梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

属地的自治と属人的自治

http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20090903の続き。塩川伸明『民族とネーション』より再引用。

オーストリア社会民主党の1899年のブリュン綱領は、オーストリアの民主的他民族連邦国家への転化を目標として掲げた。その前提には、属地主義に基づいた民族別地域の自治という発送があったが、諸民族の混在する地域ではこれだけでは問題に解決にならないことから、地域自治属地主義)と属人主義の組み合わせという考えがオットー・バウアーらによって提起された。属人主義とは、少数民族が地域を越えて形成する公法団体に学校運営などを委ねるという考えであり、「文化的自治論」とも呼ばれる。

レーニン及びスターリンがブンドへの対抗という観点から領土的民族自決論を特に強調したことはよく知られている。もっとも、この論争における対抗は、当事者たちの党派的論争の過熱のせいもあって、実質以上に過大評価されているところがある。オーストリアマルクス主義のうちバウアーは地域自治と文化自治を組み合わせる主張をしていたし、後のソ連も文化的自治の要素を全面的に排除したわけではないから、両者の開きは通常思われているほど大きかったわけではない。(中略)指導的な政治家・理論家の言説と、彼らに象徴される国の現実の政策とは必ずしも全面的に対応するわけではないということも押さえておく必要がある。

 民族区域自治制度に代表される中国共産党の民族論は、毛里和子も指摘するように、公式的には否定されるものの、レーニンよりもバウアーおよびルクセンブルグの議論に近いものであると、一般的には考えられてきた。

 ただし、ここでバウアーらの民族論を上の塩川の整理に従って「文化的自治論」として理解するならば、中国の場合そこに「属人的自治」の要素が極めて薄弱であることには改めて注意が必要である。確かにチベットなど民族自治区においては民族文化の保護がうたわれ、民族語での教育を行う学校が存在している。しかし、「属人的自治」の本来の意義から言えば、例えば上海など民族自治区外で生活する少数民族が、同胞の子弟に民族教育を行うための学校を設立したり、あるいは自分たちの権利を守るためのアソシエーション(それこそ「世界ウイグル会議」のような)を設立する自由も認められなければならないはずである。しかし、現在そのような自由が認められていない―なにしろウェブサイトの開設・運営だけで逮捕されるのだ―のは言うまでもない。この点で、中国の区域自治はバウアーらの民族論とも区別されるといってよい。

 ところが、これまで中国の区域自治制度について論じたものについて僕の知る限り、そういった「属地的自治」と「属人的自治」との差異に注目し論じたものはあまりないように思われる。例えば多民族が混住(大雑居、大融合)する西南中国の状況に合わせて練り上げられた費孝通の「中華民族多元一体論」も、それが属地的自治を行うことの根拠として用いられることはあっても、それがついぞ「属人的自治」を認めるものではなかったことは、もう少し強調されてもよいのではないだろうか。

 一般的に言って、人々の地域間の移動がそれほど激しくなく、地域の民族構成比率にそれほど大きな変化がないような状況の下では、「属地的自治」と「属人的自治」を特に区別する必要はなかったのかもしれない。しかし、今年7月のウルムチでの騒乱の直接の原因になった広東省の事例のように、沿海部における安価な労働力として少数民族の地域間移動が増えているような状況の下では、民族の「属人的自治」をどう考えるかということは避けて通れない問題になっているのではないだろうか。


 ただ、いずれにせよ、実際のソ連・中国における民族問題の経緯を見ると、問題は結局のところ、レーニンとバウアー=ルクセンブルグのどちらの路線が正しかったのか、というところなどにはないことは明らかである。むしろ、そのような深刻な意見の対立をはらんだまま、「多民族居住地域」での社会主義革命の現実が進んでしまったため、そのような意見の対立があたかも一種の「顕教」「密教」的な二元的なものとして、専制的支配の論理(スターリニズム)に利用されていった、ということこそが重要なのだと思われる*1

 たとえば、あまり知られていないことだが、1951年にチベットが「解放」されたとき、中国共産党とは全くの別組織であったチベット共産党が果たした役割は大きい(阿部治平『もう一つのチベット現代史』)。しかし、チベット「解放」後、チベット共産党中共の下部組織として強引に解体・吸収され、そのメンバーの多くは中国共産党に入党することになる。そのリーダーの一人であるプンツォク・ワンギェル(プンワン)は、ダライ・ラマ14世とも深い信頼関係で結ばれていたことでも知られるが、反右派闘争のときに中共による余りに急進的なチベット社会主義化に異議を唱えて投獄され、その後18年獄中にあった人物である。

 阿部氏の記述によれば、プンワンらチベタンコミュニストは、中国共産党のもとでチベットが「解放」されれば、レーニンスターリンの民族理論に基づいた民族政策が実行され、その結果民族自決権が保証されることを信じて活動していた。基本的にレーニンの路線を受け継いでいるはずの当時の国際共産主義運動の原則からして、革命に成功した多民族国家における少数民族に分離独立件が与えられるというのが当時のコミュニストにとっての常識だったからである。

 しかし、実際は1949年の時点ですでに共産党は「民族自決権」を否定していたのであり、その点に関する認識のギャップが最終的にチベタンコミュニストたちおよびチベットの悲劇を招くことになる。ここに中国共産党政権による「顕教」と「密教」の使い分けをみることはたやすいであろう。このような観点に立つとき、一貫して「共産主義民族自決」の二元論的な対立として理解されてきた―その点においては西側のチベットウイグルサポーターも中国政府側も全く変わらない―中国の民族問題の、異なった、しかし重要な一面も見えてくるのではないだろうか。


もうひとつのチベット現代史

もうひとつのチベット現代史

*1:この点で塩川氏の上記の記述にはやはりさすがといわざるを得ない。反対に、やはり前回引用した文章のうちどうしても違和感がぬぐえないのが、松尾匡氏の言説である。特に、参照すべき理論に照らし合わせて、A民族の独立闘争は「正しい」ので支持すべきだが、B民族の闘争は支持すべきではない、といった判断を演繹的に下すべきである、という主張には全くついていけない。民族問題に対する左派のそのような姿勢こそが、これまで脈々と続いてきたスターリニズム的圧制を影で支えてきたのではないだろうか。山形浩生氏による批判http://cruel.org/other/matsuo/merchantsandsamurai.htmlは若干飛ばしすぎのところもあるが、こういった松尾氏の「演繹癖」のもつ問題点を的確についているように思える。