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2008-02-04(月)

島本和彦はひとのこといえるのか問題。


 漫画家島本和彦のこの発言が気になっている。

 「再創造を突き詰めるとガイナックスになる。ガイナックスはせっかく大ヒットを生み出してるんだから全部自分で考えればいいのに、あーいらいらするなぁ、また人のせりふを使ってるのかおまえら! と。ガイナックスのようなジャンルはあっていいが、自分で作れるんだから、自分から考えろと」(島本さん)

 島本さんはこの件でガイナックスに電話をかけたらしい(笑)。

 ま、その場かぎりのことと思ってこその放言のようだから、一々その成否をあげつらうつもりはない。いいたいことはわかる。

 ただ、おもしろいと思うのは、ぼくから見ると島本さんもガイナックスもそう変わりはないように見えることである。

 こういうふうにいうからには、島本さんは自分の作品は「全部自分で考え」ていると思っているのだろう。しかし、かれの作品の大半は熱血青春もののパロディである。

 また、たとえば『燃えよペン』などは、タイトルからして司馬遼太郎のパロディになっている。

燃えよペン (サンデーGXコミックス)

燃えよペン (サンデーGXコミックス)

 こういうことは島本さんにとって、「自分で考え」ていないことにはならないのだろうか。たぶん、ならないのだろう。

 たしかに、過去の名作から雰囲気だけ借りてくる島本作品と、しばしば過去の名作の台詞や場面をそのままサンプリングして用いるガイナックスでは、同じパロディ、あるいはオマージュとはいっても次元が違う、ということはできる。

 ただ、その境界線はいかにも曖昧である。島本作品だってひとのことはいえないと思うひとも多いだろう。

 ところで、こんな記事を読んだ。

随分抽象的な話になってしまったのだけれど、なぜこういうことを考えたかというと、私は二次創作は模倣ではないと思っているためだ。ここまで読んできて、え?と思われるかもしれない。

ただ、全ての二次創作物が模倣ではない、というわけでもない。「過去」に頼ってオリジナルをなぞるだけでは、受け手にとって「今日」の創作者のエネルギーや創造性を感じることはできないだろう。もちろん、創作者は創造性もエネルギーも詰め込んだんだと思うかもしれない。そこには価値観の違いもあるだろうが、ただ、自分自身が創造性、エネルギーを詰め込んだ(費やした、ではない)を思っていても、それが伝わらなければ、受け手にとって表現として成り立たないのかもしれない。

そういった意味では、二次創作は「挑戦」でもあるのだと思う。その挑戦に打ち勝ったと感じられるものであれば、例えオリジナルの著作物が存在する二次創作であっても、私はそれが立派な創作物であると感じるのだろう。

 この記事では、岡本太郎の発言を引用して、二次創作にも「模倣」にとどまらないものがある、と語っている。その境界を定めるのは「過去」にばかり頼らず「今日」の創造性をこめることだ、とも。

 ぼくも賛成する。歴史といい、伝統という。しかし、ただ過去の遺産を営々と守りつづけているだけでは、時代からおいて行かれるばかりだろう。

 本当に伝統を守るためには「過去」に「今日」の息吹をこめなければならない。そこには、十分にクリエイティヴなチャレンジがある。ぼくもそう思う。

 ぼくは「全部自分で考え」ていないという意味では、ガイナックスも島本和彦もそう変わらないと思う。というか、純粋にオリジナルな作品を創造できるひとなんていない。

 はるかな昔からクリエイターたちは皆、だれかの作品の影響を受けて新たな作品を生み出してきたのだ。ある意味では岡本太郎もガイナックスも島本和彦も、「全部自分で考え」てはいないはずである。

 だからやはり島本さんはガイナックスのことをとやかくいうことは出来ないと思う。しかし、問題は「全部自分で考え」ているかどうかではないはずだ。

 たとえ、その作品が過去の作品のパロディ、オマージュ、サンプリングに過ぎなくても、そこに「今日」の作品としての問題意識があるかどうか、その点こそが重要である。

 その意味ではすべての作家が同じ条件で勝負しているといってもいい。島本和彦もガイナックスもそう変わりはない。しかし、かれらはそのことを恥入る必要はない。

 かれらの作品には(たとえ『ヱヴァンゲリヲン』のように過去作品のリメイクに過ぎない作品でも)、十分に今日的な意義がある。その点こそが肝要だ。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 特装版 [DVD]

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 表面的にオリジナルに見える駄作より、敬意ある模倣にもとづく傑作のほうがずっと良い、と思うのである。