ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

Something Orange このページをアンテナに追加

2008-03-20(木)

キャラ萌えリテラシー。


確かに「少女」「美少女」という言葉はずるいもので、小説の中に出てくるだけで「ああ、多分かわいいんだろうな」という魔力があります。

マンガでの表現になると、そこがちょっと変わってきます。なんせ絵がある。

しかし、多くの作家さんが描いてきた「美少女とされる女の子」は確かに、あらゆる要素をもって「かわいい」とされるのが楽しいところです。だって、美少女、見たいじゃん!

 見たい見たい。

 ただ、いくら「「少女」「美少女」という言葉はずるいもので、小説の中に出てくるだけで「ああ、多分かわいいんだろうな」という魔力があります」とはいっても、それは巧い作家の話。

 未熟な作家が書くと、ただ言葉が上滑りするだけで、少しもかわいく思えてなくなってしまう。

 極論かもしれませんが、小説の場合、いくら華麗な形容詞を用いて美少女を表現してもあまり意味がないと思うんですね。

 悪い例として挙げるのは恐縮ですが、先日読み上げた『とある飛空士への追憶』では、メインヒロインの美貌が言葉を尽くして賛美されていました。

 いま教師の正面に座っているファナは、唯一神が持てる情熱をすべて注ぎ込んで完成させた芸術作品そのものだ。
 神の鼻くそをほじくりながら創られたもののひとりとして、教師は遠く隔たった絶対美の在り方に見惚れてしまう。ここまで次元が異なると羨望や嫉妬など入り込む余地はなく、ただ口をぽかりとあけて、神の本気の造形に魂を奪われるのみ。

(中略)

 ファナが道を歩くと、すれ違った通行人たちが瓦斯灯にぶつかったり側溝に落ちたり馬車に轢かれたりする。ファナが会談を上がると、うえのほうから段を踏み外した若者や中年や老人がごろごろ転がり落ちてくる。男性だけではない。女性までもが階段を踏み外し、見とれた顔で転がってゆく。危険なため、最近はファナの周囲に人垣をつくって階段を上がるようになった。この話を聞いた人間はほとんどがジョークとして受け止めるが、実際に階段のうえからファナを見かけたならその人物も転落するのは間違いない。

 切りがないのでこれくらいでやめておくけれど、とにかく延々と語りつくされていることはわかってもらえると思います。

 でも、こういった表現が、小説として効果を示しているかというと、そうでもない。ただひたすらに大袈裟なばかりで、具体的なヴィジュアル・イメージが浮かんでこない。

 それはたぶん小説というメディアを用いる以上仕方がないことなのでしょう。そもそも小説とは、言葉しか使えないという制約があるため、直接的には「絵」を表現できないメディアなのです。

 だから、小説では主に間接的な表現が多用されることになる。逆にいえば、小説では、間接的な表現を使うことでいくらでも美少女のイメージを生み出すことができる。

 つまり、「絵」を描けない代わりに、「絵にも描けない美しさ」を描くことができるのです。

 具体的なヴィジュアル・イメージに束縛されない抽象的な美。いわば、「美そのもの」とでもいいたいような美を描くことができる。

 乙一『GOTH』のヒロイン森野夜なんかは、さほど執拗に形容されているわけでもないのに、鮮烈なほど美少女の印象を感じさせます。小説の力というものでしょう。

 それに対して、マンガやイラストでは、どこまでも具体的に描ける半面、具体的に描くしかない、ということもできると思います。つまり、ヴィジュアルの「美」はある一定の限界に縛られている。

 しかし、真に巧みな描き手は、具体的な絵に抽象的な理念をこめます。ひとが何かに「萌える」というとき、デザイン的な端正さに萌えているわけではなく、その絵にこめられた理念に萌えているのだと思う。

 したがって、ひと口に美少女といっても、物語における「美」と、デザイン的な端正さ、そして「萌え」的な愛くるしさとでもいうべきものは、それぞれ矛盾していることがある。

 いい方を変えるなら、ひとは物語における形容に萌えるのでも、デザインそのものに萌えるのでもなく、そのキャラクタにこめられた物語性に萌えるのだと思う。

 萌えオタとは、ようするに、何気ない展開のなかに、あるいは一枚の絵のなかに、何がしかの物語を読み取るリテラシーのもち主なのではないか、と思うわけです。