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2008-12-23(火)

「オタク」から「キモいヘンタイ」へ。


 長いあいだ中断していた連載コラム「オタクとは何か」が、このたび、書き手の大泉実成さん(id:oizumi-m)のブログで再開することになった。

 正直、長文のコラムは横幅の狭いブログでは読みづらいのだが、とにかく連載が再開にこぎつけたことを喜びたい。このまま終了してしまうんじゃないかと思っていましたよ。

 今回で第18回に達する連載は、いま、「オタクとは何か?」という疑問を「オタク男性の女性性」というテーマに集約しつつあるようだ。

 大泉さんが観察したところによると、多くのオタク男性には女性的な側面が見られる。それどころか、好んでネットで女性を装うひともいる。いったいこれは何なのか。かれの興味はそこへ向かっていく。

 ここでぼくが思い出すのは、よしながふみさんの対談集における、三浦しをんさんの発言である。

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

 この興味深い対談集のなかで、彼女は「女になりたい、と切実にいう男性など見たことはない」という意味のことを述べていたのだった(いま、本がどこかへ行ってしまったので、正確に引用できません。すいません)。

 ところが、大泉さんの取材では「女の子になりたい」といい出す男性が頻繁に登場する。どういうことだろう?

 ま、大泉さんの取材に出てくる男性陣の態度は、三浦さんの尺度では「切実」に値しないものなのかもしれないが、ぼくにはもう一つ思い当たることがある。

 仮に「女性になりたい」という欲望があるとしても、それを表に出すことはなかなかできないということだ。

 「女の子になりたい」なんて、ネットならともかくリアルではそうそういえるものじゃないよなあ、と一男性としてぼくは思うのである。それはもう、切実なら切実であるほどいえないだろう。大泉さんの場合は、同じ職場で仲間として働き、親しくなったからこそ彼らの本音を聞きだせたのではないか。

 熊田一雄さん(id:kkumata)のブログでは、「男らしくない男」についてこのように書かれている。

欧米では、「男の中の男」のイメージ(覇権的男性性)からはずれた「男らしくない男」は「女々しい」と差別されるようですが、キリスト教文化圏の欧米社会(アダムとイヴの話を信じている人たち)ほどには性別二元制が強固でない現代の日本社会では、「男らしくない男」は、「キモい」と呼ばれて差別されることが多いように思います。私は、キモいヘンタイたちを応援します。

 すくなくともいまの社会では、うかつに女性化願望など口に出したりしたら、「キモいヘンタイ」として「差別」される宿命にあるのである。そうそう口に出せることではないだろう。

 そもそも、「オタク」であるということは、その時点ですでにどこか「男らしくない」ことである。熊田さんの表現を借りるなら、この社会の「覇権的男性性」から逸脱している。

 その上でさらに「女性になりたい」と発言することは、そうとうにリスキーなことなのではないか。

 したがって、そういう本心は、仲間内のなかでこっそり吐露される以外はなかなか表に出ないのではないか。そう思うのである。

 しかし、この大泉さんの取材を見るかぎり、「女性になりたい」という願望を抱えたオタク男性は少なくないようだ。

 大泉さんは、そういうオタク男性たちは女性の美質を内に取り込みながら作品を鑑賞しているのだ、それは自分にはなかったものだ、と驚嘆をこめて語っている。

 つまり、僕にとっては女性の美質というのは、対象として愛でるためのものであって、それを学んで自分の内に取り込むものではなかったのである。

 そしてもっと驚くのは、このような観点から見ると、店の身近な萌えオタクたちは、僕が想像もできなかったこのような女性的資質の取り込みを、実に自然に行っているということなのである。

 これまでこのルポの中で、彼らの気配りの周到なことや配慮の細やかさなどを報告してきた。このような彼らのやさしさの背後には、こうした女性的資質の取り込みがあったのだ。

 ここら辺のことは、先述の熊田さんが著書『男らしさという病?』のなかで百合好き男性について語っていることと共振している。

男らしさという病?―ポップ・カルチャーの新・男性学

男らしさという病?―ポップ・カルチャーの新・男性学

 「見る」ことによって「自分のなかに女性性を取り込んでいく」という行為は、もはやある意味で「男性」として「女性」を「見る」という構図を超越しているといってもいいだろう。

 ここにあるものは現代社会を支配する「二分法の病」からの逸脱である。「男」と「女」という二つの基準のいずれからも距離を置いて自分自身である試み、とでもいえば良いか。

 いいかえるなら、彼らは「女性になりたい」のではなく、「女性でもありたい」のだ、といえるかもしれない。彼らの自意識は「覇権的男性性」とか「覇権的女性性」という規範に入りきらない性質のものなのだ、と。

 いまの社会規範では、彼らはただの「キモいヘンタイ」かもしれないが、ぼくは彼らを応援したいと思う。男性が女性的美質にあこがれることは、ぼくには少しも不自然なことではないように思えるからだ。

 自分が美しいと思うもの、すばらしいと思うものを自分のなかに取り込んで成長していくということは、非常に自然かつ良いことなんじゃないかな。

 「オタク」から「キモいヘンタイ」へ。進歩は続く。