おかしい話

【主張】「道徳」見送り 教科化へさらなる議論を

 まず,道徳を教科化しなければならないという論理自体おかしな話であることを指摘しておきたい。
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070531/1180570636
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070604/1180887839
で城丸章夫氏の論を紹介したが,道徳が教科化されるということは,道徳をさらに皮相化していくだけであり,その発想は戦前・戦中に教育を道具として利用したことと同じことである。
 また,教科書検定についてこの社説はおかしな論理を持ち出している。

 教科書の検定については誤解が大きい。検定の役割は誤った記述を直し、子供の成長過程を考えたバランスのとれた教材作成を促すもので国の価値観を押しつけるのとは全く異なる。

 教科書検定は,
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070623/1182556847
で紹介した城丸氏の論や
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070612/1181611784
で書いたように,「検定には一貫した理論もなければ、きちんとした教科書観もあるわけではない。」のであり,教科書検定は「公的知識」認定におけるポリティックスの存在を不可視化するための道具である。社説の教科書検定論は間違っている。
 社説では,

パソコンや携帯電話を使う子供たちをめぐる変化は著しい。ネット上で陰湿な悪口を書くいじめも問題になっている。どう規範意識を高めるか指導に悩む教師は多いだろう。

と述べている。だからこそ,個別の取り組みが大事なのであり,多様性が保たれなければならない。それにも関わらず,

教科化は指導法研究や多様な教材づくりにも有効だ。

というおかしな論理を持ち出して多様性を否定する教科化を正当化している。
 この社説の,道徳の教科化や教科書検定に関する認識は間違っている。また,こういうおかしな論理によって進められる道徳の教科化や教育改革には反対だ。