梶ピエールの備忘録。 RSSフィード

2008-02-05

[]悪の凡庸さについての報告:カンボジアのケース

 きちんとした感想を記すにはインドシナの歴史について知らなさ過ぎるわけですが。

ポル・ポト―ある悪夢の歴史

ポル・ポト―ある悪夢の歴史

 ポル・ポト。誰もがあの忌まわしい悲劇と結びつけてその名前を覚えていながら、彼が一体どんな人物なのか、自信を持って語ることのできる人はほとんどいないだろう。この分厚い本を読めばポル・ポトという人物の具体的な像が浮かんでくるかというと、残念ながら必ずしもそうではない。読後も強く印象に残るようなエピソードや言動といったものがこの人物についてはそもそも乏しいからだ。本書の大部分は、むしろ複雑極まりない第二次世界大戦後のカンボジア国内の政治状況やインドシナ半島を取り巻く国際情勢の解説などに費やされている。

 もちろん、クメール・ルージュが極端に秘密主義だったため、彼の人物を示す資料や関係者の証言も少ないので、さすがの著者もその実像に迫れていない、という可能性もあるだろう。しかし、いくら資料が出てきても例えば毛沢東とか周恩来、あるいはレーニンやスターリンといった、肯定的にせよ否定的にせよとにかく分かりやすくて感情移入しやすい人物像が描かれる可能性はまずない。そう確信させるだけの力がこの本にある。むしろアレントが『イェルサレムのアイヒマン』で提示したような「悪の凡庸さ」こそがカンボジアの独裁者の特質だった、ということを浮かび上がらせることこそ、本書の持つ最大の意義なのかもしれない。

 山形さんの解説でも触れられているように、著者のフィリップ・ショートはクメール・ルージュ政権下のカンボジアで起こったことは「ジェノサイドではない」という立場をとっている。では、「あの悪夢」は一体なんだったのか。ショートは明確な答えを出すのを慎重に避けているけど、誤解を恐れず言ってしまえば、僕のイメージに浦沢直樹の『MONSTER』で描かれたような、どこかの平和な田舎町が憎悪と殺戮の連鎖に巻き込まれていく恐怖に一番近いように思う。もちろん、『MONSTER』との一番の違いは、おぞましい悲劇を引き起こしたのがヨハンのような特別な存在=モンスターではなく、徹底して「凡庸な理想主義者たち」であったという点だ。もちろん、その背景には古谷実の『シガテラ』で有名になった「弱い毒」の蓄積―ベトナム人への民族的憎悪、農民の都市民に対する憎悪、旧宗主国フランスやアメリカの自己中で非人道的な振る舞い、著者の言うところの「クメール人気質」・・etcがあったということが前提条件なのだが。

 チャン=ハリディの『マオ』にもいえることだが、筆舌に尽くしがたい歴史的な悲劇が起こったとき、「モンスター」がそれを引き起こした、という解釈をとることは一番安直な方法で、それゆえ大国の政治的利害のために使われやすい。かといって「凡庸な役者」しか登場しないところになぜあれほどとんでもない悲劇が生じるのか、それを説得力のある道筋をつけて描くのはとても難しい。本書は必ずしもその道筋を分かりやすい形で示しているわけではないが、その代わり膨大な資料収集と丹念な実証的記述によって、少なくとも起こったことを「ありのままに」提示し、「モンスター史観」を葬り去るのにかなりの程度成功しているといえるだろう。口で言うのは簡単なことだが、大変な労力と強靭な精神力を要する仕事だ。

 「モンスター史観」を否定するということは、安易な「救い」「希望」を拒絶するという意味でも重要だ。それにしても本書の記述の救いのなさは徹底している。それは、次のような一節に端的に現れているだろう。

何世紀にもわたってかれらの国家の運命は外国勢力の気まぐれに左右されてきた。そしてこの論理を唯一拒絶した統治者ポル・ポトは、さらにひどい災厄をもたらしたのだ。

このような表現からはシニカルな冷徹さが感じられるかもしれない。しかし、国際社会が長い間「支援」してきたカンボジアの現政権の首脳がいずれもクメール・ルージュの生き残りであり、「全く無慈悲で人間的な感情を持ち合わせていない」と評される現実に思いをいたせば、このような冷徹さこそが精一杯誠実な態度なのだ、ということが分かるはずである。

MONSTER完全版 volume.1 (ビッグコミックススペシャル)

MONSTER完全版 volume.1 (ビッグコミックススペシャル)

NakanishiBNakanishiB 2008/02/06 13:27  どうも、これはすごい本のようですね。日本での出版に尽力された方々に率直に敬意を表します。今まで、ポルポトの名前が出ると単にジェノサイド(≒悪)の記号としてばかり使用されることが多く(私自身も反対向けにそうなところがありましたが)、どうにもいやだったのですがこれでそういうレベルははっきりと終わったようですね。ホロコーストに関する本などを読んできた経験からすると、特に歴史学の機能派の議論の説得力に納得すればするほど(テーマはずれてもテイラーなども)、「ホロコースト」はヒトラーなしにはなかったと思えてしまいます。レベルは違いますがスターリンにもそれは感じます。もちろんまだ読んでもいないので、もしかしたら同様の感想が浮かぶかもしれませんがどちらにせよ本の意義は変わらないでしょう。

 前のエントリーで、昔、中国にあった「アジア・アフリカ・南米の革命家向けの研修所」の話がありましたが、中国はカンボジアにははるかに深く入り込んでこの悲劇にも責任を負っていますね。中国自身が「かれらの国家の運命は外国勢力の気まぐれに左右されてきた」という状況に一世紀ほどあった結果としてできた政権で、「文化大革命」という恐るべき「悲喜劇」の真っ最中にあったのも皮肉です。
その「文化大革命」のきっかけの一つが「外国によって作られた枠を自らのアイデンティティにせざるを得なかった」インドネシアでおきた9月30日事件とその後の大虐殺(条約の定義にそってあえてジェノサイドは使いません)によるインドネシア共産党の壊滅ですから何重にも皮肉な事態が重なっています。先ごろ虐殺の責任者である、スハルトが亡くなりましたが、あまりにも同時代にテレビなどで見すぎてきたので実のところで結構それについて書いていながらあまり行ったこととの間の繋がりがピンとこないのですね、それを主題にした文章などが極めて少ないことがありますし(http://www.afpbb.com/article/politics/2342629/2566596、日本語でこの事件に触れたニュースがこれしか見つからなかったが、桁を一つ多く誤記している…・BBC、http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/7183191.stm)。「有能な現実主義者」の像もまたまるで結びにくいのもアジア史の皮肉かもしれません。とはいえ少しづつ明らかにしようとする努力は始まっていること感じましたが。

>「モンスター」がそれを引き起こした、という解釈
 私が浦沢直樹のマンガに一貫してなじめないのはそのせいでしょうか。これは、9月30日事件はまだ公式にはタブーの、インドネシアの劇団の方に聞いたのですが、スハルト時代には事件はすべて共産党の責任ということになっていたので、事件で殺された将軍たちを悼む官製映画が作られ学校などで上映されていたそうです。殺されるまでの一日を描いた映画はあまりに良くできていて人間としての将軍を描いていたため、子どものときに見た彼の世代の人間にはほとんどトラウマのように残っているそうです。このような部分など私たちの経験との関連など考えてしまいます。

 直前に森達也さんの「死刑」を紹介する記事を読んだ後なのでかなり余計なことまで書いてしまいました。すいませんでした。では。

kaikajikaikaji 2008/02/06 18:53 NakanishiBさん、お久しぶりです。
>どうも、これはすごい本のようですね。
ええ、いずれきちんとした書評を専門家に(できれば学術誌以外のところで)書いてもらいたいですね。

>前のエントリーで、昔、中国にあった「アジア・アフリカ・南米の革命家向けの研修所」の話がありましたが、中国はカンボジアにははるかに深く入り込んでこの悲劇にも責任を負っていますね。
 中国の対東南アジア外交に関しては僕も気になってはいて、特に東南アジアから見た中国、という点には非常に興味がありますが、今のところ考えはあまりまとまっていません。なかなか参考になるような(日本語の)文献が少ないということもありますが。 インドネシアと文革との関係も正直よく理解していません・・いずれNakanishiさんにもこの辺の事情を分かりやすくまとめた文章を書いていただくことを期待いたします。

NakanishiBNakanishiB 2008/02/06 20:54  どうもいきなりの長文コメント失礼しました
>いずれきちんとした書評を専門家に(できれば学術誌以外のところで)書いてもらいたいですね。
 そうですね、このエントリーが出ただけにますますです。

>インドネシアと文革との関係も正直よく理解していません・・
 私もほとんど理解していません(^_^;)。東南アジアにおいては1965年の9・30日事件によって世界最大の非共産国の共産党が消滅して東南アジアの枠組みが替わってしまったことですね。直接にはASEANはこの後にできたわけですから、中国にとっての被包囲感が一気に強まったのは確かだと思います。「弱い毒」の一つではあったと思いますがが私にはそれ以上は…。

>東南アジアから見た中国
 スハルト政権は共産党の幹部に中国系が多かったこともあって事件に結び付けて、常に華僑と抑圧的でしたし、それが軍の二重機能の正当化や、経済領域で強い華僑を政権に屈服/支持させるように働いていたわけですが中世ヨーロッパのユダヤ人に似た奇妙な位置のようです。ただ中国自体は時間とともに遠景に退いていったのですが。今のイスラム主義がスハルト政権に対して両義的であるがゆえに発展してきたナショナリズム運動という側面があることを考えると、ようやくまた中国が視界に入ってきているこなど事件がどう絡むかは気になります。

>NakanishiBさんにもこの辺の事情を分かりやすくまとめた文章を書いていただくことを期待いたします。
 いえ、特に中国との関係に関してはとてもその能力は…。ただ、私は例のプロパガンタ映画の話をした方たちともう一つ日本のアニメ(ドラえもんとか)の話で盛り上がったので、9月30日事件などはそのような視点から改めて気になってきたしだいですがこれについては日本語では本当に言及が少ないですね。また長々と失礼しました。

morimori_68morimori_68 2008/06/06 12:20 8 2008/06/06 11:45 kaikajiさん、NakanishiBさん、こんにちは。
ショートの原著につきまして、資料の扱い方などについての異論も出ているようです。
その書評をざっと訳してみました。
http://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20080530/p1
ご存知かとも思いましたが、念のためお伝えいたします。

kaikajikaikaji 2008/06/06 16:36 morimori_68さん、コメントありがとうございます。書評の翻訳の方も拝見しました。判断するにはわたしの能力を超えていますが、大変重要な論点が提起されていると思います。

morimori_68morimori_68 2008/06/06 23:05 kaikajiさん、ありがとうございます。

お気づきのことなどございましたら、遠慮なくご指摘ください。

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