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2007-10-24(水)

 『涼宮ハルヒの憂鬱』と現代SFの憂鬱。


うわっ、酷い(笑)。[TV]『21世紀を夢見た日々』では、70年代からSFはさらに発展して今に到る、という作りだったのに、海燕さんの記事では、まるで、「SF」が死んでしまったと扱っていたかのような書きようだっ。……いや、海燕さんの言わんとするところは、わかるんだけど(^^;。

 そういうつもりはなかったんだけれど、そういうふうに見えますかね。いつものことながら、いいたいことを正確に伝えることはむずかしい。

 結局、「発展」ということをどう考えるか、ですよね。

 たしかにあの番組では、「SFはその後も発展していき、いまのアニメやゲームに受け継がれている」という調子でまとめていました。

 しかし、その描写は逆に、「それらの作品は現在、SFとして認知されてはいない」という事実を浮き彫りにしていたと思います。

 番組の制作スタッフは、一般的にSFとして認知されていないものも、こうやって考えてみるとSFなんだよ、と示そうとしていたように、少なくともぼくには、思えました。

 じっさい、この番組に対して、ネットでは、こんな反応もあったようです。

NHKの番組「ETV特集」の10月21日放送分は「21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年〜」という特集だった。この番組内で「涼宮ハルヒの憂鬱」が少し写ったらしく、2ちゃんねるでの反応が「Syu's quiz blog」で紹介されている。

「NHKがハルヒSF認定きたwwwwwwwwww」「NHKにSF認定されたと聞いてきました。」といった反応が見られる。

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 『ハルヒ』がSFの文脈で語られたことが意外だったからこそ、「きたwwwwwww」になるわけですよね。だれがどう見ても『ハルヒ』がSFなら、こういうことにはならない。

 つまり、たしかにSFはいま、『ヱヴァ』とか『ハルヒ』に受け継がれているといえるけれど、多くのひとはそれを「SF」だとは受け取っていないと思うのです。

 たぶん、「萌えアニメ」とか「ライトノベル」だと思っているのでしょう。

 しかし、SF者の目から見れば、『ハルヒ』は、NHKに認定してもらうまでもなく、SFとしか思えない作品だったりするんですよね。SFとしては定番のアイディアがばんばん使われていますから。

 ただ、「だから『ハルヒ』もSFと呼ぶべきだ」とは思わない。分析的、あるいは批評的に見て、『ハルヒ』がSFと呼ぶにふさわしいかどうか、そんなことはどうでもいいことだと思う。

 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いずれにしろ、じっさいにいまSFとして見られていないという事実、そちらのほうが重要でしょう。そういう状況が現実にある、ということです。

 さて、そういう状況を、「SFは発展した」と考えるべきか、それとも「SFは死んだ」と受け止めるべきか。

 ぼくは「SFという言葉」と、「SF作品」および「昔ならSFと呼ばれたかもしれない作品」は区別して考えるべきなのだと思う。

 いま、「昔ならSFと呼ばれたかもしれない作品」は、様々なジャンルで繁栄している。しかし、「「SF」という言葉」はあまり使用されなくなってきている。

 あの番組では、前者を取り上げて、後者を無視していました。しかし、ぼくは後者を指して、「「SF(という言葉)」は死んだ」と表現しているわけです。

 90年代は「SF冬の時代」といわれた時代だけれど、じっさいには、それは、「「SFという言葉」の冬の時代」だったに過ぎなかったともいえる。

 ま、でも、たしかに「死んだ」という表現は大袈裟かもしれない。細々と生きのびてはいますからね。で、いまだに「SF印」が付いている作品にも、良い作品がないわけじゃない。

 飛浩隆とか円城塔とは、ものすごい傑作を書いてはいる。

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Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

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 しかし、全体的に見れば、「SFという言葉」の使用頻度がへっていることは、そうとう熱心SFファンでも(渋々と、ではあるかもしれないけれど)認めることでしょう。

 こういう状況を何とかしようと思うひともいるだろうけれど、ぼくなんかはそれはそれで仕方ないんじゃないかな、と思うタイプですね。

 そもそも、たいていの場合、作品や文化は、それに貼り付けられるラベルより前に存在しているわけです。

 SF小説は、「SFという言葉」が出来る以前に存在したし、オタク文化は、「オタクという言葉」以前から存在していた。まず作品と文化があって、それから名前が付けられるのであって、その逆ではない。

 そして、「名前」が衰退したあとも、文化や作品そのものは新たに生み出されていくことがある。SFがまさにそうだったように。

 だから、「オタク」だっていつの日かそうなることだろう、そのとき、オタク文化がどのように変わるか、ぜひ見てみたいものだ、そう思うのです。

 たぶん、『ハルヒ』がSFとして認知される日は来ないでしょう。そして、いつまで「萌え」や「オタク」や「ライトノベル」といった「名前」で語られるか、それもわかりません。

 70年代、日本SFの黄金時代、だれもそのあと長い「冬の時代」が待ち受けているとは思わなかったでしょう。「萌え」や「オタク」だって、どうなるかわかったものではありません。

 と、ぼくは思うんだけれど、どうよ?

 関連記事:「「オタク」が死ぬ日。」