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2009-10-14(水)

連載漫画ひきのばし、そのふたつのパターン。


 このあいだのラジオで、ペトロニウスさんたちと、最近の漫画連載のひきのばされ方って目に余るものがあるよね、という話をしました。そのいい例が『ハヤテのごとく!』だよね、と。

 きょうは、それでは連載がひきのばされるとは具体的にどういうことなのか、という話をしたいと思います。

 ま、いいたいことは単純で、ようするに五話で語れることを一〇話かける、五巻で終われるものに二〇巻費やす、これが物語がひきのばされるということですよね。

 こういうことをした場合、物語の内容が変わらないとすれば、当然、一話ごと一巻ごとに詰め込まれる内容は薄まることになります。そして、自然、作品のテンションも落ちる。

 いまの漫画界、あるいはライトノベルあたりも同じかもしれませんが、とにかくその辺りではこういうことになっている作品が大量に存在するように思います。

 で、ぼくはそれは良くないことだと考えるんですね。この連載のひきのばしは漫画界をじわじわとむしばんでいるガンなのではないか。

 ここまでは、いま一定量以上漫画を読んでいるひとはほとんど賛成してもらえることでしょう。ただ、連載がひきのばされるのはいまに始まったことではないではないか、という意見もあると思います。

 『北斗の拳』を見よ、『ヒカルの碁』を見よ、いずれも連載がひきのばされたあげく終了した作品ではないか、と。

 しかし、こういった過去の例と、いま現在連載中の作品、たとえば『範馬刃牙』や『絶対可憐チルドレン』あたりでは、同じひきのばしとはいっても、その内容が違っていると思うのです。つまり、ぼくはひきのばし方にもふたつのパターンがあると考えているわけです。

 まず、どんな連載にも「それはどういう物語か」という基本コンセプトが存在します。むずかしいことではありません。『ONE PIECE』なら「ルフィが海賊王をめざす物語」、『SLAM DUNK』なら、「桜木花道がバスケットを通して成長していく物語」、といったことです。

 そしてこのコンセプトにしたがって、将来物語がたどり着くべき場面が一緒に設定されることがあります。その内実は宿命のライバルとの決戦であったり、全国大会決勝であったり、様々でしょうが、仮にその場面をA地点と呼ぶことにしましょう。たとえば『北斗の拳』におけるA地点はラオウとの決戦、ということになります。

 連載の当面の目的はこのA地点にたどり着くことなのだけれど、当然ながらそこへ往くまでのルートは色々とあるわけです。直線で進んでいく場合もあるし、迂回路を辿る場合もある。

 で、昔の漫画のひきのばし方というのは、とりあえずこのA地点まで行って、それから蛇足をもうける、というものが多かったように思います。

 『北斗の拳』は典型的な例だけれど、十数巻の辺りでラオウとの決着を描いてしまうわけです。そのあとの連載はもう蛇足としかいいようがない代物ですが、とりあえずそこまではほぼ直線で進んでいるといえる。

 対して、いまのひきのばし連載はこのA地点までのルートをひたすらに冗長化する、というものが多いように思うんですね。

 いい例が『絶対可憐チルドレン』で、超能力者と一般人の戦争が起こり、皆本と薫が対決する、というA地点は連載開始当初から設定されているのだけれど、そこにたどり着くまでが長い。とにかく長い。

 その気になればあっというまにたどり着けるだろうに、ぼくから見ると余計なエピソードを挟みこんで物語を冗長化させている。A地点にたどり着けば物語は終わるのに、なかなかそこにたどり着かない、という展開になっているわけです。

 この場合、たしかに蛇足は存在しませんが(存在しないと信じたいところですが)、そのかわり、結末に向けて直線で進んでいる箇所もまたないことになります。

 この両者のどちらがまだいいのか、というのは微妙なところだけれど、ぼくは『北斗の拳』パターンの方がましだと思う。

 なぜなら、このパターンではとにかくA地点に達するまでは全力疾走しているわけです。だから、「そこまでは名作」という作品になりえる可能性がある。

 対して、『絶チル』パターンでは、全力疾走している箇所がそもそも存在しないわけで、名作になりえる可能性があらかじめ絶たれていることになる。これは辛い。

 もちろん、連載漫画の場合、全くおもしろくなければ打ち切られてしまうわけで、『絶チル』パターンでも、ある一定以上に薄めることは出来ません。やっぱり、そこそこおもしろくある必要はある。ただ、直線で進めば一○○あるおもしろさが、迂回しているために八○くらいになったりするわけですね。

 こういうひきのばしは、短期的に見れば、商業的に価値のある作品を生み出すことになるでしょう。そこそこのセールスの作品が三○巻、五○巻と続いてくれれば、作者にとっても、出版社にとっても、万々歳であるわけです。

 しかし、長期的にはどうでしょうか。このやり方だと、漫画が本来発揮できるおもしろさを発揮できなくなるわけですから、一作一作の作品が、相対的におもしろくなくなることになる。長期的に見れば、それは漫画界全体を衰退させていくのではないか。ぼくはそう思います。

 最近、『ヴィンランド・サガ』を読んで感動したのですが、それは結局、作品のコンセプトが全く揺らいでいないからだと思います。

 この作品のA地点は「主人公のトルフィンがヴィンランドにたどり着く」というものです。そして、物語はそのA地点に向かってまっすぐに進んでいる。

 だから、いくらクヌートが魅力的なキャラクターでも、かれの物語は省略されてしまう。「これはあくまでトルフィンの物語である」という軸が非常にはっきりしているわけです。

 一方、同じ『アフタヌーン』の『おおきく振りかぶって』などは、このところ、作品の軸が揺らいでいるように思えます。主人公たちと直接関係ない話が延々と続いている。これは、作品本来のコンセプトからすると、やはり迂回路であるように思えてなりません。

 たしかに『おお振り』の場合、迂回路をたどっても十分におもしろい。ただ、それはこの作品が本来発揮できるMAXのおもしろさではないように思えるのです。やっぱり作品のコンセプトにしたがって切るところは切らないとダメなんじゃないかと。

 さらに壮大な迂回路をたどっているのが、たとえば『はじめの一歩』です。この作品は、こともあろうに「一歩と宮田の対戦」というA地点を回避してしまいました。その結果、物語は非常にむずかしい隘路にはまり込んでしまっているように見えます。

 ま、結論からいうと、『北斗の拳』パターンであれ、『絶チル』パターンであれ、連載ひきのばしは良くない、ということなんですけどね。直線で全速力でA地点をめざす漫画はやっぱりおもしろい。そういう漫画をもっと読みたい、と思う今日この頃です。

ハヤテのごとく! 1 (少年サンデーコミックス)

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ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC)

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絶対可憐チルドレン 1 (少年サンデーコミックス)

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はじめの一歩(1) (講談社コミックス)

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北斗の拳―完全版 (1) (BIG COMICS SPECIAL)

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