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2009-04-23(木)

戦争を知らないぼくたちに戦後責任は存在するか?


 本題に入る前にひとつの記事を紹介しておこう。作家の山本弘が、南京事件を巡る中国への謝罪にかんして語っている記事である。

 「中国に謝罪すべきだろうか?」と題して、山本はいう。

 この問題についての僕の見解は単純。「謝罪する必要はない」である。

 だって僕は何も悪いことしてないもん!

 僕は戦後生まれである。父は戦争に行っていたが、南方戦線だったし、1937年にはまだ徴兵されていなかったはず。つまり僕が謝罪しなければならない理由は何もない。

 僕は大阪に住んでいるが、たとえば何十年も前に大阪の警官が兵庫県に出かけていって大勢の人を殺した事件があったとしら、すべての大阪府民は兵庫県民に謝罪しなければならないのだろうか。現代の大阪府知事は現代の兵庫県知事に謝罪しなければならないのか。そんなことはあるまい。

 もちろん、その犯罪を示唆したとか、犯罪の発生を予期していながら放置していたというなら責任はあるだろうが、その場合の責任はもちろん当時の人間が負うのである。生まれる前の事件について、責任などあるはずがない。

 単純明快にして、素朴きわまりない意見である。ため息。自然科学にかんしてはあれほど明晰なひとが、政治や哲学の問題に突入するとなぜこうもナイーヴになってしまうのだろう。

 「生まれる前の事件について、責任などあるはずがない」と語る山本に欠けている視点は明白である。それは「国家の主権者としての国民の戦後責任」を問う視点だ*1

 さて、そこで高橋哲哉『戦後責任論』の話になる。

戦後責任論 (講談社学術文庫)

戦後責任論 (講談社学術文庫)

 高橋は戦後生まれの人間も含むすべての日本国民は戦後責任を有する、と明言している。なぜなら、日本国民は日本という国の主権者であり、この国をより良き方向へ導いていく責任をもっているからである。

 ここでいう「日本国民」がいわゆる「日本民族」を指すものではないことに注意してほしい。高橋がいう「日本人」「日本国民」とは、あくまでも日本という国の主権者としての国民、の意である*2

 高橋は、選挙権をもち、日本国民であることによる利権を当然のこととして享受している人びとは、その国家が過去に犯した戦争にかんする責任を放棄することは許されない、といっているのだ。

 もちろん、山本もいうように、戦後生まれの国民は戦争とその渦中における惨禍に対して直接の罪責(guilt)はもたない。「自分がやったわけではない」ということができる。

 しかし、それにもかかわらず、国家が過去に犯した戦争犯罪にかんし最善の対応を取るべく監督する責任(responsibility)は有するのである。

 「自分がやったわけではないが、日本がやったことではある。そして、自分は日本国民であるから、日本が過去に犯した行為に対しては責任をもつ」ということだろう。

 高橋はresponsibilityという言葉に注目する。それは、もともとは「応答可能性」を意味する単語である。つまり、何らかの「呼びかけ」に対し応答(response)することを意味する。

 高橋はこんな例を挙げる。たとえば、だれかから「おはよう」と「呼びかけ」られたとき、自分はそれに答えるか、無視するか選ばなければならない。それが責任というものの意味だ、と。

 つまり、戦後責任問題に話を戻すと、我々日本国民には中国や朝鮮やフィリピンの戦争被害者からの「呼びかけ」に応じるresponsibilityがある、ということになる。

 すでに「呼びかけ」を耳にしてしまった以上、このresponsibilityを回避することは不可能である。

 むろん、それらの「呼びかけ」を無視することもできる。しかし、あらゆる「呼びかけ」を無視することは、世界に対して自分を閉ざすことに等しい。

 それならば、むしろresponsibilityをひとつの「良いこと」「喜ばしいこと」として捉えていくべきではないか、と高橋は語る。

 responsibilityを有するとは、決して不快な義務を負わされたというだけのことではなく、世界からの「呼びかけ」に「応答」し、新しい展開を導いていく可能性を備えているということでもあるのだ、と。

 ぼくたちは、たとえば中国からの戦争責任問題を巡る「呼びかけ」に対して「応答」する責任をもつ。つまり、答えるか答えないか、答えるとするならどう答えるかを選択する義務を有している。

 それをネガティブなこととしてではなく、ポジティブなこととして受け容れよう、といっているのだ。卓見である。

 その上で高橋は過去の事件に対しジャッジメント(judgement)を下すことの重要さを指摘し、「歴史を裁くことはできない」「過去を裁断することは愚かだ」といった意見を否定する。

 歴史は過去から「亡霊(gohst)」のように立ち上がってくる。我々にはその亡霊に対しジャッジメントを下すことが必要だ、というのである。

 かれはユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントの意見を引き、なぜジャッジメントが必要なのか、丁寧に説明していく。本書のなかでも最もスリリングな箇所だ。

 アーレントによれば、それは第一に正義(justice)の問題である。いったんは完膚なきまでに破壊しつくされてしまった世界に対する信頼を取り戻すためには、「正義」が絶対的に必要である。

 この正義は「復讐」ではない。むしろ、「復讐」をくいとめるためにこそ、「正義」が要求されなければならないのである。

 うしなわれたユダヤの民六百万に相当するだけの犠牲を新たに求めるとすれば、ふたたびどれほどの惨禍が広まることだろうか? そういった展開を阻止するためにこそ「正義」は絶対に必要なのだ。

 正義。今日、正義ほど物笑いの種になる概念は少ないだろう。それはこの社会にあっていかにも幼稚で滑稽な概念であるように思える。

 しかし、大虐殺やホロコーストのような驚異的犯罪を克服するためには、どうしても「正義」に基づくジャッジメントが必要なのである。

 我々は無限の報復を回避しなければならない。そのためにこそ、「正義」によるジャッジメントは不可欠だ。

 日本国民である我々は、諸外国から、また国内からの戦争責任を巡る「呼びかけ」に「応答」し、「正義」に基づくジャッジメントを下させることができるだろうか?

 否、できるか、できないか、という問題ではないだろう。いずれにせよ、絶対に必要なことなのだ。

 戦争を知らないぼくたちにも戦後責任は存在する。それを邪魔だ、不愉快だ、うっとうしい、として否定するなら、日本国民としての利権のすべても捨てて、自ら難民となることが必要になるだろう*3

*1:中国に謝罪すべきだ、といっているわけではない。念のため。

*2:日本民族としての罪責が子々孫々まで血統によって受け継がれていく、といっているわけではないことに留意。

*3:もちろん、その他の国に帰化することは可能だが、その場合、その国の国民としての責任を背負うことになる。