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2008-01-05(土)

 小学校2年生の作文に泣かせられたよ。


日本語ということば (Little Selectionsあなたのための小さな物語)

日本語ということば (Little Selectionsあなたのための小さな物語)

 すばらしい文章に出あった。

 第47回全国小・中学校作文コンクールの優秀賞受賞作品、作者は小学校2年生の女の子、中村咲紀ちゃん。

 といっても、子供の無邪気な心に感動したとか、そういうことではない。無邪気どころか! 大人でもこうは書けるものではない、深みのある内容と、明晰な文章で綴られた、みごとな読書感想文である。

 題材は『セロひきのゴーシュ』。ゴーシュと動物たちの物語が、彼女自身の体験と供に語られていく。

宮沢賢治のおはなし (9) セロひきのゴーシュ

宮沢賢治のおはなし (9) セロひきのゴーシュ

 正直にいう。読んでいる最中、何度となく目がうるんだ。二、三滴、涙がこぼれ落ちたかもしれない。

 この文章と比べたら、ぼくがふだん書いているものなんて、皆まとめてなんてくずかご行きだ。それくらい傑出した表現力である。

 咲紀ちゃんは、まず、物語の主人公であるゴーシュの肖像を的確に描き出していく。この文章が良い。

 だれも気がついていないけれど、ゴーシュの心の中には、へんなものがたくさん入っています。へんなものというのは、その人によってちがうけど、じこまん足だったり、つよがりだったり、がまんのしすぎだったり、色んなものがあります。そういうへんなものが心の中に入っていると、本当のじぶんがちゃあんと見えません。ゴーシュは一生けんめいれんしゅうしているつもりだけれど本当の自分がちゃあんと見えていないので、本当のれんしゅうができていないのです。本当のじぶんをちゃあんと見ないでどんなにがんばっても、間違ったがんばりかたしかできません。それは、本当のがんばりにつながりません。
 けれども、きせきがおこります。

 その奇跡とは、動物たちがゴーシュのもとを訪れることだった。いつもゴーシュの家の軒下で、かれの演奏をきいていた動物たちは、その演奏のすばらしさを知っていた。

 しかし、猫はゴーシュに追い出されて逃げ出し、カッコウはガラスにぶつかって重傷を負う。ゴーシュは自分がやってしまったことを悔やむが、どうしても素直になれない。

 その心理を、咲紀ちゃんはこう分析する。

 ゴーシュはあとになって、この時のことを「おれはおこったんじゃなかったんだ」と言っています。わたしもそうだと思います。
 ゴーシュは、本当は、本当のじぶんをしっていたんじゃないかと思います。でも、本当のじぶんはとてもひどいので、見ないようにしていたんだと思います。それなのに、かっこうにだめなじぶんを見せられて、そのだめなじぶんにカッとなって、そのむしゃくしゃをかっこうにぶつけてしまったんだと思います。

 やがて、ゴーシュのもとを野ねずみの親子が訪れる。野ねずみたちはふだんゴーシュのセロを聴いて病気をいやしていた。かれらはゴーシュにセロをひいてくれと頼む。

 ゴーシュはひとりぼっちじゃなかったのです。下手でだめだと思っていたセロは、どうぶつたちのびょう気がなおるのでかんしゃされていたのです。ゴーシュの心があたたまります。それでゴーシュは、野ねずみに優しくできるようになったんだと、わたしは思いました。
 びょう気がなおってパンまでもらったのねずみは、鳴いたり、笑ったり、おじぎをしたりしてかえっていきます。のねずみは、ゴーシュの心をあたためにやってきたけれど、ゴーシュのやさしさで、のねずみの心もあたたまったんだと思います。
 これが、心と心をくっつけ合うということです。
 みんなひとりぼっちじゃないのはいいなあ。たすけ合うのはいいなあ。ゴーシュが、やさしいゴーシュにもどれてよかったなあ。と、わたしは思いました。

 そして、ゴーシュはコンサートで大成功し、物語は終わる。めでたしめでたし。しかし、彼女の作文はそこでは終わらない。今度は、彼女自身の物語を書いていくのである。

 ちょっと子供が書いたとは信じられないような、印象的なエピソードがいくつも続く。

 妹が生まれて、母親に抱っこしてもらわなくなった話。母親が「抱っこしてあげようか」と誘いかけても、彼女は「いい」と断る。

「どうして」
「まきがおかあさんにだっこしてほしいと思った時、いつでもだっこしてもらえるように、わたしはもうだっこしてもらわなくていいの、まきがだっこしてほしいと思った時、わたしがだっこしていたら、まきがだっこしてもらえないでしょう」

 幼稚園で友達と仲良く出来なかった話。それに、マクドナルドのハンバーガーがたべたかったのに、たべたいといえなかった話。

 わたしは、もう一ついえなかったことがあります。わたしは、マクドナルドのハンバーガーが食べたかったのです。ようちえんで、みんなが、「マクドナルドで何食べたあ」なんてはなしているのをきいたり、となりのいえのマーくんが、マクドナルドのおまけのおもちゃを、たくさんもっているのを見たのです。わたしは、年中のころから、ずっとマクドナルドが食べたかったけど、おねだりできませんでした。マクドナルドはたかいだろうと思いました。おとうさんは、マクドナルドは食べない人だろうと思いました。

 様ざまな、それ自体は些細なエピソードから、一人の女の子の姿が浮かび上がってくる。

 おとなしい、遠慮がちな、しかしやさしく、思慮深く、大人が思ってもいないようなことを考えている少女。ひとりぼっちの少女。

 「わたしは、いえにかえってきても、うーんとがんばっていて、おとうさんにもおかあさんにもあまえることができなかったのだと思います」と、彼女は書く。

 今考えると、わたしの「がんばるぞ」は、本当の「がんばるぞ」ではなかったと思います。「つらいのがんばってがまんするぞ」の「がんばるぞ」だったのです。わたしは、へんなものがいっぱいで、じぶんじしんもまわりの人も、何もかもちゃあんと見ることができなかったと思います。わたしは、だれにもあまえないで、心をきつくしてぼろぼろないていただけだったのかもしれません。だから、いくらがんばっても、つらいことばかりだったのだと思います。私のがんばりは、がまんするだけで、本当のがんばりにつながらなかったのです。わたしはゴーシュだったと思います。

 ゴーシュには奇跡が起こった。幼いもう一人のゴーシュに奇跡は起こらない。「でも、ようえちえんのそつえんしきのあとのわたしの気もちは、まるできせきがおこったみたいでした」。

 辛かった幼稚園を卒園して、もうこの制服を着なくていいのだと悟った彼女は、母親と、そして父親に抱っこしてもらう。そのとき、彼女のなかで何かが変わる。

 それからすぐあとの日曜日、こんどはだっこの時よりがんばって、わたしは、おとうさんに言いました。「マクドナルドのハンバーガーが食べたいのでかってください」「いいよ」おとうさんはあっさり言いました。わたしはびっくりしました。そんなにかんたんに「いいよ」なんて言われると、わたしはびっくりするタイプです。

 いじらしい、とはきっとこういう子のことをいうのだろう。ぼくは、こういう子供の話に弱い。めろめろである。

 さいごに、彼女は、大人になってもひとに甘えてもいいのだということに気づく。だれにも甘えずにいると、心に、「へんなもの」が溜まっていってしまう。だから、甘えてもいい。

「おかあさんはね、さきがいつあまえてきてもいいように、いつでもさきがあまえてくるところをあけてまっているの。見えなかった?」と、おかあさんは聞きました。
 わたしは見えなかったのです。でも、今は見えます。

 そう、いまは見える。

 しかし、大人になってもまだ、この真理がわからないひとは大勢いる。

 ひとは、ひとに頼ってもいいし、甘えてもいい。泣いても、わめいてもかまわない。不完全でも、不十分でも、他人に迷惑をかけてもいい。そのままで生きていっていい。ただひたすらに耐えてばかりいると、心が歪み、たわみ、ねじ曲がっていってしまうから。

 じつのところ、ぼくも明らかにそういうタイプ。咲紀ちゃんの言葉は身に染みる。完璧な作文だ。

 人は、みんな、心をくっつけ合って、生きていくのです。でも、くっつけすぎには気をつけて、みんな元気な時ははなれて、じぶんのことをちゃあんとするのがいいと思います。
 わたしは、がんばって大きくなります。