ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

Something Orange このページをアンテナに追加

2008-01-14(月)

 萌え文化よ、さようなら。


結構前から言われてるかもしれないけど、最近のオタクカルチャーの趣向というか指向性って、完全に「萌え」から「ネタ」に移った感じがする。といっても「萌え」が完全にいらなくなったってわけではなく、最低限の「萌え」要素とかシチュエーションがあって、そこからネタ的に転がしたりメタ視点からネタにしたりする物が増えたっつーか、話題にあがるのはそんなのばっかっという感じ。
もちろん未だに直球の「萌え」重視の作品もあるし、それが一定の支持を得ているけど、かつてほどの勢いは間違いなくないし作品数も少なくなったと思う。

 そのことはぼくも感じていた。だから、オタク文化の象徴として「萌え」が取り上げられることには若干の違和感を感じている。

 いま、一般メディアや「一般人」のあいだでは、「オタクといえば「萌え」」なのだろうし、オフラインのオタクメディア、たとえば『メカビ』辺りも、「これからは「萌え」の時代だ!」というメッセージを発信しているように見える。

メカビ 2008年冬号 (講談社 Mook)

メカビ 2008年冬号 (講談社 Mook)

 でも、ぼくとしては、「いや、もう、「萌え」の時代は終わったよ」といいたい。

 というかもう何年も前に「萌え」文化は絶頂期を過ぎていると思う。『シスプリ』や『デ・ジ・キャラット』、あるいは葉鍵を中心とする萌えエロゲにあった興奮は、いまの「萌え」文化にはない。

 「萌え」という言葉が流行語になり、「一般人」にまで知れわたった時点で、「萌え」はオタク文化の最前線から下りていたのではないだろうか。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』が萌えアニメとしてどれほどよく出来ているにせよ、そこに何かしらあたらしいものがあるわけではなかった。むしろ、それは既存の文化を洗練させ、完成させたに過ぎない。

 それがわるいといっているわけじゃない。そうじゃなく、「萌え」文化はすでに絶頂を過ぎて爛熟期にはいっているといいたいだけだ。

 なかなかあたらしいものは出てこなくなってきている。逆にいえば、既存のアイディアを創造的にいじりまわして遊べるほどの蓄積が生まれたということである。

 本当にあたらしく同時代的なものは、『ハルヒ』ではなく、『ハルヒ』を素材として消費した「ネタ」文化のほうにあったのだ。

 「初音ミク」は一面ではたしかに「萌え」キャラだけれど、そこにミクのおもしろさがあるわけじゃない。だれもミクにベタに萌えているわけじゃない。ただ、さまざまにミクを使ってあそびたおしているだけである。そういう時代だ。

 岡田斗司夫的なオタクエリーティズムが古いことは論を待たないが、本田透的な「萌え」求道主義もやはり古い。もうそんなに生真面目にオタク文化に接する必要はないのである。

 もちろん、「萌え」文化と「ネタ」文化は地続きではある。「ネタ」文化は「萌え」文化という土壌のうえに咲きほこっているのだし、そういう意味では「萌え」は生きのこっている。

 でも、ただベタなだけの「萌え」文化はもう生きのこれそうもない。そうかといって、ただネタとしておもしろいだけのものは一時的に消費されて忘れられていくだけだろう。

 いま求められているものは、ベタな物語としてのおもしろさと、多重的な「ネタ」消費にも耐えられる奥行きを備えたコンテンツである。

 いいかえるなら、ひとりで見て十分におもしろく、しかも皆でネタにするとさらにおもしろい作品ってこと。

 さようなら、「萌え」文化。ぼくを楽しませてくれてありがとう。こんにちは、「ネタ」文化。今後ともよろしくお願いします。