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2009-11-07(土)

うまい作品がおもしろいとは限らない。


 同人ゲーム『うみねこのなく頃に』をエピソード2までプレイした。おもしろい! いや、もう、おもしろいどころじゃないですよ。圧巻ですよ。感動ですよ。

 エピソード1があまりにも退屈なので、それを終えるまでひと月以上かかっているのだが、エピソード2は数日で読み終えた。

 あまりにも濃密な物語体験にグロッキーになってしまったので、エピソード3に手を出すのはもう少し先にしようかと思うが、とにかくこれはすごい。素晴らしい。傑作。名作。いや――そうでもないかな?

 『うみねこ』という作品をまえにして思わされるのは、その評価のむずかしさである。一筋縄ではいかないその内容もあるのだが、それ以前に、ひとつの作品として粗が多すぎる。

 まず、最前書いた通り、序盤が退屈。それはもう異常に退屈。事件のひとつも起こらない登場人物紹介が延々数時間にわたって続くのは、ある種、拷問である。

 たしかに『ひぐらし』に比べればずっと良くなってはいるのだろうけれど、それでも相当にきつい。いわゆるハリウッド脚本術の「最初に地震を起こせ」とか、そういうメソッドとは対極にある作品だといえるだろう。

 それから、文章が稚拙。下手糞である。よく視点が狂うので、読んでいて気になって仕方ない。絵にかんしてはいうまでもない。プロの水準に達していないのは仕方ないとしても、アマチュアとしてもお世辞にも巧いとはいいがたい。初見で年齢や容貌の特徴がよくわからないのはいかがなものか。

 ようするに『うみねこ』はひと言で「傑作」というには、あまりにも問題が多すぎる作品なのである。しかし、それらすべての欠点にもかかわらず、この作品はおもしろい。それはもうめちゃくちゃおもしろい。ここ最近ではベストに近い「物語体験」である。

 結局、この作品の欠点はひと言でいい表せると思う。ようするにまるで洗練されていないのである。その未洗練は、おそらく、「作者」である竜騎士07の「教養」のなさに起因するものなのだろう。

 竜騎士はたぶん過去に営々と蓄積された技術の存在をよく知らないのだ。「文章はこう書くことが正しい」「展開はこう進めることが効率がいい」という「法則」を知らないために、それを知っている者の目から見ると、めちゃくちゃなことをやってしまう。

 ぼくは『うみねこ』をやっていると、格闘漫画『範馬刃牙』に出てくる原人ピクルを思い出す。ピクルは作中でも最強に近い存在であるが、太古の生まれであるために、格闘技というものを知らない。つまり「技術」を、「力の効率的な使い方」を知らないのである。

 竜騎士の作劇や技術には、どこかピクル的なものがある。圧倒的なほどパワーはあるのだが、それを効率よく使う術を知らない。そんな印象を受ける。ひと言でいうと、「下手」である。

 しかし、ここでぼくは思うのだ。「巧い」とは、それほど意味があることなのだろうか? いや、もちろん、意味はある。下手よりは巧いほうがいいに決まっている。洗練された文章は読みやすいし、洗練された展開は進めやすい。

 しかし、同時に、それだけといえばそれだけのことなのではないだろうか? いわゆるマニア的な読者のあいだで、「巧い」ことは過大評価されているのでは?

 そもそも巧みな文章だとか、フェアなトリックだとか、そういったものに価値を見出し、それだけのために作品を購入するような読者は、全国で数千人とか、精々数万人、そんなものだと思うんだよね。

 大半の読者は技術を評価して買うのではなく、ただおもしろいものを読みたいがために買うのだ。「巧い」と「おもしろい」は全く別の概念なのである。

 たとえば、竜騎士07や奈須きのこが新人賞に『ひぐらしのなく頃に』や『空の境界』を投稿したとして、みごとこれらの作品は受賞しえただろうか? そうは思えない。そもそも規定枚数に収まらないという事情もあるが、それ以前にどう見ても「下手」だから、落選の憂き目を見たことと思われる。

 しかし、現実に『ひぐらし』も『空の境界』もベストセラーになっている。ようするに、どれだけ「下手」であっても、おもしろければ需要はあるのだ。一般的な読者はべつに技術を評価したいと思っているわけではないのである。

 ただ、竜騎士07や奈須きのこの作品をただ「下手」だといって済ませるのは、やはり問題があるだろう。かれらの作品はある意味では、「巧い」。惚れ惚れとするほど「巧い」と感じさせられるところがたしかにある。ただ、一般的な小説の、あるいは創作の文脈に則っていないだけなのである。

 この「文脈」というやつがやっかいで、たとえば主流文学には主流文学の文脈が、推理小説には推理小説の文脈が、SFにはSFの文脈がある。創作や批評において「教養」があるということはこの文脈をきっちりとわきまえているということであるといっていいだろう。

 たとえば「顔のない死体」を語るとき、『エジプト十字架の謎』を読んでいなければお話にならないとか、ロボットを語るなら少なくともアシモフは踏まえておかなければならないとか、そういうことである。

 いわゆる「マニア」とは、きっちりこの文脈を把握している人間であるといえる。竜騎士07はその文脈を知らない。あるいは、知っていても無視する。だから、『うみねこ』はいまのところ、本格推理の文脈ではさっぱり評価されていないように見える。

 しかし、だからこそ、『うみねこ』は自由だ。物語とは、本来、こんなにも自由なものだったのか、と刮目させられるような、そういう強烈なセンス・オブ・ワンダーがある。文章や作劇の「お約束」に慣れ、その枠のなかでしか発想できなくなっている人間を覚醒させる異常な方法論がある。

 何百年、何千年にわたって洗練されつづけてきた「作劇の方程式」。それはたしかにすばらしい。しかし、それは、ある意味で根拠のない固定観念のようなものでもあるのではないだろうか。

 たしかにそれを使えば効率よく物語を語ることはできる。しかし、何もそれなしでは何も語れないと決まっているわけではないのだ。だれもが自分なりのやり方で語ってもいいのである。

 たしかに、その結果できあがるものは、無駄の多い、洗練されていない代物になるかもしれない。けれど、それが何だろう? 文章が下手だろうが、展開が冗長だろうが、おもしろければそれでいいではないか。

 逆に、どれほど技術的に洗練されていても、おもしろくないものはおもしろくない。それはもう残酷なほどはっきりとそうである。

 おそらく、そういう文脈を無視した作品を最も認めがたいのは、過去の作品の文脈をきっちりと把握している人間、つまりマニアだろう。ぼくもどちらかといえばマニアに近い人間だから、その気持ちはよくわかる。

 しかし、それでもなお、既存の文脈がすべてではないのだ。洗練という名の袋小路、技術という名の幻想、それがすべてでは、決してない。創作とはもっと自由なものである、とぼくは思う。