。そして古典的手法への回帰が始まる。

 そうやって長い時間をかけて文化は磨きあげられていく。あるときは栄え、あるときは衰えるだろう。しかし、文化そのものが消滅してしまうことは決してない。

 人間が人間としてあるかぎり、いつまでも物語は語られつづける。そしてたぶん、その物語に耳を傾けるものがいなくなることもないだろう。ぼくもその何億という人間のなかのひとりであるに過ぎない。

暗黒神殿 アルスラーン戦記12 (カッパ・ノベルス)

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「銀河英雄伝説」読本

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