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2007-09-24(月)

 すべての恋愛は交換可能な関係である。


恋愛というロジックにおいては、自らがまず「選別可能な選択肢」になることが大前提となっている。

つまり、「交換可能な存在」にならなければ、「交換の輪」に入ることができないという仕組みだ。

それはまずいいとしよう、だが問題は次である。

「交換可能な存在」であるということは、つまり「代替可能な存在」であるということである。

自分であろうと他人であろうと、また他人であろうと自分であろうと、そこにはなんらの質的な差異、価値的な差異が存在しないということである。

いったい維持すべき恋愛関係などあるのだろうか?

そもそもが「誰でもいい」ものなのである。

にもかかわらず、「誰かでなければならない」という。

「交換可能な存在」であることが大前提である以上、いったい何が、何を、どうやって「楽しむ?」というのだろうか。

まったく理解できない。

 理解できる。

 山本弘のSF小説『サイバーナイト』に、こんな話がある。

 遠い未来、ある兵士がひとりの女性と出逢い、恋に落ちる。そしてある時、かれはその恋人の名前を呟きながら戦死してしまう。

 その後、雇い主との契約に従い、かれの肉体は再生される。この世界では科学技術が進んでおり、亡くなった人物をクローン再生し、あらかじめ保存しておいた記憶を埋めこむことが出来るのだ。

 しかし、「前世」の恋人と出逢う以前まで記憶が戻ってしまったかれは、ふたたび彼女と恋に落ちることはなかった……。

 この話は、本当の意味での「運命の恋」なんてものはありえないことを示している。どんな熱烈な恋も、ほんの少し状況が違っていれば発生しないものなのだ。

 シーザーとクレオパトラ、玄宗皇帝と楊貴妃、ロミオとジュリエット、皆、別の立場で出逢っていたら、あるいはそもそも出逢っていなかったら、恋に落ちることはなかっただろう。

 そういう意味では、たしかに恋愛とは偶然の産物である。そのレベルでいうなら、恋愛相手が「交換可能な存在」であり、「だれでもいいのだ」ということは正しい。

 もしあるひとが100回生まれ変わったなら、100回べつの相手を好きになることだろう。あるいは、だれも好きにならないだろう。

 そもそも、ひとはその生涯で出逢ったごくわずかな人間のなかから、「運命の相手」を選ぶのだ。出逢わなかった60億人かそこらのなかに、より深い関係を築ける相手がいないとだれがいいきれるだろう?

 しかし、それにもかかわらず、すべての恋愛相手は「交換不可能な存在」でもある。

 たしかに、恋愛の相手は「だれでもいい」。もしあるひとと恋愛しなければ、べつのひととするだけのことである。

 だが、恋愛相手が交換可能だということは、目の前にいる恋人が交換可能だということではない。

 ただ恋愛できればいいというだけならいくらでも代わりはいるだろうが、ある個人との関係は唯一無二だ。

 たしかに、そのひとと別れてほかの恋愛相手と関係することは出来る。あるいはまた、そのひとと関係したまま、二股をかけることも。

 けれど、そうやっていくら新しい恋愛関係を築いても、あるひととの関係の代用にはならない。ただ、新たにべつの関係を築くことが出来るだけのこと。

 そもそも、ひととひととの関係とは、すべてそういうものだ。ある母親が溺愛する息子を失ったとする。もうひとり子供を産めばその子の代わりになるだろうか?

 なるはずがない。「親子」という制度における「子供」という存在に代用はあっても、「その子」個人の代用は存在しないのである。「友人」でも、「同僚」でも、「仲間」でも、「ライバル」でも、何でも同じ。

 あるポジションを埋める個人を捜すことは出来る。しかし、あるひとりの人間とまったく同じ代用なんて見つからない、そういうことだ。

 ここらへんのことを烏蛇さん(id:crowserpent)はこう書いている。

 ここで注意すべきことは、人間を「取替え可能である」とみなしているものは何か、ということです。人は皆一人一人異なる人間ですから、本来は「取替え可能」であるはずなどないわけです。人間を取替え可能にしているものは何か? それは貨幣であり、市場であり、法律であり、労働であり、あるいは恋愛であります。これらはいずれも、人間同士の様々な関係を媒介するものです。そして、こういったものがあるおかげで、「特別に承認し合う関係性」がなくとも私達は生きていくことができます。

 ということは、恋愛を「取替え可能」にしているのは、恋愛という形式そのものであるわけです。「恋愛という形式」は、性愛を取替え(再現)可能にするために必要な媒介なんですね。この意味で本田透氏の「恋愛資本主義」という言葉は的を射た表現と言えます。しかし、「現実世界には純愛がない」という嘆きは、結局本田氏が「恋愛資本主義」を一歩も出ていないことを意味しています。「純愛」という観念もまた取替え(再現)可能なものだからです。

 ぼくは思う。

 もしこの世に「恋愛」という概念がなかったら、ひとはだれかを好きになったりしないだろうか、と。

 そんなことはないだろう。いまほど頻繁ではないかもしれないが、やはりあるひとを特別に思い、いっしょにいたい、触れ合いたい、そう思うひとは出て来るはずである。

 しかし、その世界では、その感情は恋愛とは呼ばれず、ただの名前のない感情のままだろう。また、そのふたりの関係は、恋愛関係とは呼ばれず、名前のない関係のままだろう。

 このような世界では、そうやってあるひとが好きになった相手は「恋人」でも「愛人」でも「運命の相手」でもありえず、ただのそのひとということになる。

 そして、「恋人」の代わりはいても、「ただのそのひと」の代わりはいない。すべての「恋愛相手」が交換可能だとしても、「そのひと」個人は交換不可能だ。

 ようするに、「恋人」という概念があるからこそ、「ほかに恋人を見つければ、いま目の前にいるひとの代用になりえる」という考え方も出てくるのである。

 じっさいには、すべての人間、すべての関係が唯一無二で、「かけがえがない」ものなのに。

 ひととひととの結びつきはすべて偶然の結果である。無限の可能性をもつこの世界で偶然に出逢えたこと、ひとはそれを「縁(えん)」と呼ぶ。その縁を大切にしたいという心理、それは容易に理解できるものだ。

 さて、上で烏蛇さんも触れているけれど、本田透さんが掲げる「純愛」についても実は同じことがいえる。

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 ここでいう「純愛」とは、決して自分を裏切らず、どこまでも優しく、一心に愛してくれる相手との恋愛、とでも定義すれば良いだろうか。

 そんな女性は現実には存在しえないから、本当に「純愛」を求めるなら2次元に逃避するしかない、と本田さんはいう。

 しかし、その「純愛」も、「恋愛」と同じく、ひとつの制度、システムであるに過ぎない。

 つまり、本田さんにとっては、ただ無垢で、優しくて、かわいくて、決して裏切らなくて、ひたすらかれを愛してくれれば(そういう幻想を抱ければ)、だれでもいいのである。交換可能なのだ。

 それは、「高学歴で、高身長で、高収入なら、だれでもいい」という「恋愛」の思想と、いったいどう違うのだろう? 何も違いはしないとぼくは思うんですけどね。

 本田さんは『ONE −輝く季節へ−』のヒロイン、みさき先輩を愛していると主張する。でも、心からみさき先輩を愛するぼくとしては、かれの愛は薄いといわざるをえない。

 優しくしてくれるから、愛してくれるから、好き。その程度の愛で「純愛」なんて片腹痛いぜ。

 ぼくはみさき先輩がみさき先輩なら、どんな態度を取ろうが、だまそうが裏切ろうが突然失明したはずの目に光が宿って超能力者になろうが、好きだぞ。

 みさき先輩がみさき先輩だから好きなのであって、「純粋」とか「優しい」といった条件を満たしているから好きなんじゃない。

 みさき先輩はほかのどんな人物でも代替不能なみさき先輩という個性だ。いくらだよもんとか七瀬がかわいくても、みさき先輩の代わりにはならない! ならないったらならないの。

 本田さんは現実世界の薄汚れた「恋愛資本主義」を非難するが、あらかじめ何かしらの条件を定めて、その条件を満たしたキャラを消費していくだけの「純愛資本主義」だって似たようなレベルだ。

 「恋愛」という制度も、「純愛」というシステムも、どうでもいい。ぼくはただ自分の心に従うだけである。ああ、かがみんはほんとにかわいいにゃあ。こなたはいかすにゃあ。

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 ……あれ? 何でこんな結論になるんだろ?

 捕捉。

 いや、本田さんの「愛」が間違えていて、ぼくの「愛」が正しいといいたいわけじゃないですよ? ただ、かれの「純愛」も見方を変えれば「不純」だということ。不純でも全然かまわないけれど。詳しくはコメント欄をご覧ください。