安倍氏の政権構想(教育分野)

 安倍氏自民党総裁選への出馬表明を行ったそうだ。その安倍氏の政権構想「美しい国、日本。」というのを安倍氏のホームページからダウンロードした。その政権構想の中で教育に関連する部分を引用しておきたい。

(2)「百年の計」の教育再生をスタート

  • すべての者に高い学力と規範意識を身につける機会の保障
    • 数学、理科、語学など基礎学力再強化プログラム
    • 公教育の充実・強化
  • 高校、専修学校高専等における社会ニーズにマッチした教育体制の強化
  • 大学、大学院の国際競争力強化と国際連携推進
  • 研究開発機関の再編・強化
  • 学校、教師の評価制度の導入
  • 学校教育における社会体験活動の充実

 この政権構想には、項目だけが並べられているので、具体的な内容に関しては、これまでの安倍氏の言動やよく売れているという著書なども見ていかなければ分からない。そういうとこまで手が回らないので、ここでは引用だけにしておきます。

また、学力の問題

小中学生の学力、計算問題の“応用”が苦手

 調査は昨年3月に小中学生1万1000人に整数や小数、分数をめぐる加減乗除の計算問題などを解かせた。90%が整数の足し算で正解、引き算は80%が正解と、提示された計算問題はほとんどがクリア。
 計算技能で唯一、正答率が低かったのは小5に出した「0.4×0.7」の問題(正答率55.5%)。「2.8」とした児童が多く、正解に至る第1段階の「4×7」はかけ算で正しくできたが、小数点の位置を間違う生徒が目立った。
 課題が見られたのは、割合などを使って量を的確に関係づける問題。「7kgの0.3倍は□kg」などの問題に小5の7割超は正答しながら、「6リットルは□リットルの1.2倍です」と基準量をたずねる問題では正答率は50.3%に。小6も「4/5メートルの重さが6/5kgの鉄棒の1メートルの重さは?」などの問題を正しく解いたのは53.1%にとどまった。
 「47÷4」について電卓を使った計算結果(11.75)を問題文であらかじめ示した上で、「商(11)と余り(3)を整数で答える」よう小4から中学生の全学年に求めた。この問題は計算技能でなく、計算の意味や「被除数」と「除数」、商と余りの関係に着目させる問題だったが、商を7割近くが正しく答えながらも、余りについては正答率が全学年で5割未満だった。

 他紙の記事も書いてある内容はほとんど変わらない。この記事を選んだのは、

式を示されれば計算できるものの、意味の理解や、文章から式を立てるといった“応用”は苦手−。

というところに引っかかったから。この記事を書いた記者は、計算技能を「基礎」とし、意味の理解や、文章から式を立てることは「応用」だと考えているようだ。(訂正と補足 他の記事を見ると、調査を行った総合初等教育研究所がそういう見解を示しているようだ。なので、この表現は正確ではないのでこの部分を削除し、記事を書かれた記者にお詫びします。)なぜそういう位置付けになるのだろうか。
 そういう風に位置付けているのは、この記者だけでなく、学校現場や一般でも同じだろうと思う。だから、学校でも家庭でも塾でも「基礎学力の向上」ということで計算技能を向上させるための計算ドリルが行われてきた。
 おそらく、そういう考え方は昔からあったのだけど、PISAの提示した学力、特に「リテラシー」という言葉を「応用力」と捉えてしまったことでその傾向はより強まった気がする。また、陰山氏の百マス計算などの流行も影響している。
 この記事で取りあげられた調査だけでなく、最近の学力調査のどれを見ても、計算技能だけをいくら高めても意味の理解や、文章から式を立てることはできないということ。だから、計算技能は「基礎」、意味の理解や、文章から式を立てることは「応用」として、「基礎」が先で「応用」は後だということで計算技能ばかりをやるのは間違いだ。どちらかを先にしなければならないのではなく、どちらも数学においては「基礎」なのであり、どちらも同時に行うことが重要だ。
 これは、数学だけに限らない。基礎が先、応用は後ということでドリルのようなことばかりをやって他のことは後回しにしている。そういのが「基礎学力の向上」ということで行われている。「基礎学力」というのをとても狭く考えてしまっているし、見えやすくて成果の分かりやすいものだけを「基礎学力」と考えてしまっている。そういう狭い「基礎学力観」にとらわれずにやっていくことが重要だ。

「教育の失敗」という教育神話

 広田照幸 「<教育知>としての青少年問題 : 「教育の失敗」という教育神話」 『日本教社会学会大会発表要旨集録』 第51号 日本教社会学会 1999年 より引用

 (広い意味での)「環境対遺伝」ではなく、「教育対遺伝」という対立項でものごとが考えられてきているということ、青少年問題が「教育の失敗」の結果だとして説明されがちであることは、いわば、裏返しの「教育万能主義」という神話が議論の根底に存在しているということを意味している。
 青少年の起こす事件をすべて「教育の失敗」とみなす発想は、青少年の生活全体を、大人が管理・コントロールできるし、すべきだという、ある種の社会的な暗黙のコンセンサスがあることを意味しているのではないだろうか。
 最初に述べた、監獄と軍隊の話とつなげて、二つの点を指摘しておきたい。
 一つは、監獄への批判者が出す論理が、当の監獄が依拠する論理と同一のものであったと同様に、現在の青少年の「教育の失敗」に対して持ち出される論理は、「教育をよりうまくやること」という、基本的には同じ論理のものだということである。
 もう一つは、全制的施設においてすら失敗し続けてきたわけだから、青少年を一人残らず秩序の下におこうとする志向は、不可避的に失敗せざるをえない、ということである。むしろ、社会全体のすべての子供の心を、大人の教育的配慮の下につなぎ止めておこうとする志向性が、必然的に青少年問題を「教育の失敗」として語る構造を作っている。
 子供たちは必ず、大人の教育的配慮の網の目をすり抜けていくし、「教育万能神話」にもかかわらず、多くの事件は、教育とは無関係に今後も起きていってしまうだろう。むしろ、子供一人一人に、大人の理解不能・介入不能な、「心の闇」があることを認め、すべてをコントロールできないとすると、何がどう可能かを考えるところから、青少年について議論する必要があるのではないだろうか。

【正論】京都大学教授・西村和雄 日本の再生には先ず公教育充実を 産経新聞 について

 最近、フランスに住む知人が一時帰国した。11歳と8歳の子供がいて、3年前にフランス人の夫と離婚したとのこと。生活は楽ではないが、大学で日本語を教えていて若干の収入があり、高校まで授業料がタダなので、やっていけるそうだ。日本にいる両親が高齢化しているので帰国したいが、日本の高い教育費を考えるとあきらめざるを得ないとのことであった
 私が仲間と、3つの私大卒業生を対象に2001年時点で調査したときには、希望する数の子供を持てない理由の第1が「教育費の高さ」、2位が「生活費の高さ」、3位が「仕事との両立の難しさ」であった。教育費がかさむのは、低下した公的教育を家庭で補わざるを得ないからだ。公教育の充実は重要な少子化対策なのである。

 私は、どうしてもこういう主張をそのまま受け容れることはできない。なぜなら、日本の教育費が高負担になっている要因は単に公教育の質の低さだけが要因ではないからだ。教育費高騰の背景には、学力の問題、公的資金の支出の問題、経済の問題、社会の意識の問題など様々な要因がある。「公教育の充実」ということで、カリキュラムを変えたり、公的資金を今以上に支出するというだけでは、決して教育費の高騰に歯止めをかけることはできない。

 子供の非行や犯罪の原因については家庭の問題も指摘されるが、それで教育行政が免責されるわけではない。1967年から続いてきた中学校における内申書重視が、現在では絶対評価の名の下に、教科の成績を子供の態度まで加味して決める制度になっていて、子供たちの心に計り知れない悪影響を与えてきた。教員が子供の「意欲・関心・態度」などを点数化する評価制度は廃止すべきだろう。
 また、子供たちの倫理観や、家族、地域、国家に対する帰属意識を醸成してゆくには、20人程度の少人数学級で、家庭とも連携することが不可欠であろう。

 この主張は、いわゆる「ゆとり教育」が「受験地獄」から子どもたちを解放するという主張を背景にして推進されたのと同じことを言っている。今の状況は、「子供たちの心に計り知れない悪影響を与えて」いる。だから、それを変えなければいけないのだと。
 広田照幸氏が、

 子供たちは必ず、大人の教育的配慮の網の目をすり抜けていくし、「教育万能神話」にもかかわらず、多くの事件は、教育とは無関係に今後も起きていってしまうだろう。

と主張しているように、「1967年から続いてきた中学校における内申書重視」や「絶対評価の名の下に、教科の成績を子供の態度まで加味して決める制度」、「教員が子供の「意欲・関心・態度」などを点数化する評価制度」を止めても、それで子供の非行や犯罪を減らすことはできない。

 子供の犯罪、読解力の低下、ニートの増加、一般的倫理観の欠如など、すべてに共通するのは論理的思考力の低下である。親を殺せば、この先の自分の生活が立たなくなること、将来、仕事をしてゆく上では、学力か技術を身につけなければならないことなど、論理的に考えていればわかるはずのことである。

 この主張は納得できない。なぜなら、「論理的思考力の低下」しているという今の子どもだけでなく、それ以前においても同様の犯罪は起きているからだ。また、論理的に考えることさえできない状況に子ども追い込まれているという問題がある。だから、論理的に考える力を育成するというだけでは、この問題は解決しない。

 教科書が簡素になり過ぎて、読む価値がなくなっていることも、さらに読解力を低下させている原因である。
 子供の自学自習が可能な小学算数の教材『学ぼう算数』(数研出版)を使用した都下の公立小学校がある。
 6月8日に発表された都の学力テストの結果では、前年度に市で21校中20位であった同校の順位が今年は5位に上がり、特に、『学ぼう算数』を主として使ったクラスの平均点は、都でトップの文京区(330点)をさらに20点も上回るものであった。これは算数だけでなく国語、理科、社会を含めた結果である。
 平均点が上がった最大の要因は、学習が遅れた子供たちの成績を都の平均よりも高い水準まで引き上げたことにある。カリキュラムと教科書が改善されれば読解力も回復する例であり、初等教育で今、最も大きな問題となっている学力の二極化も防げるという良い例ではないだろうか。

 カリキュラムや教科書を変えることで、子どもの学力に何らかの変化が起こることは確かだ。しかし、カリキュラムと教科書が改善されれば、「読解力も回復」し、「初等教育で今、最も大きな問題となっている学力の二極化も防げる」と言えるかどうかは分からない。
 今必要なことは、西村氏の主張のように、曖昧で大まかな処方せんを示して、「公教育の充実」というようなスローガンを掲げることではなく、「教育の問題」について背景にある要因をていねいに析出し、その上で具体的な方策を考え、講じることだ。そうしなければ、問題は一向に改善されることはない。