ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

Something Orange このページをアンテナに追加

2008-05-16(金)

オタクから個人主義へ。


 伊藤剛さんの文章。

誰かが「オタク」であるかないかなど、最初からどうでもよく、単に「アニメが好き」「ゲームが好き」「マンガが好き」でいいだけの話です。それぞれがそれぞれの対象を「好き」と言ってればいいだけの話です。そこで互いに「分かりあえない」のは当然のことで、それは出発点であって終着点ではありません。フリッパーズ・ギターの歌詞「分かりあえやしないってことだけを、分かりあうのさ」は、まさにそのことを適確に示したものでしょう(このパラグラフは、海燕さんid:kaien:20080509:p1に向けています)。

 この文章を読んで、ぼくは竹熊健太郎さんの『私とハルマゲドン』を思い出した。

 私の見たところ、多くのオタクは「世間」に対して「我関せず」の態度を装う個人主義者のように(一見)見えるものの、その実オタク同士でも「話のわからない」連中を排斥し、「話の分かる」相手とはベタベタに「依存」しあうという関係がはびこっているように思えます。まあ、これはオタクに限りませんね。一般的に人間社会はそうなんだと思います。私だって「排斥」や「依存」とは無縁ではない。ふと気が付くと、私も無意識のうちに誰かを正当な理由もなく排斥していたり、過剰に依存していることに気が付いて、自己嫌悪に陥ることの繰り返しです。

私とハルマゲドン (ちくま文庫)

私とハルマゲドン (ちくま文庫)

 両者とも、色々と考えさせられる文章だ。

 ぼくもどちらかといえば「オタク」という集団に帰属意識を抱くことに対して批判的である。というのも、「オタク」という概念に縛られて雁字搦めになっているひとをたくさん見てきたからだ(ぼく自身にもそういうところがあると思う)。

 山本弘さん辺りを見ているとわかるんだけれど、自分を「オタク」とか「ファン」などと規定することは、自分で自分を一定の限界に縛り付けることでもある。

 以前にも何度か書いたが、自分を「SFファン」と定義する山本さんは、そのことで「文学」を仮想敵に仕立て上げてしまっていると思う。ろくに文学作品など読んでいないにもかかわらず、である。

 そしてまた、かれの批判は「文学」を肯定的に見るSF内部にも及ぶ。まさに伊藤さんがいうように「必然的に共同体の「外」にも「内」にも敵を見出」しているわけだ。

 もちろん、個人的に「文学」作品が好きではないということは、それ自体は個人の趣味嗜好である。他人が文句を付けることではない。しかし、ぼくの目から見ると、かれは「文学」に偏見を抱いているようにしか見えない。

 主流文学にもSFに負けず劣らず荒唐無稽な話はあるのに、その事実を無視しているように思えるのだ。たぶん、山本さんの頭のなかにある「文学」は、じっさいの文学作品とはほとんど関係のないものだろう。

 かれはゲーテとヘッセ以外の文学作品を読んでいないと明言している。これはハインラインとブラッドベリだけを読んで現代SFを語るのと似たようなものだ。

 かれの「文学」や「権威」に対する攻撃性は、ぼくにはほとんど非理性的なものに思える。あれほど頭のいいひとが、このことになると急に攻撃的になるのは、端から見ていてもふしぎなものだ。

 これこそ、帰属意識がもたらす弊害だといえるのではないか。

 もちろん、「オタク」にも同じことがいえる。自分を「オタク」だと認識することは、すなわち、「非オタク」を生み出すことでもある。

 そして、その視点は、両者を「仲間」と「敵」に分けることにも繋がっていきかねない。それが非常に危険なことであることは、いわなくてもわかってもらえるだろう。

 岡田さんは、「オタク」を「民族」にたとえる。「オタク」とは、一つの民族のようなものであり、それゆえにたがいに理解しあえるという共同幻想を抱いてこれたのだと。

 しかし、岡田さんは「民族主義(ナショナリズム)」がさまざまな弊害を伴う事実を無視している。自分の民族をのみ崇拝し、他民族を排斥するナショナリズムが過去どれほどの惨禍を生み出してきたか、まさか知らないわけでもないだろうに。

 自分を「オタク」と定義し、ほかの人間とは違うと思い込んだ時点で、どうしようもなく差別と偏見は萌芽してしまっているのである。竹熊さんがいう「排斥」と「依存」は「オタク」の本質に絡む問題だ。

 岡田さんは、第一世代の「オタク」たちは、知的に秀でた「貴族」だったという。しかし、その優秀性は、結局のところ、仲間同士で認め合うしかない。

 逆にいえば、仲間の間で一目置かれることこそ、かれらにとっての最大のプライドなのである。ここに「オタク」同士の「依存」の問題が生まれる。

 伊藤さんがいうように、第一世代の「オタク」が「女性嫌悪的であり、ホモフォビック」であるのは、一つにはここに原因がある。

 岡田さんたちがどれほど「自分にはこんなにも知識があるぞ」「だから尊敬せよ」といったところで、そんな言葉に従うのは、結局のところ、男たちだけなのである。

 つまり、岡田さんがいうところの「オタク」とは、「世間」に対する「排斥」と仲間同士の「依存」が裏表になった思想集団だといえる。

 このことは、唐沢俊一さんの盗作問題のとき、露骨にあらわになったと思う。岡田さんも山本さんも、唐沢さんの盗作問題について、とうとう深く言及することがなかった。

 しかし、あの問題こそ、オタク第一世代の「貴族」性が幻想に過ぎなかったことを暴露するものではなかっただろうか。

 「オタク」を「貴族」とするなら、そのなかの大貴族ともいうべき唐沢俊一が、その実、他人の文章を盗用して恥じない程度の識見のもち主でしかなかったということ、そしてそのことを遂に謝罪しようとすらしなかったということ、これは岡田さんの思想を根底から揺るがす事実のはずである。

 それにもかかわらず、岡田さんはこの件を無視した。これこそ、「オタク」たちが「ベタベタに「依存」」しあっていることの証拠ではないか。

 「オタク・イズ・デッド」とは、この依存関係の終結を意味している。世代交代とともに、「話のわかる」相手であったはずの「オタク」は、岡田さんにとって「話のわからない」「依存しあうことのできない」人間になってしまったのである。そして、岡田さんは「話のわからない」若い連中を「排斥」しはじめる。

 岡田さんは、『オタクはすでに死んでいる』の結末で、「大人になる、というのはイヤなことだけじゃないかもよ」と、まるで大人として子供を諭すようなことを書いている。

 だが、じっさいにだれよりも子供っぽいトラブルを起こしてきたのは、岡田斗司夫そのひとではなかったか。かれが伊藤剛さんや竹熊健太郎さん相手に取った態度を、ぼく(たち)は忘れていない。

 しかし、それでは、「オタク」が死んだことによって、「依存」と「排斥」の問題は解決したのだろうか。岡田さんのいうように、これから「オタク」は「個人」にまで還元されるのだろうか。

 以前の記事で書いたように、ぼくはそうは思わない。「オタク」の死後も、より小さな集団に分かれて、「依存」と「排斥」は続くと思う。

 伊藤さんはいう。

私たちは「分かりあっている」からコミュニケートするのではない。そもそも互いにすべて「分かりあえない」から懸命に言葉をつむぐのです。「他者と出会う」とはそうした認識のことだし、裏を返せば、そこで「ちゃんと一人になる」ことを引き受けた地点からはじめるということです。この当たり前のことが、岡田氏にはできていないようです。「オタクだからお互いに分かりあえる」という幻想は、そもそも真の意味でのコミュニケートの契機を塗りつぶし、見えなくする。社会学的な言い方をすれば、コミュニケーションコストの低減のための方策ということになるでしょうが、結局のところ、お互いに甘えあっているだけの相互依存にすぎません。言葉を変えれば、岡田氏はついに「自立する」ことがなかった。

 ぼくもそう思う。

 しかし、「ちゃんと一人に」なり、「他者と出会う」ということは、本質的にタフな作業である。竹熊さんがいうように、人間はどうしても「話のわかる」人間とだけ「依存」しあうものだ。

 その意味で、個人主義はこれからの「オタクでなくなってしまったオタク」たちの課題だろう。

 「オタク」から個人へ。価値観の異なる相手ともきっちりと対話しあうことのできる「言葉」を確立するということ。互いにわかりあえないこと、差異があることを前提として受け入れ、その上でなお、理解しあえる何かを模索すること。

 第一世代の遂に成し遂げられなかったことを、第三世代以降の「ポストオタク」世代は成し遂げるのかもしれないし、やはりあいかわらず「依存」と「排斥」が続くのかもしれない。それはわからない。

 そして、ぼくはこうも思う。本当にいまの「ポストオタク」たちは「他者」を必要としているのだろうか? 自分の「言葉」の通じる狭い範囲でナルシシズムを満足させていればそれで十分なのではないか?

 いまのオタク文化は十分にその態度を許容するし、閉鎖した楽園ほど心地よいものはない。

 ただ、ひとついえることは、「ぼくは」それでは満足できないということである。閉ざされた楽園は、ひとを優しく癒してくれるかもしれないが、しかし、やはり致命的に刺激が足りない。ぼくが求めているものはそこにはない。

 そういうひとはどれくらいいるのだろう?