ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

Something Orange このページをアンテナに追加

2009-11-20(金)

「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という言葉の意味。


 先日の「物語夜話ラジオ」がおもしろかったので、インスパイアされて記事を書いてみる。

 テーマは「あきらめたらそこで試合終了ですよ」。近頃、この言葉の意味をつくづく実感するようになった。そうなのだ。あきらめたらそれまでなのだ。

 以前、ぼくは、この言葉を一種の根性論として理解していた。勝負が見えていてもとにかくあきらめずさいごまで全力を尽くせ、という意味だ、と。

 しかし、最近ではもうすこし違う意味に解釈している。ひとは、じっさいには可能なことでも、不可能だと思い込んでしまうことがある。そしてそう認識したとたん、本当に不可能になるのだ、ということ。

 たとえば、ぼくもそうだけれど、「自分は絵を描けない」というひとがいる。が、目が見えて、手が動かせるなら、物理的な意味では、描けないはずはないんだよね。

 ようするにそれは「描けないと思い込んでいる」だけなのだ。もちろん、技術的な巧拙はある。そのままではへのへのもへじも満足に描けないひとは大勢いるだろう。

 しかし、そういうひとでも、ひたすら努力していれば、あるていどは巧くなるはずである。そんなはずはない、自分は先天的に才能がないからどうしようもないのだ、という考え方は思い込みである。

 ひとは現実をそのままに認識することはできず、思い込みの世界を生きている。

 この思い込みを仮に「リアル」と呼ぼう。リアルはあくまで人間の認識だから、物理的な現実とは差がある。また、ひとによってリアルは異なる。したがって、あるひとにとっては可能に見えることが、べつのひとにとっては不可能に思えたりするわけだ。

 たとえば、あなたが「ミュージシャンになりたい」といったとする。これは、じっさいの可能性はともかく、物理的な意味では、可能であるはずである。

 しかし、あなたがこういうと、「ばかばかしい。できるわけがない」という反応が返ってくるかもしれない。この「できるわけがない」というのが、そのひとのリアルなのである。それは、そのひとにとっては、本当に「できるわけがない」ことなのだ。

 イチローがプロ野球選手になりたいといいだしたとき、周囲は猛反対したという話がある。お前には無理だ、プロ選手になれるのは本当に数少ない選ばれた人間だけなんだ、と。野茂がメジャーリーグに進出したときも、無理だとか、無謀だという意見は多数あった。

 結果としてかれらは間違えていたわけだが、そのひとたちのリアルにおいては、それは真実だったのだろう。

 もちろん、こういうリアルでは、「不可能を可能にする」ことはできない。この種のリアルのもち主は、非常に限られた可能性の世界で生きることになるだろう。

 いや、それどころか、ひとに悪影響を与えることすらある。先のイチローの夢を手折ろうとしたひとたちがそうだし、子供に「夢なんて見ていないで、もっと地道に生きなさい」といったりする親などもそうだ。

 リアルはひとを縛る。本来ならどこまでも広く開けているはずの世界を、狭くしてしまう。そして、リアルは、としをとるほどにより狭く、かたくなになっていく傾向がある。

 それをぬりかえるのは容易ではないが、ひとつ良い方法がある。おもしろい物語を読むことだ。SF用語で「センス・オブ・ワンダー」という言葉がある。世界が反転するような衝撃を指す言葉だが、ようするにこれはリアルが塗り替えられる感動を示しているのだと思う。

 SFやミステリにおいて、頭から不可能だと思い込んでいたことが描かれるのを見るとき、ぼくたちの脳内での「可能」の範囲は拡大する。

 そうはいっても、とあなたはいうかもしれない。大人はいつまでも夢を見てはいられないものだ。現実を見なければ生きてはいけないんだよ、と。

 しかし、その「現実」とは、本当の現実ではなく、あなたの認識によって歪んだリアルに過ぎないのではないだろうか? あなたは自分がイチローを説き伏せようとしたひとと同じ愚を犯していないといいきれるだろうか? ぼくにはとてもそんなことはいいきれない。

 ぼくは「もっと夢を見ろ」といっているわけではない。一見すると、「夢」「無謀」「不可能」に思えることが、実は努力さえすれば届く目標に過ぎないこともある、といっているのである。

 『攻殻機動隊』を監督した神山健二さんに、こんな話がある。

神山:これ、面白い話なんだけど、攻殻のスタッフで「あややのファンだからあややに会いたい!」って言ったやつがいるのね。で、言ってみるもんだなって思ったんだけど、ものは試しにね、音響監督に「この役をあややにすることはできませんかね」、と。当然みんな、バカ言ってんじゃねーよと思うじゃん。だから口にすら出さないの、普通は。でも、口に出したら「うーん、ダメかも知んないよー」と言いながら聞いてくれたんですよ。そしたら、たまたまレコード業界に強いコネクションを持った人が知り合いにいて、「んー、話はつけられるかも知れないな」と云うところまで行ったんですよ。結果的に折り合いがつかなくて、この話は終わったかに見えたんだよ。

神山:ところが、出演者である山寺(宏一)さんが、自分の持っているラジオ番組にあややが来たと。そこで、たまたま「ファンの子がいるんだよ」って話をしたら、あややはポシェットから出した飴を、「これをじゃあ、その人にあげて下さい」って―それがそいつの元に届いたと。どう思う?もう一歩努力したらすごいことが起こると思わない?「あややに会いてーなー」って口に出しただけでそこまでのことが起きたんだよ。そういうことなんだ、って云うね、だから思ったことは口にしろと。

 「アイドルに逢いたい」なんて、普通のひとのリアルでは「不可能」に分類されることだ。無理に決まっているだろ、と笑われてそこで終わり。しかし、じっさいには、それは「不可能」ではないのである。

 この話では、けっきょく逢うことはできなかったけれど、「もう一歩努力したらすごいことが起こる」可能性があることはわかる。

 しかし、それでもなお、多くのひとは、そういう「不可能に思えること」に挑戦したりはしない。自分の限界をじっさいの限界より低く見積もってしまいがちだ。

 自分で決める自分の限界、それを「セルフリミット」と呼ぶことにする。なぜ、ひとはセルフリミットを設定してしまうのだろう。

 それは、ひとが学習する生き物だからだろう。生まれてきたときは、だれも皆、何もかもが可能だと思っている。しかし、色々な失敗や挫折をくり返すなかで、世の中には不可能なこともあると学習する。そして、本来可能なことまで、不可能だと思い込んでしまうのである。

 だから、大半のひとは自分のリアルの範疇で戦略を立てて生きていく。この戦略の基準になるものが「理」である。大半のひとは「理」に従って生きる。

 たとえば、いまの成績と、試験までの期間、それまでの成績上昇曲線を計算して、受かりそうな範囲で受験する学校を決めたりする。

 べつだん、こういう戦略の立て方が間違えているというつもりはない。「理」はたしかに一見正しいように見えるから、堅実な生き方であるといえる。

 しかし、この生き方ではセルフリミットを超えることはできない。こういう戦略で生きているひとたちを「リアリスト」と呼ぶことにしよう。

 対して、ごく少数ではあるが、リアルならぬ「本当の現実」を直視して、セルフリミットを設定しないひとがいる。無謀とも思える目標を淡々と実現していくひとたち。ぼくは、そういうひとたちを「ヴィジョニスト」と呼ぼうと思う。

 これは「ヴィジョンを掲げるひと」のことではない。「ヴィジョンを実践するひと」のことであり、もっというなら「ヴィジョンを生きるひと」のことである。

 かれらは間近なリアルではなく、自分のヴィジョンを見て生きている。だから、傍目には哀れなほど不可能なことにのめり込んでいるように見える。しかし、じっさいには、かれらにとっては、不可能ではないのである。

 リアリストとヴィジョニストが異なるのは、ヴィジョニストが理に屈さないことである。ヴィジョニストは「本当の現実」だけしか見ないため、理によって説得されないのだ。

 そもそも、理とは何か。シミュレーションである。じっさいにはまだやってみていない、つまり現実になっていないことを、ロジックによって結果を導き出そうとする作業である。だから、それは何より確固としているように見えて、しかし「本当の現実」ではないのだ。

 ヴィジョニストはそういう理に屈さない。現実だけしか見ない。だから「不可能を可能にする」ことができる。

 もちろん、ヴィジョニストといえど、すぐに奇跡を起こせるわけではない。かれの作業もまた淡々と目の前の課題をこなしていくことであることに変わりはない。しかし、その作業は、結果として、リアリストには届かない地点まで至ることがある、ということである。

 もちろん、リアリストも極めればすさまじい境地にまでいたる。たとえば『神のみぞ知るセカイ』の桂馬は、徹底的にシミュレーションの世界を生きている。

 かれは自分のシミュレーションを確信するが故に、現実を軽蔑している。すべてをシミュレーションで知ることができると信じているために、現実を生きる必要がない人間なのである。

 しかし、ペトロニウスさん的にいうならば、桂馬の人生はナルシシズムに閉じている。かれは世界の豊かさを、現実の可能性を知らない。かれの世界は自分の頭のなかだけで完結しているのだ。

 『SLAM DUNK』の終盤で、主人公である湘北の面々が、山王工業に追いつめられる場面がある。のこりの時間はわずか、点差は開くばかり、かれらの心は折れかける。

 これはようするにリアルに屈しかけている場面である。本来可能である逆転が不可能に思えかけている、そういう場面である。

 けっきょく、湘北はここからさらに粘ることになるのだが、それはかれらがリアルに負けなかったことを意味している。そして、さいごに湘北がたどり着く境地は、「本当の現実」のすばらしさを知らせて余りある。

 「あきらめたらそこで試合終了ですよ」。それは、つまり、リアルに負けるな、シミュレーションではなく現実を生きよ、といっているのである。そう考えると、いっそう含蓄が深い名言だと思う。

 シミュレーションはどこまでいってもシミュレーションに過ぎない。「やらなくても結果は見えている」というわなが、ぼくらの人生には張り巡らされているが、そこに落ちてはならない。それは可能なことを不可能にするわななのである。

 以上のような話を、21日(土)午後9時からラジオでさらに詳しく語ります。良ければお聞きください。

放送:http://std2.ladio.net:8130/kaien2988.m3u

掲示板:http://jbbs.livedoor.jp/radio/2924/#1

取り上げる予定の作品:『魔法先生ネギま!』『神のみぞ知るセカイ』『コードギアス』『Landreaall』『ベイビーステップ』『しゃにむにGO』『SLAM DUNK』『おおきく振りかぶって』『シャカリキ』『弱虫ペダル』『バクマン。』『らくえん』