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2008-01-10

流されないこと

 「学力」とか「規範意識」とかそういう話になると短絡的なものに流されてしまう。もう少し考えるべきこと,議論すべきことをやっていければいいのにと思う。「教育の公共性」だとかそういう言葉も,すごく安易に都合よく使われている気がする。流されないで立ち止まってみるとか。そういうことを「教育」世界・分野ではやった方が良いと思う。今年はそういう年になればと思う。そして,スローペースでブログもいこうと思う。

「読書ノート」「読書ノート」 2008/01/18 13:44 新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜: (宮台真司への)絶望から始めよう――「現代の理論」発刊に寄せて
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2008/01/post_fe9b.html
> 『終わりなき日常を生きろ』で採り上げられている事例も、実のところ実証性というものはなく、ただ自分の身の回りのインタヴューくらいでいろいろと妄想を構築している
> 宮台の言説は実証性をかなぐり捨て、若年層に対する突飛なイメージをひたすら煽り続けるようなもの
> 宮台の言説がいかに実証性に欠けているものであるか、ということを証明している
> 宮台はこのようなことを示すデータを一つも示していない
> 「人間力」などという(客観的な評価が不可能故に判断基準にするには極めて問題の多い)言葉を安易に用いている
> 言説のレヴェルはたかが知れている
> 宮台のいっていることはいわゆる「ニセ科学」に他ならない
> 「ニセ科学」というと自然科学系のものを我々は想起しがちだが、宮台のような社会科学系のものにも注意を支払う必要がある
> 嗤うべきところは他にも多数ある
> 宮台こそが若年層に対する不安を煽り続け、そして統計やデータ、及び科学的な検証によらない青少年言説を発信し続けてきた

塩川伸明「読書ノート」
ソーカル、ブリクモン『知の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/sokal.htm
> 著者たちは次のようにいうのだが、これはいかにも安易な印象を受ける。
> 
>「二つのタイプの難しさを見分けるために役立つ判断基準はいくつかあるようにみえる。第一に、もし難しさが本物ならば、その理論がどのような現象を扱っていて、主要な結果が何であって、それを支える最良の論拠は何かといった点を、ある程度初等的なレベルでわかりやすい言葉を使って説明できるのが普通である。〔中略〕。第二に、難しさが本物ならば、そのテーマについてより深い知識を身につけるためのはっきりとした道が――長い道のりかもしれないが――用意されている」(二四七‐二四八頁)。
> 
> 前の方の文章の末尾にある「普通である」という言葉はくせ者である。あるいは、自然科学では――そしてまた社会科学でも、一部の分野で「科学化」が進んでいる場合には――それが「普通」なのかもしれない。つまり、ディシプリンが確立していて、クーン流にいえば「通常科学」の土俵の上で「パズル解き」がなされているときには、その「パズル」がいくら難問であっても、そのテーマ・論点・結果・論拠等々については共通了解があり、それを明確に説明することが可能だろう。だが、ディシプリンそのものが未確立だったり、動揺したりしている場合(同じことだが、パラダイムが未確立だったり、動揺したりしている場合)、「どのような現象を扱って」いるのかということを明らかにすること自体が難しい――何をとりあげ、それをどのような現象と捉えるかということ自体が争点であり、論争当事者間で共通了解がないために、言葉もなかなか通じない――ということが珍しくない。第二の、「そのテーマについてより深い知識を身につけるためのはっきりとした道が用意されている」というのも、既に確立した学問分野において、「初等編」「中等編」「高等編」といった教科書があるような場合には当てはまるが、その分野そのものが開拓途上の場合には、そうした「道」は決して「用意されて」などいない。むしろ、「道なき道」を自ら切り拓きながら――ということは、どこかで泥沼に足を取られて、完全に方向を見失ってしまうという危険性をも敢えて冒しながら――進むほかないという場合もあるのである。

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