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2008-05-09(金)

「好き」の分厚い壁。


オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

 そろそろ『オタクはすでに死んでいる』にかんしてひと言いっておくか、ということで、岡田斗司夫さんの新刊の感想など書いてみたいと思います。

 いま、この新聞記事が元で岡田さんはずいぶん叩かれているようです。しかし、中にはそもそもこの本を読んでいないのではないかと思われる記事も少なくない。ここら辺で問題点を洗い出しておく必要があるかもしれません。

 まず、じっさいに本を読めばわかるのですが、『オタクはすでに死んでいる』の中で岡田さんが語っているのは、オタクが低俗化したとか、オタク文化が衰退したということとは少し違います。

 むしろ「いままで「オタク」と呼ばれていたひとたち」を包括的に定義する「オタク」という概念が求心力を失った、ということのようです。

 どういう意味でしょうか? 岡田さんの分析を僕なりにまとめてみると、こういうことになります。

 その昔、岡田さんたちの時代では、「オタク」と呼ばれるひとたちは、ひとつの集団、いわば「大陸」を形づくっていた。

 アニメオタク、特撮オタク、パソコンオタク、アイドルオタクなど、いろいろな種類の「オタク」がいたが、お互いに共通の知識がなくても、同じ「オタク」として認め合っていた。

 なぜなら、「オタク」たちは、一種の日陰者意識というか、社会から阻害された趣味を抱えているという意識を共有していたからである。

 そしてそれは裏を返せば一種の選良意識でもあった。その意味で、俗に第一世代と呼ばれるこの時代の「オタク」は、「貴族」だった。

 しかし、最近「オタク」と呼ばれているひとたちは、「「萌え」がわからなければ「オタク」ではない」などと、排除の論理を振りかざすことが少なくない。これはいままでの「オタク」には見られなかった論理である。

 このことの背景には、「オタク」の世代交代がある。自分たち「オタク第一世代」は「貴族」意識を共有していたが、いまの「オタク」の中核を成す「第三世代」のひとたちはそうではない。

 かれらにはもはや同じ「オタク」であるという意識はない。「オタク」はもはや「オタク」同士ならわかりあえるという共有幻想を失ってしまったのだ。

 その意味で「オタク(という概念)」は「死んだ」。もはや同じ「オタク」といえど、無条件に価値観を共有することは出来ない。

 これからの世の中では、個人個人が各人の言葉で自分の好きなものを表現していくほかないだろう。

 と、まあ、ざっとこんなところでしょう。

 細かく見ていくと文句はいくらでもありますが、岡田さんの分析は大枠では正しいと思います。たしかに、現代の「オタク」は、もはやひとつの価値観を共有出来るような集団ではなくなっている。

 その意味では「オタク」は死んでいる。というか、いままさに死につつある。その点にかんしては全くその通りだと思います。

 ただ、岡田さんがいうように「オタク」がいきなり「個人」にまで解体されてしまうとは思わない。むしろ、「オタク」は「××オタク」という小集団に分かれ、それぞれの間では言葉が通じなくなった、というほうが正しいように思えます。

 それでは、この集団を束ねているのは何か? ぼくはそれは「好き」、あるいは「萌え」といういたって私的な感情だと思う。

 本書の中で、岡田さんはこう述べています。

 同じように「萌え」と言いながらも、一人一人のオタクで、萌えポイントは違う。ただ「萌え」という言葉だけが一緒だから、なんとなく一緒な感じがして、ちょっと安心できる。その「萌え」とは何かという評論っぽいことには興味がない。難しい言葉で「わかんない」と思ってしまったら、その中心に自分はいられなくなってしまうから。
 第三世代のオタクたちの興味は、徹底して「わたし」なのです。
 だから「わたし」の好きな作品以外には、ほとんど価値を認めないのですね。

 ここら辺の分析がどこまであたっているのか微妙なところですが、とりあえず、いまの「オタク」が自分の好きなもの以外に以前より興味を抱かなくなっているということはたしかでしょう。

 これはペトロニウスさんがこう書いているのと同じことです。

その最たる最悪のパターンの一つは、「自分が好きなこと」という感情の原点から、それを無自覚に一般化・普遍化する行為です。ほとんどの感想を書いている文章やお話がものすごくつまらないのは、本人が「誰もそう思う」と独善的に思い込んでいることが、その人だけの感覚世界の思い込みに過ぎないことを無自覚な時に起きます。ビジネスの世界や社会などでこの傾向が強い人のことを、いわゆるKY(=空気読めない)人とも言いますよね。あれと同義です。こういう人は、申し訳ないが、そもそも頭が悪い(=ロジックというものへの志向性が弱い)人が多くて、「自分が好き」というものがあれば、対偶みたいな感じで「相手はそれが大嫌い」とか「他人にも好きなものがある」ということを、同じ主観レベルで価値が同列と考えられないものなのです。えっと、どういうことかというと、さすがに相手が「自分と同じものを好きとは限らない」ことはわかるのですが、そういう相手を自分の人間関係から締め出して、「好き」だけでネットワーク(=交友関係)を作っていくのですね。ようは、自分が好きなものを好きじゃない人は、友達じゃないと自分の世界から締め出すわけです。好きという善なるものから出発して対象への視線が好きの独裁化を招くことにより、それがいかに稚拙で独善的なアプローチとなっているかについて、無自覚であることは、とっても悲しいことですよね。

僕は上記のような、「他者に伝えて普遍性を獲得しなければならない!」という思い込みを、「近代自己実現的自我による成長という害悪の病」(いまつくった)によるある種の病気だとは思っています。

そう、「これ」も、やっぱりある種の好みによる独善的アプローチの一つなんですね!と相対化できる。2000年代では、もうこのあらゆる価値の相対化処理は終わっているので、だからこそ、「好きこそ至上主義」という感情という、意思の交えない情動に対するある種の復権があるのでしょう・・・。そう、いやーどのアプローチもダメなんだよ!、だからスキだけでいーじゃん!というのが現代(笑)。だから、とりわけネットコミュニティには、この「好き」ということを至上とする・・・論理性や科学性による批判を許さない「戯れ」に終始する島宇宙(=コミュニティー)がたくさん形成されるんですよね。

 「好き」あるいは「萌え」とは、論理的な言葉ではありません。自分自身の主観的な好悪を表しているに過ぎない。したがって、広くひとと共有することは出来ません。

 たとえば、『魔法先生ネギま!』が大好きなひとがいるとしましょう。このひとの「『ネギま!』を好き」という気持ちは、同じ気持ちをもっているひと同士なら共有できるかもしれませんが、「『ネギま!』が大嫌い」というひととは共有できません。

 つまり、「好き」とは同じ価値観をもつひと同士のごく狭いサークルの中でしか通用しない価値観なのです。逆にいえば、小さな集団の中なら十分通用する。

 ネットを見ていると、いまの「オタク」業界では、そういう「好き」で結ばれた小集団がいくつも出来ているように見えます。

 ただ、ペトロニウスさんも書いていますが、それは一概に非難できるようなことではありません。

 というのも、あまりにもいまのオタク業界は豊かすぎる。自分の好きなものだけで簡単に満腹になれてしまう。こういう時代では、自分が好きじゃないものまでわざわざフォローしようという気がなくなっても当然だと思います。いわば飽食の時代ならぬ飽萌の時代ですね。

 で、部外者のぼくから見ると、たとえば、アイマス界隈なんかは典型的な「「好き」至上主義コミュニティ」に見えるんですよね。

 『アイドルマスター』という作品、あるいはそこから派生した動画を「好き」な者だけで集まって、わいわい仲良くやっている。

 内輪ではものすごい文化が出来ていて、膨大な知識や専門用語が生み出されているけれど、「外」に対する訴求力は強くない。

 と、じっさいどうなのかはわからないけれど、そういうふうに見える。

 ぼくは『アイマス』にはくわしくないけれど、まきがいさん(id:sikii_j)のブログを読んでいると、その世界にめちゃくちゃ文化的蓄積があることがわかります。

 ただ、その「常識」というものは、その作品を「好き」な者同士の間でしか通用しないわけで、そういう意味ではやっぱり閉じている気はする。あえて否定的ないい方をするなら、狭い。

 しかし、ぼくの場合、やっぱりそれを否定できるかというと、出来ないんですよね。だって、下手に「好き」を共有できない「外」の住人にアプローチしたら、不快なことが起こることは目に見えているわけですから。

 「好き」を共有できるもの同士で仲良くやっていきたいと思っても、全く無理のない話だとは思う。

 ただ、ぼくには一方で「好き」を、個人の主観的価値観を超えてコミュニケーションしたいという欲望もある。しかし、現代という時代において、それがどれだけ望まれているのかはわかりません。

 「好き」を共有できない者同士でやり取りすれば、相手を傷つける可能性もあるわけで、そういった非「好き」共有型のコミュニケーションは、ある意味では暴力的なものといえるかもしれません。

 ここら辺でぼくは悩んでしまう。はたして「好き」で結ばれたコミュニティのなかへ「外」から言葉を投げかけるのは正しいことなのか、どうか。それは暴力なのではないか?

 そして、もはや「好き」の壁を越えた価値観、コミュニケーションなど必要とされていないのではないか? その内側で十分豊かに幸せにやっていけるのだから。

 あなたはどう思われますか?