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2007-11-02(金)

 落合、亀田、初音ミク。


 落合采配に絡めていろいろ書いてみる。

 ご存知のことと思うが、先日の日本シリーズで、中日の落合監督は、最終回を目前にして、それまで完全試合のペースで投げてきた投手を降板させた。

 その結果、中日は勝利し、実に半世紀ぶりの日本一を達成した。しかし、それでもそれでも落合采配にかんする評価は賛否半ばしているようだ。

 野球にはくわしくないので、その采配が具体的にどういう意味をもっているかはわからない。その投手が負傷していたという話も聞く。

 その上でいうなら、投手交代によって勝利の可能性が高まるのなら、そうすることは「スポーツ」としては当然のことだと思う。

 1パーセントでも勝利の可能性が高まるなら躊躇なくそれを実行することが勝負の鉄則じゃないか?

 でも、結局、観客が見たいものは、「スポーツ」ではなく「ドラマ」なんだよね。

 たぶん、本当の意味で「野球」そのものが好きなひとはそれほどいない。ただ「野球」を通して、「感動のドラマ」とか、「奇跡の大逆転」とか、「脅威の完全試合」といったものを見たいだけのひとのほうが多いはずだ。

 そういうぼく自身がそうだ。野球にはそれほど興味がないけれど、イチローが記録を達成しそうだ、と聞くと、やはり関心がわく。

 で、野球だけじゃなく、ほかの文化でも同じことがいえると思う。

 たとえば、ポップミュージックは非常にメジャーな文化に見えるけれど、その実、「音楽そのもの」が好きでたまらないというひとはそんなに多くないんじゃないかな。

 だって、テレビの音楽番組なんて音楽の話ほとんどしていないじゃん? ダウンタウンの『HEY! HEY! HEY!』なんて、あれは音楽番組といえるのだろうか。

 オタク文化だってそうだよね。アニメ雑誌の記事は、「アニメそのもの」よりも、アニメに登場するキャラクターのことばかり取り上げている。ほとんどの「アニメファン」は、アニメの技術的側面には関心がない。

 だから、あるジャンルで技術的に一流のことをなし遂げても、かならずしも大衆に受け入れられるとはかぎらない。むしろ、わかりやすいパフォーマンスに走ったほうが人気が出ることも多い。

 ボクシングの亀田一家が典型的だろう。いまとなっては、かれらは「堕ちた偶像」である。しかし、たしかに一時的には人気を集めた。そのファイトマネーは巨額にのぼったと聞く。

 ときに敗北しながらも堅実にのし上がってきた内藤選手が、「月収12万円」という赤貧生活に甘んじていたこととはあまりに対照的だ。

 しかし、そうやって人気集めに走ると、往々にしてマニアから批判を受ける。くだらない、ボクシングそのものとはかけ離れたただのパフォーマンスじゃないか、と。

 でも、とぼくは思うのだ。くだらなくて何が悪いのか? 現実にくだらないことのほうが受けるじゃないか?

 小説を例に挙げるなら、ろくに文法も整っていないようなケータイ小説が何十万部も売れている。一流を目指し、技術的洗練にこだわるなんてただの自己満足なのでは?

 結局、落合は投手を交代させるべきではなかったのだろう。一般の観客は勝負の妙なんてどうでもいいのだ。ただ奇跡の完全試合達成! あるいは無念の負傷で達成ならず、そういうわかりやすいドラマがお好みなのだ。

 もちろん、そういうファン心理に流されることはそれなりの危険を孕んでいる。あきらかに復帰できるはずもない長島監督の「帰還」を期待するあまり、監督不在のまま試合に突入したアテネオリンピックのを思い出してみればいい。

 しかし、それでも、大衆は劇的なドラマを期待する。派手なパフォーマンスに沸きもする。

 結局、亀田一家は正しかったんじゃないか? だって、いくら玄人好みのボクシングをしても、だれも見に来ないじゃないか。

 茶番劇で十分。それ以上のものを期待しているのは数少ないマニアだけ。そして、マニアを相手にしていては商売にならないのだ。違うかな?

 もちろん、違う。たぶん、本当のプロは、「人気」と「実力」、その双方をかねそなえていなければならないのだと思う。

 落合の采配は、この半世紀で初めて、中日を日本一に導いた。かれには監督しての「技術」がある。しかし、それはかならずしも「人気」に通じない。いま、中日の試合はそれほど客を集めていないらしい。

 一方、亀田一家は、斜陽のボクシング界で破格の「人気」を集めた。華麗な戦績、派手なパフォーマンス、印象的なキャラクタ、その試合は次々と高視聴率を記録し、多くの関係者がかれらに期待した。

 しかし、その内実はあのありさまである。かれらには、「人気」に伴う「実力」がなかった。これではだめだ。

 ある文化がポップであるためには、どうしても人気と技術が釣り合っている必要がある。

 人気は水物である。力がないものでも一時的に人気が出ることはある。しかし、そういう実力なき人気者は、長期的に見ればその文化にマイナスの影響を与えることが少なくない。

 人気があるなら何でもいいのだ、というわけにはいかないのだ。亀田家を見ろ。

 しかし、最前線のポップクリエイターは、権威からの賞賛とは無縁であるが故に、その「人気」にプライドを求めることが少なくない。

 お偉い評論家の先生なんてクソ食らえ! おれたちの作品は大衆が支持してくれている、というわけだ。

 ライトノベル作家賀東昭二の発言など典型的だろう。

で、「ライトノベル完全読本」を読んだ。
盛り上げてくれてるところに水を差すようで大変申し訳ないのだが、
「書評宣言」なんて言われてもなあ。

「文壇で正当な評価」ァ?
「語るべき価値のある作品」ンンン?

おいおい、待ってくれよ。それじゃ俺の立つ瀬ねえじゃんよ。

ジャンクフードでいいんだっての。余計なお世話。
っつーか、ジャンクフード業者に謝れ。
モスはちゃんとうまいだろうが。マックは安くて大助かりだろうが。

いやな予感したんだ。アンケートでああ答えておいてよかったよ。まったく。

ああ、それから。
物欲しげな顔で自分の作品を『偉い人』から『評価』してもらえることを期待してる新人諸君、作家志望者諸君へ。

気をつけろ。君の仕事は『読者』を楽しませることだぞ。
それだけは絶対に忘れるな。

 いいたいことはわかるが、いかにも誤解されそうだ。

 やっぱり、いくら人気があっても、読者が支持していても、だめなものはだめだと思うね、ぼくは。一般読者の支持はもちろん大切だけれど、大勢に支持されていれば何でも素晴らしいということにはならない。

 そして、ただ実力があれば、技術的に高度ならそれでいいのかといえば、それも違う。

 たとえばSF小説は衰退したといわれているけれど、個々に見ていくとおもしろいものはいっぱいある。そして、一部では高く評価されてもいる。

 ただ、商業的成功とSF的評価を両立させた作品というと、ちょっと思い当たらない。

 それに対し、「黄金時代」に活躍した小松左京や筒井康隆は、SF界の内部から高い評価を受けながら、一般的知名度も高かった(いまでも高い)。これが理想だろう。

 もちろん、人気と実力をかねそなえることは非常に困難だとは思う。小松や筒井のような、野球でいえばイチローのような、本物の天才だけがなし遂げられることなのかもしれない。しかし、天才でなくても、両立を目指すことはできるはずだ。

 そういう意味で、初音ミクの存在はおもしろい。

VOCALOID2 HATSUNE MIKU

VOCALOID2 HATSUNE MIKU

 ミクの根幹にあるものは、音声にかんするある技術、プログラムである。それ自体はべつにポップではないし、エンターテインメントでもない。

 しかし、そこにあの甘ったるい声と、「初音ミク」というキャラクタを付け加えたことによって、ポップな商品が生まれた。本来ならマイナーな「技術」に「人気」を集めることに成功したのだ。

 たぶん、声質とキャラクタだけではそれほど人気は出なかっただろう。キャラクタとプログラム、両方そろって初めてポップな商品として成立する。

 これこそ真のポップカルチャーだとぼくは思う。初音ミクのおもしろさはそこにある。

 人気がなければ発表できない、実力がなければ発表する意味がない。ポップカルチャーはむずかしい。そして、だからこそおもしろい。