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2009-05-09(土)

あなたの文章を(ほんの少し)綺麗に見せる九つのテクニック。


下手糞の上級者への道のりは己が下手さを知りて一歩目

『SLAM DUNK』

 巧い文章を書きたい。

 読みやすく、わかりやすい。いくら読んでも疲れず、それでいて味がある。そういう文章がいい。欲をかくなら、見るからに美しく、読み進めるほど心地良い、そういったふうであれば文句はない。

 しかし、じっさいにそんな文章を書くことは困難だ。天才はしらず、凡人が何気なく書いていると、自然、その反対のものが出来上がる。

 だから、ひとは文章読本なるものを読む。その道の名人が文章の書き方を指南した本である。谷崎、川端、三島辺りのものが有名だろう。

 ネットにも文章について書いた記事は少なくない。そこで、ぼくも文章の書き方について書いてみようと思う。題して「あなたの文章を(ほんの少し)綺麗に見せる九つのテクニック」。

 ぼくがふだん注意しているポイントをまとめたものである。読めば見る見る巧くなる、と書かない辺りに誠意を感じてほしい。

 もちろん、本当はぼく自身が未熟なため、そう書きたくても書けないだけだ。自分の稚拙は十分に承知している。以下の文章は自戒と受け止めてほしい。

 巧い文章を書きたい。ぼくと同じくそう願っているひとたちの一助になれば幸い。

■一、理想をもつ。

 巧い文章を書きたい。あなたもそう思っている、と仮定しよう。そうでなければ、こんな文章など読んでいないはずだから。

 しかし、そもそも巧い文章とは何だろう。最前、ぼくは、「読みやすく、わかりやすい。いくら読んでも疲れず、それでいて味がある。そういう文章がいい」と書いた。あまりに抽象的な表現である。

 いくら読んでも疲れない文章とは、あるいは味がある文章とは、具体的にどういうものなのか。

 この問いに対して、唯一の正解を示すことはできない。たしかに、名文とされている文章はある。しかし、そういう文章があなたの感性に合うかどうか、それはだれにもわからない。

 もちろん、ある程度までなら技術の巧拙を語ることはできる。そうでなければ、この小論そのものが意味を成さない。

 しかし、それは絶対ではない。世間一般における名文が、あなたにとっての名文であるとはかぎらない。

 そこで、まずあなたにこう告げたいと思う。あなたにとっての理想の文章を見つける、そこから始めよう、と

 三島由紀夫でも村上春樹でも江國香織でもいい、こういう文章を書いてみたい、と思わずにいられないような文章を見つけられたら幸運だ。あとは、その文章の特徴を真似していけばいい。

 人まねをした結果、個性がなくなってしまう心配はないだろうか。ない。個性とは、いくら模倣しても自然とにじみ出てくるものである。どれほど徹底して真似しようと思っても、絶対にあなた固有の文体になってくるから、心配しなくていい。

■二、リズムに留意する。

 よく、名文といわれる文章を賞して、音楽的と形容することがある。あたかも音楽を聴くようになめらかに読める文章ということだろう。

 この形容は文筆の本質を表している。最高の名文とは、それじたい音楽であるような文章のことだ

 ただ読みやすいだけの文章と、音楽的な文章とは違う。ただ読みやすいだけの文章を読むことは作業であるが、音楽的な文章を読むことは快楽である。巧い文章を書きたいと思うあなたは、音楽的な文章をめざす必要がある。

 もちろん、すべての文章に音楽性が必要とされるわけではない。たとえば、学術論文には不要だろう。大半の新聞記事にも必要ない。

 しかし、文芸一般には不可欠だし、ウェブログの文章にも備わっていたほうがいいと思う。とにかく、書けないより書けた方がいいはずである。

 それでは、音楽的な文章とは具体的にどのようなものをいうのか。いささか有名すぎる例かもしれないが、中島敦の『山月記』を挙げておこう。

 隴西の李徴は博學才穎、天寶の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。

 一見、難字が多く、読みづらいように見えるが、その実、読みはじめるとすらすらと読めてしまう。音楽性のおかげである。

 そしてその音楽性を支えているものがリズムだ。名文と駄文を分かつものはリズムである。リズミカルな文章は読みやすい上に読むことが心地良い。時を忘れて読み耽ってしまうような名文は、必ず、固有のリズムをそなえている。

 それでは、具体的にどうすればリズムが良くなるのか。以下に書いていくこととしよう。

■三、ただひたすら削る。

 リズムが名文と駄文を分かつ、と書いた。リズミカルな文章を書くにはどうすればいいのか。それがわかるようなならぼくにも名文が書ける、といいたいところだが、ひとつ確実にリズムを向上させる方法がある。無駄を省くことである。

 あなたが書いた文章が平均的な品質なら、必ず無駄がある。削れ。初め書き上げたものを半分にするつもりで削っていくとちょうどいいと思う。

 中島敦の文章がリズミカルなのは、極端に無駄がないからである。

 「隴西という街に生まれた李徴は、博學でしかも才穎、天寶という年号の末年には、若くしてその名前を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられるにいたったが、生まれつき性格が狷介で、自分自身を恃むところが頗る厚く、賤吏に甘んじて暮らすことを潔しとしなかった」などと書くと、一気にリズムが衰えてしまう。冗長表現がリズムの敵であることがわかる。

 初めはそう巧くは行かないだろう。いくら削ろうと思っても、どうしても無駄がのこってしまうと思う。

 しかし、そうやって試行錯誤するうち、いつのまにかいくらか無駄が少ない文章を書けるようになっているはずである。成長だ。

 わずかな進歩に思えるかもしれないが、名文という頂にたどり着くためには、そういうわずかな進歩をくり返していくよりほかにないのではないか。

 我々は天才ではない。高みに上るためには、地味な努力が必要とされる。逆にいえば、地味な努力を続ければ、だれでも、ある程度のところまでは到達できると思う

 そのために、一語、一字でも無駄を削りつづけよう。不要な語尾は削れ。不要な形容は省け。不要な主語はのこすな。文章はリズムがすべてである。

■四、句読点に気を配る。

 もうひとつ、文章のリズムを決める際に決定的な仕事をしているものが句読点である。どこで句読点を打つかによって、文章のリズムは、全く変わってくる。特に読点はリズムそのものであるといってもいい。

 巧い文章を書きたいと思うなら、句読点を打つ位置に気を配ろう。ただ感覚で、何気なく打つのではなく、どこまでも効果を意識して打つのだ

 そういう意味では、太宰治の文章は絶品である。太宰の、あの、異様にリズミカルな文体は、句読点の精密な活用の賜物である。

 太宰の文章をどぶろくと形容した作家がいたが(吉行淳之介だ)、決して並大抵のどぶろくではない。ひとをどこまでも心地良く酔わせる、もっとも上質などぶろくなのである。

 申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

『駆込み訴え』

 お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。

『斜陽』

 書くときは常に、ここに句読点を打つことができないか、あるいは逆に、この句読点は不要ではないか、と考えること。そういう癖をつけることは、文章技術向上に役に立つ。

 ようするに、句読点とは、一種のリズム記号、音符のようなものなのだ。リズム記号を活用しつくすことがリズムを形づくる上で役立つことは、考えてみれば、あたりまえである。そのあたりまえを徹底せよ。

■五、改行を意識する。

 句読点ほどではないにせよ、改行もまた、リズムを生み出す役に立つ。決してなおざりに改行するな。

 よく、ネットの文章論では、一定の間隔で改行をいれるべき、といわれる。ぼくもそう思う。特にネットでは、極端に改行が少ない文章は、ひどく読みづらい。

 しかし、ただ一定の文章量が溜まったから、という理由でいれる改行には限界がある。何より芸がない。リズムを考えて改行すべし。

 もちろん、意味内容を無視してもいけない。意味と、リズムと、その双方を満たす箇所で改行するべきだろう。

 否、もうひとつ勘案するべきものがある。文章の見た目である。一見して文字が詰まっている文章は、窮屈な印象を与える。読者の大半はそういう文章を好まない、と考えていい。したがって、改行はそれが生み出す余白のことをも考えて行われるべきだ。

 状況にもよるが、案外、たっぷり余白がある方が文章は綺麗に見えるものである。時には余白のことまでも考えて改行せよ。

 もちろん、ただひんぱんに改行すればいいというものではない。しかし、余白を生み出すことを怖れて、窮屈な文章を書くよりは、積極的に余白をデザインする方が良い文章が書けるのではないか。

 ただ、ここら辺は多分に嗜好の問題なので、強制するつもりはない。あなたの感性のささやきを聞き逃すな。

 文章を書くということは、空白をデザインするということである。その意味では、何も書かれていないところまで含めて文章である、といえる。書かれているところと書かれていないところのバランスが肝心なのだ。

 もっとも、ネットでは読者のモニタやブラウザによって見た目はいちじるしく変わってしまう。あまりこの点にこだわっても意味がないかもしれない。それでも、意識しているかどうかによって、やはり差は出る。

■六、仮名を使いこなす。

 この道の初心者が落ちこみやすい陥穽に、難字だらけの文章を書いてしまうことがある。難解な漢字を使いこなせば知的な文章が書ける、と考えるのだろう。間違いである。

 たしかに古今の文章家は時に難字を使用する。しかし、それは特に必要な場合にかぎってのこと。決して無意味に知識をひけらかしたりはしない。文章においては、平明こそ王道と心得よ。

 ただでさえ、仮名のかたちは単純で、漢字のかたちは複雑である。それは文章を読み進める際、仮名のほうがすばやく認識できることを意味している。だから漢字ばかりの文章は読みづらくなる。

 もちろん、コンマ何秒の話ではある。しかし、このコンマ何秒かを無視しては、読みやすい文章は書けない。読みやすい文章とは、すばやく認識しつづけられる文章のことなのである

 そういう意味では、仮名を使いこなすことも大切だ。漢字と仮名のバランスを考えて書くべし。

 ただ、どの単語を仮名にし、あるいは漢字にするか、その判断はむずかしい。正解はない。漢字を多用しても読みやすい文章もあるし、仮名ばかりでかえって読みづらい文章もありえる。

 「一」で定めたあなたの理想の文章を参考にするといい。その書き手がどの単語を仮名に開き、どの単語を漢字で記しているか、意識して読んでみると新たな発見があるだろう。

 ただ、常識というものはある。「矢張り貴方は僕が思っていた様な人だ」というような文章を書かないこと。

 とにかく、日本語の文章において、仮名が漢字と同じくらい重要な役割を果たしていることは間違いない。日本語の文章の最大の特徴は、漢字と仮名が混ざり合っているところにある。常に漢字と仮名のバランスを見失わないよう注意すること。

■七、記号を避ける。

 ネットで書かれた文章には、「(笑)」や「vv」などの記号が氾濫している。一概に悪いとは思わない。そういう表現が生まれるのはそれなりの必然性があってのことである。しかし、いまはあえてそういう記号を封印し、なるべく使わないようにしよう。

 というのも、こういった記号は真剣な文章では使えないからである。使えば全体の雰囲気を壊し、軽薄な印象を与えることになる。

 エクスクラメーション・マークや、クエスチョン・マークすら、本来は不要である。それらはもともと日本語に存在しなかったものなのだから、なければないで済むはずなのだ。

 もちろん、そこまで窮屈に考える必要はない。しかし、記号に頼らない文章を書くことは大切である。記号に頼らない文章を書けて、初めて、記号を活かすことができる

 文章上達をめざす我々には、当面、記号は句読点だけで十分である、と考えてみよう。じっさい、ただそれだけでいくつもの名文が書かれているではないか。句読点すら用いない名文もあるくらいである。

 いつか、自由自在に使いこなすことができるその日まで、記号に依存するな。

 それは、安易な方向に流されるな、ということでもある。楽な方に流されればだらしない代物に仕上がることは、文章も人生も同じ。あっというまにひねり出された表現と、苦心の末に出てきた表現は、やはりその重みが違う。

 あるいは天才なら、泉のように滾々と美しい言葉が湧き出てくるかもしれないが、我々凡人はそうは行かない。

 苦心せよ。あなたの費やした時間と労力は、いつの日か、必ず、財産となって返ってくる。そのことを信仰せよ。

■八、詩を殺す。

 詩的な文章を書きたい。そう思うのは、ぼくだけではあるまい。

 新聞記事のように精密正確なだけの文章は退屈だ。華麗なレトリックを使いこなし、読むことそのものが絶えない喜びであるような文章を書きたい。それはひとつの大きな誘惑である。

 しかし、そこに罠がある。一見詩的な文章とは、じっさいには、ただ誇大な表現を弄した文章であったり、ひたすらに冗長な文章であったりする

 文章表現にあたって、「詩を殺す」ことを奨励したのは亡き澁澤龍彦だ。詩を殺すとはどういうことか。安易な詩的表現を避けるということである。詩的な文章を書きたいという誘惑を、一時、封印することである。

 それでは、退屈な文章に仕上がってしまうのではないか。そうかもしれない。しかし、それだけのことで殺されてしまうのだとしたら、それはその程度の詩情だったのである。

 もし、あなたに本当の詩魂があるのなら、どれほど詩を殺しても、必ず文章は詩情を帯びてくるだろう。

 じっさい、美しい文章とは、必ずしも見た目に派手ではない。複雑なレトリックを用いてもいない。それでも、美しいものは美しい。そこに本当の詩情が漂っているからだ。

 容赦ない詩の殺戮者となれ。その上で、なお詩的な空気が漂ったとしたら、それこそ本当の意味で詩的な文章ということができる。

 もっとも、ぼく自身、この点を徹底できているかというと、心もとない。いまでも、しばしば、詩の誘惑に負けてしまうことがある。そういうふうにして出来た文章は、やはり、感傷的すぎる代物になっている。

 詩の誘惑に負けるな。華麗なテクニックは、重厚な基本が出来ていて初めて使いこなせるものである。文章技術以外でも同じことだろう。

■九、コンビネーション・ブローをめざす。

 ぼくはよく文章をボクシングのパンチにたとえる。文章とは、一撃必殺の必殺技のようなものではなく、緻密に計算されたコンビネーション・ブローなのだ、と

 たとえば俳句は一撃必殺といえるかもしれない。わずか十七文字で読むひとを圧倒する、その圧縮された力。

 しかし、一般の文章は、もっと複雑なものだ*1。あるひと言を効果的に見せるためには、巧妙な伏線を必要とする。ボクサーが渾身のストレートをあてるためにかるいジャブを活用するように。

 一文のことだけではなく、全体の構成を考えて書け。書きはじめた時点で末尾の一文まで計算されていることが理想である。あなたは言葉の建築家なのだ。精密な設計図なくして、高層建築はありえない。

 以上、きわめて簡単にではあるが、文章の技術論について語ってみた。くり返すが、すべてはぼくの自戒であり、ぼく自身、必ずしも実践できているわけではない。もし完璧に実践できていれば、もう少し巧みな文章が書けるはずである。

 したがって、以上のことを念頭において書けば、あっというまに文章が巧くなるかというと、そうは行かない。ただ、ほんの少しまともに見えるようにはなるだろう。何も考えず書いているひととは差がつくはずだ。

 そのほんの少しの進歩が、積み重なって、やがて名文を形づくるかもしれない。その可能性に賭けよう。我々凡人にできることはそのくらいである。

 それは小さくはあるがたしかな希望である。そもそも言葉とはだれにとっても後天的に獲得していくもの、生まれたときから名文美文を書きこなせるひとはいないのだ。だから、我々がいつか自分も凛として流麗な文章が書けると信じても、だれも笑うことはできないだろう。

 さあ、書け。意識を集中し、一字一句の効果を計算して書け。いつかきっと、人目にも巧みな文章が書けるようになる。才能などなくても、問題ない。成長を志して書き続ければ、必ず進歩するものである。

 書け。

■十、お奨め文章読本。

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 基本。文章読本の古典である。日本文学史上に冠絶する美文家である谷崎が、その文章の秘密を余すところなく明かした名著。非常に実践的で役に立つので、一読しておいて損はない。もっとも、後世いろいろな批判に晒された本でもある。

文章の書き方 (岩波新書)

文章の書き方 (岩波新書)

 朝日新聞のコラムニストだった辰濃和男が、様々な名文を引用しながら、文章技術の秘密を探る。技術論より精神論に傾いた一冊なので、そういう本を必要としているひとは読んでみるといい。目からうろこ、というほどではないにしろ、もっともなことが書かれている。

文章の書き方 (講談社現代新書 (654))

文章の書き方 (講談社現代新書 (654))

 古い本だ。Amazonなら中古1円で売っている。しかし、役に立つ。全体に説教じみているところがなきにしもあらず、読んでいると、口うるさい老人の訓戒を聴いている気になることもあるが、この説教、耳を澄ませるだけの価値はある。

*1:この言い方は語弊があるかも。俳句にももちろん構成はあるだろう。ただ、そこには一定文字数の制限がある。散文はそうではない。だから俳句より散文のほうが上だ、といっているわけではもちろんない。