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2009-04-02(木)

スピリチュアルペインの時代。


 ここ一週間ほど、スピリチュアル関係の本やら、宗教書やら、哲学書やらを読みあさっている。

 それだけを見ると、何か人生に悩みを抱えているようだが、そうではない。ただ、いま、この社会が抱える問題にかんする答えを捜したかったのだ。

 もちろん、そんなものがそう簡単に見つかるはずはない。しかし、いくつか、おもしろい「問い」は見つかった。まだ巧くまとまらないのだが、まとまるまで待っていたらいつまでかかるかわからないので、そのことについて書いてみる。

 スピリチュアルペインという言葉をご存知だろうか。日常的に使われる単語ではないため、ご存じない方が多いと思う。

 まだ明確な日本語訳すらない言葉なのだが、あえて訳すなら「霊的な痛み」「たましいの痛み」ということになる。こう書くとオカルトじみているが、あくまで医療用語である。たとえば末期がんの患者が抱える実存的な苦痛のことを指す。

 以下の説明がわかりやすいだろう。

 さて、「がん」には多かれ少なかれ身体的な痛み(pain)はつきものであるが、では、スピリチュアル・ペイン(spritual pain)とはいったい何であろうか? 実はこの言葉にはまだ適当な日本語訳がない。「霊的な痛み」という日本語を見かけるが、これではますますわからない。まるで何かの霊に取り付かれているように思われる。

 「精神的な痛み」としても、どういうものかは少しわかりづらいかもしれない。要は「自分自身の存在を否定されるように感じる心が発するシグナル」なのだ。身体的な痛みと同様、心の「痛み」にも、今、早急な対応が求められているのである。

 具体的な事例を考えてみよう。死を目前にした患者が次のように言う。「医師、看護婦はもちろん、家族までもが「まだ頑張れ」と言う。でも、いったい私は何をこれ以上頑張ればいいのか? 私の人生はまだ頑張り足りなかったのか? そもそも私の人生はいったい何だったのだろう?。」 身の回りに、「がん」にかかった人がいれば、皆、はたと思い当たるのではないだろうか。つまり、患者自身の人生の否定、価値観の否定、そして最終的には存在自身を否定されることに起因する、抑鬱、不安、怒り、いらだち、諦観など、すべてがスピリチュアル・ペインなのである。

 「死」という絶対現実に突然直面させられ、自分の人生は何だったのか? 生きる意味はあったのか? と、突然、存在の根幹にかかわる「問い」を突きつけられてしまう痛み、それがスピリチュアルペインである。

 しかし、すべての人間が死刑囚であることを考えれば、スピリチュアルペインはがん患者だけの問題ではない。著書『〈スピリチュアル〉はなぜ流行るのか』のなかで、磯村健太郎は書く。

 この本では「空洞化するこころ」の風景をいくつか見た。冒頭に載せた「お悩み解決館」のケータイ画面はその一例だった。それらにくわえて、メンヘル(メンタルヘルス)系のウェブサイトで目につく「消えたい」という表現も無視できない。死にたい、とはちがう。つぶやきの奥から「ほんとうは生きたい」「人生の手ざわりがほしい」という声が聞こえてくる。リストカットと同じ質の痛みがある。

 わたしの人生とはなんなのか。
 消えたいと思ってしまう自分を、どう理解したらよいのか。

 これは実存的な空虚感のことであり、広義のスピリチュアルペインだと思うのだ。スピリチュアル文化がさかえる背景の一つには「むなしさ」がある。

 本来の語義を考えれば、磯村は、スピリチュアルペインという言葉をあまりに広く用いすぎているかもしれない。しかし、ぼくもかれに倣って、この言葉を広い意味で使ってみたい。つまり、現代とはスピリチュアルペインの時代ではないか、と問いかけてみるのだ。

 スピリチュアルペイン、それは存在そのものが否定される痛み、何のために生きているのかわからなくなることの痛みだった。

 いまの時代、自分もそれを感じたことがある、というひとは少なくないのではないだろうか。正直、ぼくも感じたことがある。自分は何のために生きているのか。なぜ、生きていかなければならないのか。いくら考えても答えは出ない。その痛み。

 渋井哲也の『若者たちはなぜ自殺するのか』には、そのようなスピリチュアルペインに心をひき裂かれた若者たちが多数登場する。彼らはリストカットし、薬物摂取し、そして自殺を試みる。

 もちろん、そうした若者は極端な例だろう。しかし、かれらが抱える「実存的なむなしさ」の感触そのものは、広く、深く、社会の奥底に沈殿しているように思えるのである。

 生きていることが辛い、むなしい、と感じる「生きづらさ系」は、今日、決して極少数派とはいえないはずだ。

 スピリチュアルペインの時代、それは、多くのひとが、実存にかかわる孤独感と寂寞感を抱え、そのむなしさを埋めようと、必死に消費や趣味に耽溺する時代である。

 しかし、消費でも、趣味でも、痛みを消しきれないひともいる。そのようなひとは、悩む。ひとり、真剣に、孤独に、懊悩する。そして、しばしば宗教に救いを求める。そう、たとえば、オウム真理教に。

 地下鉄サリン事件の頃、オウムに高学歴のエリート学生たちが多数所属していたことは、大きななぞとして話題になった。しかし、あの時代よりさらに世相が混迷するいまなら、オウムに入った信者たちの心理も理解できるものなのではないだろうか。

 元オウム信者である高橋英利は、出家にいたるまでの心の苦悩をこのように語っている。

 この時代のこの場所に、なぜ自分は存在しているのか。それが僕の知りたいことだった。前にも触れたように、僕は幼いころから自分の存在が「偶然」によってもたらされたものであること、そこに必然性がないということの不安を、感覚としてもちつづけてきた。存在していることの充実感の希薄さ、それが僕をずっと悩ませていたのである。大学での精力的な活動ぶりは、そんな不安感の裏返しだったのかもしれない。
 僕が「ここにいる」ということにどんな意味があるのか。どう考えてもその答えは見つからない。だが「意味がない」ということが答えだとすると、僕には耐えがたいことだった。両親や親しい友人にも問うたことがあったが、そもそも僕の言ってることが理解できないようだった。「みんなそうなんだよ」「意味などないし、そのことにみんな耐えているんだよ」と言われたこともある。だが、ぼくにはそのように一般化することで自分を納得させることができなかった。

 かれが抱えているこの実存の苦悩、これもまた、最も広い意味でのスピリチュアルペインと呼べるように思う。かれのこうした疑問に答えを返せないかぎり、オウムのようなカルト宗教に入信する若者はいなくならないだろう。

 現代がスピリチュアルペインの時代だとすれば、いまこそ、スピリチュアルケアが必要とされているといえる。

 しかし、じっさいに社会がオウムに対して選んだ方策は、いわば対症療法だった。犯罪者を逮捕し、教団施設を捜索し、教祖を弾劾しはしたが、そのバックグラウンドにある問題に対し、十分に対策したとはいえない。

 それによって、オウムそのものは活動能力をそがれたかもしれないが、その背景にある問題は何ひとつ解決していないといっていい。

 「生きることの耐えがたいむなしさ」は、いまなお、この社会を蝕んでいる。社会はいまだオウムを解決できていないのである。

 森岡正博がいうように、それは「無痛文明」の根源的な問題であるかもしれない。快楽を求め、不快を避ける無痛文明では、「生きるよろこび」が消えていく、と森岡は語った。

 それは一面で真実であるとぼくは思う。あらゆる苦痛を回避させる無痛文明は、スピリチュアルペインをも隠蔽する。

 「生きることに意味はない」「ひとはいつか必ず死ぬ」という存在の絶対的宿命がもたらすスピリチュアルペインに対して、無痛文明が用意した苦痛回避装置が宗教なのである。

 学者として、あらゆる方面から死について考察したエリザス・キューブラー・ロスが、その晩年において、神秘体験を経て、神を信じるようになったことをご存知だろうか。

 キューブラー・ロスはいう。この世に偶然はない。すべては必然である、と。この考え方は、高橋の悩みに対するひとつの答えになるかもしれない。しかし、ぼくたちはその答えに納得することはできないだろう。

 一方、オウム真理教以降、カルト宗教はその危険性を認識され、また宗教組織の堅苦しさにきゅうくつを感じるひとも増えている。そういう事情を背景にして流行しているのがスピリチュアリズムである。

 スピリチュアリズムとは、何らかの「自分を超えた大きな存在」と繋がっているという感覚に根ざす文化である。具体的にいうと、それはパワーストーンであったり、天使グッズであったり、前世占いであったりする。

 日本において、スピリチュアリティという言葉を有名にしたのは、江原啓之である。かれはテレビ番組に出演し、有名人になり、ベストセラーを次々刊行して、スピリチュアルブームを巻き起こした。

 江原の著書を初めとして、スピリチュアリズムの非科学性、非論理性を非難することはたやすいだろう。しかし、現象そのものをいくら仔細に批判していっても、スピリチュアリズムはなくならないと思う。

 より注目するべきはスピリチュアリズムそのものではなく、その背景にあるスピリチュアルペイン、つまり「生きることの耐えがたいむなしさ」なのではないか。

 磯村によれば、平早綾香の歌う『Jupiter』にも、スピリチュアリズムの思想を見ることができるという。

Every day I listen to my heart
ひとりじゃない
深い胸の奥で つながってる
果てしない時を越えて輝く星が
出会えた奇跡 教えてくれる

Every day I listen to my heart
ひとりじゃない
この宇宙(そら)の御胸に抱かれて
(中略)
愛を学ぶために 孤独があるなら
意味のないことなど 起こりはしない
(中略)
私たちは誰も ひとりじゃない
ありのままでずっと愛されてる
望むように生きて 輝く未来を
いつまでも歌うわ あなたのために

 あなたは愛されている。ひとりではない。意味のないことなど起こりはしない。たしかにここにあるものは、紛れもないスピリチュアリズムの思想であるように思える。スピリチュアルペインの時代に歌われるにふさわしい音楽だ。

 いったいぼくたちは、宗教やスピリチュアリズム抜きで、スピリチュアルペインと真っ向から向き合うことができるだろうか。それはすなわち、自分の存在の無根拠性と対峙することができるか、という問いでもある。

 森岡のいう「生きるよろこび」がひとつのヒントになりそうだ。森岡によると、この世にあるすべてのものがやがて消え行くものであることを認識し、自分もまた死に行く存在であることを認めるとき、この世のすべてのものが美しく輝いて見えてくる。

 それは、自分をさいなむスピリチュアルペインから目を逸らさない者にだけ与えられる歓喜の瞬間である。存在の絶対孤独を正面から見据えたものだけが辿り着ける至福の境地。

 この境地を知るためには、各人がどれほど孤独であるとしても、それでもなお、「ひとりじゃない」ことを教える思想が必要なのではないかと思う。ぼくが思い出すのは、宮沢賢治の『春と修羅』だ。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 「わたしといふ現象」は「風景やみんなといっしよに」「せはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづけ」ている、と賢治はいう。

 ここには、自分という絶対孤独の存在を、同じように絶対孤独の生を生きるほかのあらゆる存在と結びつけて考える思想がある。

 生命が光り輝く因果の交流電燈、そのひとつの照明であるとするならば、わたしはひとりだが、ひとりではないのだ。孤独だが、孤独ではないのだ。

 宗教でもなく、スピリチュアリズムでもなく、ただどうしようもない現実を冷徹に見据えることによって、幸福を得る。ぼくが目指しているのは、そんな道である。

 参考文献。

<スピリチュアル>はなぜ流行るのか (PHP新書)

<スピリチュアル>はなぜ流行るのか (PHP新書)

自分と向き合う「知」の方法 (ちくま文庫)

自分と向き合う「知」の方法 (ちくま文庫)

生きて死ぬ智慧

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若者たちはなぜ自殺するのか

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オウムからの帰還

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無痛文明論

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