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2007-10-01(月)

 似非オタでもOK!


たまたま話の流れで文脈に違和感なくだけど「だが断る」と発言してしまって、知り合いというか後輩が「2ch用語ッスね」と言ってきたのだけど、まあ元ネタはジョジョな訳でそれを分からずに後輩は2ch用語だと認識してたらしい。それから話は発展してしまってオタクとかの話になった。

彼は自称オタクらしいのだけど僕からしてみれば彼の話すことは一般論でしかなくて、彼は何かこう「お洒落だけどオタク」である自分に酔ってそれをひけらかしている気がする。僕も自分自身オタクだと思うけど彼の様にひけらかすようなことはしないし、実際は「オタク」というものは彼が思っているかどうかは分からないけどステイタスにはならなくてやっぱり(方向性にもよると思うけど)一般的には気持ち悪い部類に入ると思う。たぶんそれでも彼はそういう中途半端な知識をひけらかしていくのだと思う。彼の綻びをあえて見つけて辱めようと思わないけどなんかそういう人種がやっぱりいるんだなあと思った。

 似非オタかあ。

 現在、オタク文化は「無限の大宇宙がさらに拡大するように」広がっているわけで、当然、こういうこともありえるでしょうね。

 以前にも書いたけれど、ニコニコ動画には、現在、既に300万人の会員がいる。今後、この数字が400万、500万と増えていくことは確実だろう。

 その会員の中心は若年層だろうから、今後、すくなくとも若い世代では、日常的にニコニコを利用する程度の「オタク」は、少数派でも何でもなくなるはず。

 そういう「新参者」が、皆が皆そんなに「濃い」とは考えづらいので、こういう「似非オタク」は増える一方だと思う。

 でも、ぼくはそれでも全然かまわないと思っている。

 もちろん、不正確な情報を自慢げにひけらかす奴は困るけれど、それはオタク云々以前に個人の人間性の問題でしょ。

 いくら正確な知識をもっていてもいやな奴はやっぱりいやな奴だしね。

 ここでいう「似非オタク」は、その時々で「ヌルオタ」と呼ばれたり、また「ライトオタク」と呼ばれたりする。

 そういう層を敵視するひとは、とくに上の世代に少なくない。過去に何度か引用した岡野勇さんの文章は、その典型的なものだろう。

 ここまでに断片的に書いてきたことをまとめると、僕はオタクライト層の…あるいはオタクライト層が“もたらしている”問題(あえて問題と書きます)というのは、大まかに分けて2つあると思っています。

1)ヌルさの問題
2)伝える能力の問題

 この2つによって、仲間内では偽りの共同幻想・ぬるま湯の場の一体感が生じているため、人によっては「居心地の良さ」を感じてしまうのかも知れません。

 主にライト層を中心としたヌルさの増加は、低いラインで「ヨシ」としちゃっているために、すでに情報も資料も山のように溢れているにもかかわらず「濃い方向の知識や行為」、原典などに全然興味を持たない。

 で、興味を持たないから知識がなく、その薄い意識の中で「薄いことにも気づかない」で主張している。

 ぼくはこの手の論理に賛同できない。

 だって、300万、500万、1000万、そうやって増えていく「オタク」全員が「もっと頑張ってアニメの勉強をしなければ」なんて考えることはありえないんだから。

 もちろん、広い層にできるだけ高い見識があれば、業界のためになるだろう。

 でも、たとえばサッカーファンやロックファンがマニアだけで構成されているなんて、ありえないですよね。

 ぼくも時々テレビでサッカーを観戦するけれど、ルールもろくに理解していない。そしてそのことを非難されても困る。

 そういった層には要求されないことが、アニメファンや漫画ファンにだけ要求されるとすれば、それはなぜなのか? 何かがおかしくないですか、と思うんだけれど。

 ちなみに岡野さんはかれのいう「ライトオタク」批判をくり返しているのですが、mixiの外に文章を出すことを禁じているので、引用することは出来ません。引用して突っ込みたいのは山々なんだけれどね。

 いずれにしろ、こういうライトファンの増加で「オタク」はどんどん無意味な概念と化していくだろう、というのがぼくの予想。もういちど幼女殺人事件でも起こらない限り、この方向性は変わりそうもない。

 そもそも作品にかんする知識は万能じゃなくて、なまじ知識があるからこそ見えるはずのものが見えなくなるということも、ありえると思う。

 知識とは偏見の別名でもあるわけで、ほかの作品をたくさん知っているからこそ、あたらしい作品を曇りなく見ることが出来なくなることはありえる。

 たとえば、作家の山本弘さんがmixiで伊坂幸太郎『終末のフール』について、こう書いている

 こっちはとくに断りなく全体に公開されているから、引用してもいいでしょう。

 世界の終末を舞台にした人間模様というと、たくさんの先行作品がある。映画『渚にて』、新井素子『ひとめあなたに…』、マシスン「終わりの日」、スタージョン「雷と薔薇」、サーリング「真夜中の太陽」、ニーヴン「無常の月」などなど。

 それと比べて、この作品にはまったく驚きがない。登場人物が全員、日常の延長で行動している。わざわざ終末に舞台設定をした必然性のないエピソードもある。緊迫感はないし、斬新なビジョンも、感動的な結末もあるわけではない。チャイニーズ・スープも出てこない(^^;)。

 もしかしてこの作者、そうした先行作品の存在をまったく知らないのだろうか。知っていたらこんな話は書けないだろう。

終末のフール

終末のフール

 書けると思う。

 ひとの価値観はそれぞれだし、他人の読み方に口をはさむことの傲慢さもわかっているけれど、それでも、やはり、この見方は納得出来ないものを覚えます。

 『終末のフール』はたしかに一種の終末SFですが、作中の時間は「終末」の3年前に設定されています。

 8年後に小惑星が衝突することが発表されてから5年が過ぎた世界で生きる人々の生活を活写した作品です。

 その小説的完成度については、いろいろな意見があるでしょう。ぼくは際立って巧いと思うけれど、そう思わないひとがいてもふしぎはない。そこは良い。

 でも、この作品を過去の終末SFと比べて、そこにあるものがないから駄目だ、と決めつけるのは、少し速断が過ぎるように思います。

 そもそも、伊坂が、終末直前ではなく、その3年前という中途半端な時間に物語を設定したのはなぜか?

 そのこと自体が、かれがもくろみは終末そのものを描くところにないことを示していないでしょうか。

 伊坂が書こうとし、そして書いたものは、やがて世界の終わりがやって来るとわかっていても、やはりその日その日を平凡に生きるしかない人間の姿だったのだと、ぼくは思います。

 たぶん、この物語のあと、終末が近づくにつれて、この作品のなかでは落ち着いているように見えたひとたちも、恐慌に陥っていくことでしょう。

 あるいは、この物語の前でも、そのようなパニックはあったことでしょう。

 しかし、終末まで、3年という長いとも短いともいえない猶予を与えられた人々は、とりあえずの小康状態を迎えている。

 伊坂はあえて終末直前を避け、そんな見せかけの平安のなかに、人間の普遍的な姿を探ろうとしているのではないでしょうか。

 伊坂自身は、あるインタビューでこう答えています。

――やられました。パニックのど真ん中ではなくて、隕石衝突の3年前の、なぎの状態を描くという設定が、ユニークですね。

「そうですか! そこは僕にとって一番のキモなんですよね。パニック映画や世界の終わりを描く作品はたくさんあると思うんですが、そうじゃなくて、あと3年で地球が終わるという、結構微妙な状態を描く。その小康状態を描きたい、というのは強くあって。

いきなりですけど、僕自身も事故にあったりして、明日死ぬかもしれないじゃないですか。そうじゃなくても、いつかは必ず死ぬ。それこそ3年後に死ぬかもしれない。それなのに、今、全然ビクビクしないで普通に生きていますよね。別にパニックに陥ったりもしていないし。それって“3年後に隕石が落ちてくる”というのと、どこか似てると思うんですよ」

 くり返します。

 この意図を良いと思うかどうか、おもしろいと感じるかどうか、その判断はひとそれぞれでしょう。

 けれど、自分が先行作品にくわしいからといって、作者はそういう話を知らないのか、知っていたらこんな話を書けるはずがない、とは、ないんじゃないか。

 山本さんは、なまじ過去の名作SFをよく知っているからこそ、その枠組みでしか作品を捉えられなくなっていたのではないか、とぼくは推測します。

 この引用のあと、かれは数々の名作SFを並べあげ、こちらのほうが感動するよ、といっているのだけれど、そういう知識がなければ、もっとまっさらな目で作品を読めたかもしれない。

 たくさん知識があれば良いというものでもないんだよね。ある作品を読むことは、学校のお勉強じゃない。

 そもそも、一生懸命お勉強したから偉いんだ、という時代でもないでしょう。