教育は誰のものか

 大内裕和「教育は誰のものなのか 教育基本法「改正」問題のアリーナ」『[asin:479171119X:title]』より引用

 もう一つさらに深刻なのは、現在教育に関わる多くの人々にとって、教育基本法の中心的理念である〈教育の権利〉というものを意識することが困難になっているということである。それには歴史的な背景がある。一九五〇年代から政府の教育政策の転換によって、教育委員の公選制は任命制へと変わり、学習指導要領の拘束力も強化された。地域住民が自らが希望や意志を、教育委員会を通じて学校教育に反映させることは困難となり、教科書を含めて教育内容への文部省による中央集権的統制は強くなった。戦後における教育の民主化によって獲得された国民の諸権利は、次々と奪われていったのである。一九五〇年代以降、高校や大学への進学率は急上昇し、多くの人々にとって進学への機会は拡大した。しかしそのことは、人々が〈教育の権利〉を獲得したことを意味しない。むしろ〈教育の権利〉が人々の意識から薄れていくなかでの進学卒の急上昇が、教育を経済的、社会的地位獲得のための手段へと特化し、強固な学歴社会を生み出したといえるだろう。
 教育の権利が剥奪された状態が長く続けば、管理や統制に素直に従うか、教育サービスを受け取ることに専念する消費者になるしかない。どちらにも強固な「受動性」が意識を貫いている。教育の管理主義と学歴主義は、多くの人々に「受動的」であることを強制したのである。教育の権利を奪われ、「受動的」であることに慣らされたことによって、多くの人々は教育の権利を自らがもっているということを想像することができなくなってしまっている。権利はそれを行使することによってしか守れないとよくいわれるが、「権利が存在する」ということを意識することすらできない状況が生まれているといえるだろう。ここで教育基本法「改正」への反対や教育基本法を守る意義を訴えても、それが理解されるのは容易ではない。教育基本法は現実に守られていないという点でその意義を感じることが困難であるし、教育基本法によって保障されているとされる諸権利は、その存在すら忘却されている可能性が高いからである。
 教育基本法「改正」はその目的を国益=「国家戦略としての教育」としていることからもわかるように、「教育は国家のものである」という考えを明確に打ち出している。さらに愛国心=「郷土や国を愛する心」や「「公共」の精神」を教育によって定着させることを目指している。すでに道徳の補助教材『心のノート』や「愛国心」通知表、教職員への人事考課など、それを行なうための政策が次々と実施されている。国益のために喜んで貢献する「心」や「内面」を学校教育を通して養成することが狙われている。教育基本法が「改正」されれば、それに従わない、あるいは逆らおうとする教職員や子どもは様々なかたちで選別・排除されていくだろう。これまでかろうじて残っていた教育現場の自由は完全に奪われてしまう。
 教育の目的が国家のためのものと規定され、それに従わない教職員や子ども一人ひとりの心が簒奪されようとしているぎりぎりの状況のなかで、「教育は誰のものなのか」というこれまで忘却されてきた問いは、切実な意味をもってきている。その問いに対する答えは、現行の教育基本法を「守る」ということだけでは十分ではないだろう。それは教育基本法が現実には守られていないという事態を隠蔽し、また教育基本法で保障されている諸権利がすでに意識すらされにくくなっている現状を問うことができないからである。
 必要とされているのは、国益に教育を従属させる教育基本法「改正」に反対する実践を通じて、これまで奪われてきた教育への様々な権利を私たちが自覚化することだろう。権利を自覚化することによって初めて、強いられてきた「受動性」を解体することが可能となるからである。教職員、子どもそして保護者が「受動性」から解き放たれた時、学校教育は与えられたものを受けとる場から、自らの意志や願望を生かす場へと再定義される。ここで国益への従属や学歴の獲得とは異なる価値が発見され、現行の教育基本法の理念を意義あるものとして受けとめることができるようになる。教育基本法が国家権力に対して強い拘束力をもつ法であること、個人の尊厳や機会の平等、教育行政に対する自律性が奪われている教育現場の現状に対して、有効な批判を行なう武器となりうることなどが切実な意味をもってくる。それは現行の教育基本法を「守る」というよりも、新たに「獲得する」実践であるといった方が適切だろう。
 教育基本法を新たに獲得する実践は、教育基本法「改正」問題にとどまらない。それは現場の教職員、子ども、親、地域住民が、これまで奪われてきた教育の権利を自覚し、日常の教育における様々な場面で、その権利を行使することを意味するだろう。それはこれまで絶えず、「受動的」であることを多くの人々に強いてきた官僚統制と市場主義的競争によって特徴づけられる現行の教育システムを、強い自律性と公共性を兼ね備えたものへと変革していくことにつながっていく可能性をもっている。教育基本法「改正」に反対する実践を通して、「教育は私たちのものだ」という〈教育の権利〉と〈自治の意識〉を獲得していくこと、それが今ほど望まれている時はない。