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2006-11-22

批判的まなざしのない授業

 opemuさんのブログで知った報告書について少しだけ書いておこうと思います。以前書いた関連するエントリー

 この授業が「愛国心」の問題を扱ったか、扱っていないかに関わらず問題があるので今回はそれを指摘しようと思います。

 以前、KOYASUさんがブログで書かれた次のような指摘を紹介したことがある。

 やはり、今、教育課程や授業づくりで重要なことは「批判的まなざし」の存在だということ。それが決定的だと思った、ということだ。

 活動的にとか、チョーク&トークではなくてとか、子ども同士のつながりをとか、そういう本を立ち読みしながら、それらが要素として必要だと思ったが、教えようとする内容を批判的に捉える眼差しだけがそこに欠けている場合、すべては無に帰していく。

 この報告書の授業に欠けるのは、「批判的なまなざし」だ。もっと言えば、教師は「心情を掘り起こす切り返し」によって子どもの「批判的まなざし」を機能させないようにしている。

 この授業で子どもたちは何を「考えた」のだろうか。教師の想定したストーリーのなかで子どもは想定された言動をしていただけではないか。子どもたちは何も考えていない。子どもたちは教師が提示した問題を自分の中で消化し、問題を捉え直すこともしていない。子どもはただ、教師の設定した道筋にそって活動し、発言しているだけだ。子どもたちは、何かを学んだのではなく、何かを知ったというだけ。

 例えば、こういう例を考えてみればいい。総合的な学習の時間にインド出身のゲストティーチャーを呼んでカレー作りをした。子どもたちは、カレーの作り方などを調べたりする活動を数時間かけて行った。そしてカレーを作り、食べた。子どもたちは一体何を学んだのだろうか。確かに子どもたちはカレー作りを通して様々なことを知った。しかし、その経験から何を学んだのだろうか。そして、それはその後何につながっていくのだろうか。

 この授業も同じで、子どもたちは活動して様々なことを知った。しかし、子どもはそこで止まっている。子どもたちは「愛国心」の問題をこれ以上広げて考えることはないだろう。ただ、日本はすごいとか日本は良いところだという感想を持っただけだ。

 そして、この授業を通して子どもたちはどのような価値観を持ったのか。価値観がどう変化したのだろうか。教師は、

 前述のように「人・自然・文化とのかかわり」の3つの視点に基づき、国について考えることで、児童は当たり前だと思っていたことにも日本のよさがあることに気付いた。さらに日本の文化の基盤である日本人自然観を感じたり、文化を築いてきた先人に尊敬感謝の気持ちをもったりし、今までの自分を振り返り、これから自分がそれとどうかかわっていこうか考えることができた。これは、本研究のねらいである国を愛する心の道徳的価値について理解を深め、自分とのかかわりで道徳的価値をとらえ、道徳的価値を自分なりに発展させていこうとする思いをもつことで、道徳的価値の自覚を深めることができたと考える。

と書いている。しかし、本当に子どもたちは「国を愛する心の道徳的価値について理解を深め、自分とのかかわりで道徳的価値をとらえ、道徳的価値を自分なりに発展させていこうとする思いをもつ」ことができたのだろうか。

 最近よくこういう授業に出会う。そして、良い評価を受けていることがある。だが、こういう授業では、教師の想定した授業の流れに子どもたちはただ合わせていくだけで、子どもたちが何かを考え、自分の中に取り込み再構成し、それを表現することはない。教師は、想定されたストーリーから外れないように「発問」を駆使して「テンポ良く」授業を進めていく。教師や外側から見ればこういった授業は、テンポ良く進むので良い授業に見えてしまう。しかし、子どもの視点から見るとその評価は違ってくる。また、こういう授業では子ども価値判断をするということもなく、教師の示す価値観を追認するだけになってしまう。

 最後に、デューイの『経験と教育 (講談社学術文庫)』から次のような言葉引用し、この授業への批判のまとめとしたい。

 もし学習の過程において、個人がほかならぬ自分自身の魂を失うならば、価値ある事物やその事物に関連する価値に対して批判する能力を失うならば、さらにまた学んだことを適用したいという願望を失うならば、とりわけこれから起こるであろう未来の経験から意味を引き出す能力を失うならば、地理歴史について規定されている知識量を獲得したところで、また読み書きの能力を獲得したところで、それが何の役に立つというのであろうか。

wakakumowakakumo 2006/11/22 18:43 > 子どもの視点から見るとその評価は違ってくる。
子供からしても、自分で何も考えなくても、先生が勝手に進めてくれて、そのとおり答えればいい点がもらえる授業というのは“いい授業”なのかもしれませんよ。頭を使わない授業は楽です。
わざわざ人の言うことを批判的に捉えるという面倒で辛いことを要求すると、それこそ現在の子供は“よくない授業”と思うのではないでしょうか。批判的な態度が生きる上でとても重要だという社会的コンセンサスを得ないと、学校教育だけが転換しても効果は少ないと思います。

kaikai00kaikai00 2006/11/24 07:08 wakakumoさん、コメントありがとうございます。レスが遅くなってすみません。
おっしゃるように、社会的コンセンサスの低い状況では、効果は少ないのかもしれません。でも、そういうのをこつこつやって少しずつ変えていくとか、コンセンサスが得られるようにしていくのも教育の役目ではないかなと思います。

jo_30jo_30 2006/11/27 10:26 二年ほど前の東京大の入試(文系後期小論文)に、ハンナ・アレントの文章がひかれ、そこで受動的なeducation=訓育と主体的なlearning=学習とは、異なるだけでなく対立する概念なのだという話が出ていました。個人的に面白かったです。kaikai00さんの仰る「批判的まなざし」、あるいは2003PISA調査が提示した「PISA型読解力の育成」、そしてハンナ・アレントの言う「学習」は、多分同じような問題意識に貫かれていると思いました。

kaikai00kaikai00 2006/11/28 01:08 jo_30さん、コメントありがとうございます。
コメントをいただいて、アレントの文章がどんなものか少し調べてみました。アレントの『過去と未来の間』は読んだことがなかったので今度読んでみようと思います。
入試問題で引用されていたアレントの

教えること(teaching)なしには教育は成り立たないし、学習(learning)なき教育は空虚であり、道徳的‐感情的なレトリックに堕しやすい。

という部分は、特に大事だなと思いました。

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