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2007-09-18(火)

 『らき☆すた』最終回を見て『エヴァ』を考える。


 テレビアニメ『らき☆すた』が最終回を迎えた。

らき☆すた 1 限定版 [DVD]

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 この作品にかんしては、しばらく前にid:Shsgsさんと意見を交換したが、先方が多忙なため、話は途中で終わっている。しかし、実は、かれの言葉がいまでも気になっている。

 かれは『新世紀エヴァンゲリオン』が終わってから『らき☆すた』が放映されるまでの10年間のアニメをまとめ、こう述べている。

新世紀エヴァンゲリオン Volume 1 [DVD]

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少々感情的な物言いになるが、らき☆すたを掛け値なしに面白いといえる人は思考停止しているのではないか。

新世紀エヴァンゲリオンにおいて庵野秀明が提示した「気持ち悪い」というメッセージを、一方で"エヴァ的"なものとして受け入れながら、他方においてそれが示したメッセージに背馳してきたのがこの10年間であったといえよう。

 かってに推測すると、この発言の意図はこういうことなのではないかと思う。

 『新世紀エヴァンゲリオン』を締めくくる「気持ち悪い」という言葉、その言葉にはある厳しいメッセージがこめられていた。

 すなわち、「この気持ち悪い世界で生きよ」「自分を傷つける他者を受け入れろ」「甘い夢を見ることはやめて、厳しい現実に帰れ」ということである。

 しかし、『エヴァ』以降のアニメは、そのメッセージに反し、「萌え」がどうこう、「感動」がどうこうと、甘ったるいセンチメンタリズムに浸る一方で、一向に現実を見つめようとはしなかった、それがこの10年である。

 だから、『らき☆すた』のような、ひたすらに生ぬるい日常を描いただけの、現実から目をそむけた作品をおもしろいと思うひとは、思考停止しているに違いない、と。

 しかし、『エヴァ』のメッセージって、本当に「この世界は気持ち悪い」ということだったんだろうか? ぼくも昔はそう思っていた。でも、いまは疑問がある。

 だって、現実ってそんなに苦しいだけですか? この世には辛いことしかないのですか? そんなことはないだろう。

 信じられないような幸せから、想像を絶する悲惨まで、何もかもそろっている。それが現実。それがこの世界の豊かさ。

 じっさい、こうやって生きていれば、楽しいことっていっぱいある。心からうれしいことも、生きていてよかった!ってことも、ちゃんと人生には用意されている。

 もちろん、ひとりひとりを見れば、不幸としかいいようがない人生を歩んでいるひともいるだろう。しかし、より広い視野で眺めれば、この世にはちゃんと素晴らしいことだって存在するはず。

 そして同時に、どんな幸福な人生にも、ときに暗い影は差す。辛いこともある。悲しいこともある。死んでしまいたいと願うほどの苦悩、そして本当に死んでしまうひとたちもいる。

 そこだけを見れば、この世界は何て悲惨な、苦しみと嘆きに満ちた場所なのだろうと思えてくる。何より、死神はぼくたちが生まれたときから鎌を研いで待っていて、だれもかれも最後にはかれの手にかかる。

 ようするにぼくたちが生きているこの世界、この現実は、躁と鬱、喜劇と悲劇、栄光と悲惨、愛情と敵意、歓喜と絶望が区別も付かないほど複雑にいりまじってたモザイクなのだ。

 だから、その悲惨な一面に焦点をあてた作品が「現実を見つめて」いて、幸福な一面を描いた作品が「現実逃避」だということは間違えている。

 ひとを好きになることの喜び、恋人のくちびるの甘い感触、それも現実。そして、その恋人に拒絶されることの絶望、魂が砕けるような悲しみ、それもまた現実。

 映画『THE END OF EVANGELION』のラストシーン、いまやアスカとふたりだけになってしまったシンジは、彼女の首を絞めて、すべてを終わらせようとする。

 しかし、彼女はそんなシンジの頬をそっと撫でる。すると、シンジの腕から力が抜けていく。アスカは呟く。「気持ち悪い」。

 そう、たしかに生きることはおぞましくも気持ち悪い。わかりえない他者はどうしようもなくぼくたちを傷つける。

 しかし、他者とは本当にただ傷つけるだけの存在なのか? たがいにわかりあえないからこそ、心が通じた一瞬の歓喜は何者にも代えがたいのではないか?

 シンジにとって、アスカはただ恐ろしいだけの存在だったのかな。アスカにとって、シンジはただ嫌悪をそそるだけの相手だったのかな。

 そうじゃないだろう。それなりに楽しくやっていた時期だってあった。たがいに少なからず好意を抱いてもいたはず。あのアスカが、遊びでも本当にいやなだけの奴とキスしたりするわけがない。

 シンジとアスカが、あるいはシンジとゲンドウが、加持とミサトが、レイとゲンドウが、お互いに対して抱く思いは、非常に複雑で、簡単にいいあらわすことは出来ない。

 それは好意のようでもあるし、嫌悪のようでもある。愛情のようでもあるし、敵意に似ている気もする。かれらの心は、近づいたかと思えばまた離れていく。そして、離れたかと思うと、また近づく。

 だからこそ、『エヴァ』はリアルだ。愛しているのに傷つけてしまうこともある、だれよりも好きだからだれよりも憎く思えることもある、生きた人間関係とはそういうものじゃないか?

 ぼくの結論はこうだ。幸福なだけでも不幸なだけでもありえない世界、それが現実であり、ただ気持ちいいだけでも、気持ち悪いだけでもありえない存在、それが他者なのだと。

 生きているかぎり、現実はどんな側面を見せるかわからない。さっきまで愛を示してくれていた恋人が急に心変わりすることだってありえる。

 そして作品作りとは、その現実の豊かさをあるひとつのかたちに凝り固めて見せ、この世界の途方もない豊かさを再確認させてくれる、そういうものだ。

 『らき☆すた』が『エヴァ』に比べて「現実から逃げている」とは思わない。

 だれかに拒絶され心傷つく痛み苦しみが現実なら、ただ何となく友達としゃべっている生ぬるい時間も現実だろう。

 ただ、『エヴァ』は、『らき☆すた』に比べて、はるかに幅広い層をあつかっている。『エヴァ』の現実は、『らき☆すた』の現実より「広い」。

 その「広さ」がすなわち「豊かさ」であり、その「豊かさ」が『エヴァ』という作品のひとつの魅力だ。

 テレビアニメに許された現実描写はここまでだ、というかせを力ずくで蹴飛ばし、この世界の果てまでたどり着こうとする冒険、それが『新世紀エヴァンゲリオン』だったのではないか。

 そういう作品を見て、ぼくは「おもしろい」と思う。『ハルヒ』も『らき☆すた』も、たしかに楽しい。しかし、その世界はどうしても「狭い」。現実の「気持ち悪い」一面を排除しているために、一定の限界がある。

 『ハルヒ』やら『らき☆すた』のように、ひたすら「楽しくて、心地よくて、気持ちいい」作品が悪いわけじゃない。ただ、どうしようもなく「狭い」ことは認めざるをえない。

 一方で、「萌えだのラブコメだのロボットだの、『エヴァ』はそういう下らないオタクの妄想とは違うんだ。もっとすごい作品なんだ」という見方も、やはり「狭い」。

 世界に境界なんてない。下らないものも崇高なものも、優しい安楽も残酷な真実も、すべてが混ざり合っている。好奇心のエンジンを駆動させ、ぼくたちはどこまででも行くことが出来る。

 広い世界を見たい。豊かな現実と出逢いたい。他者のもたらす歓喜も絶望も、すべてを味わいつくしたい。そうして死んで行きたい。ぼくはそう思う。『エヴァ』にはそれがあった。だから、『エヴァ』はおもしろかった。

 『新世紀エヴァンゲリオン』鑑賞10年目の結論である。

 余談。

 『らき☆すた』がとてつもなく現実的な内容であることを示す証拠。

「『絶望先生』ってあんまり萌えアニメじゃないよね」
「まあ、確かに可符香とか千里とかカエレとか萌えキャラとちゃうわなあ」
「あ、でもマリアは好き」
「ああ、マ太郎はアニメで声がついて良くなったな。あれは声優の選択の勝利やな」
「あと、芽留ちゃんも好き」
「芽留ちゃんがいいんかい、お前は!?(笑)」

……という会話を小学生の娘としている今日この頃。
「娘こなた化計画」のんびりと進行中。

 戦慄! 娘にオタク教育を施すロリコン作家は実在する……!

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