梶ピエールの備忘録。 RSSフィード

2018-12-12

[][]お仕事のお知らせ


 本日の日経「経済教室」欄に「中国・改革開放の40年(中)『異質論』超え独自性議論を」という記事を寄稿しました。米国の対中観は「関与」から「抑止」へと大きく変化したと考えられていますが、これらはいずれも「異質な資本主義」の存在を認めないという点では同じベクトル上に存在します。日本の中国研究の蓄積を生かし、中国の資本主義がはじめから異質なものを含む独自の発展を遂げたものであることを前提とし、その上でいかに相互の経済利益を実現していくかを検討すべき、という考えを述べました。

2018-12-11

[][]お仕事のお知らせ

 12月11日付のシンガポールの華字新聞『聯合早報』に、「改革開放の『夢』はどこへ行った?」と題する論評を寄稿しました。

https://www.zaobao.com.sg/forum/views/opinion/story20181211-914896

 ただ、これは中国語の会員限定の記事なので、以下に元の日本語の原稿を公開します。

 経済政策における大胆な市場原理の導入の方針を決定し、改革開放路線を決定付けたとされる中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議が1978年12月に開催されてから、今年で40年目を迎える。これに合わせてさまざまな中国メディアが、改革開放40周年の歩みを振り返る特集を組んでいる。ただ、それらのメディアの記事を見て、筆者はかなりの違和感を抱いている。改革解放はそもそも中央政府に集中しすぎていた権力と政策上の権限を、少しずつ地方や民間に委譲し、最終的には市場メカニズムを通じて調整していくことが眼目であったはずだ。しかし、40周年を記念するそれらのメディア記事は、改革開放の成果としての「中国の強大さ」を強調するあまり、その裏返しとしての権力の集中をも、あまりに手放しに礼賛しているように思えるからだ。

 例えば、11月26日、中国共産党の機関紙『人民日報』に中国の改革開放40年に傑出した貢献を行った各界の著名人100人を表彰する記事が掲載され、100人のリストが公表された。NBAで活躍したバスケットボール選手の姚明やアリババ集団の創設者である馬雲などもそのリストに含まれていたが、記事では彼らの経歴も公開されたため、馬雲が共産党員であることが初めて公になり、インターネット上で話題を呼んだ。

 そのリストの中に、改革派の経済学界の重鎮である呉敬琏氏の名前が漏れていたことが、様々な憶測を呼んでいる。呉氏は、これまで中国の市場経済改革を理論面、政策面でサポートしてきただけではなく、海外の経済学者やジャーナリストとの親交も深く、歯に物着せぬ政権・政策批判を繰り返してきたことでも知られている。習近平政権になってからも、これまでに中国が採用してきた政府が強い権限を持つ成長モデルは、途上国がキャッチアップをする際の過渡期のモデルであり、成長を持続していくためには政府の権限を縮小していく改革が必要だ、と言う発言を繰り返してきた。 

 一方で、北京大学教授の林毅夫氏がリストの中に選ばれたことは、「市場と政府」の関係をめぐる現政権の姿勢を明確に示すものだといえるかも知れない。世界銀行のチーフエコノミストも勤め、世界的にも著名である林氏は、呉氏とは異なり一貫して国家の市場介入を支持する姿勢で知られていたからである。林氏は自らの経済思想を「新構造経済学」と名づけている。これは、各国がグローバル経済に適応した「比較優位産業(それぞれの国が特定の産業の生産に特化し、互いに貿易を行うことにより多くの利益が得られるとき、ある国が生産に特化すべき産業のことをその国の「比較優位産業」と呼ぶ)」を見つけ出すために、政府が主導的な役割を果たすべきだ、とするものだ。変動の激しいグローバル経済の下で、労働や資本といった国内の生産要素の相対価格が変化することにより、比較優位産業は絶えず移り変わっていく。特に新興国においては、競争的な市場の下で政府が潜在的な比較優位産業を伸ばし、取引コストを下げ、資源のコーディネーションを行っていくことが必要だ、というのが林氏の主張である。

 また、林氏と並んで100人のリストの中には、やはり北京大学教授の厉以寧氏が選ばれた。呉氏とほぼ同世代である厉氏は、1980年代の比較的早い段階から国有企業の所有権改革や株式制の導入を主張していた改革派の経済学者として知られている。ただし、最近出版された『超越市場与超越市場』というの中ではむしろ行き過ぎた市場メカニズムの導入に警鐘を鳴らし、中国経済は儒教などの「道徳的価値」を通じた一定の規律付けが重要であることを強調するなど、西洋的な「法の支配」の導入を支持する呉氏とは中国の現状に対する姿勢の違いが際立っていた。

 このような経緯から、いくつかの海外メディアが報じた通り、呉氏が改革開放40年に貢献した100人のリストから外れたことは、確かに今後の習政権による経済改革、特に政府や官僚機構に集中した権限の分権化への姿勢を疑わせるに十分なものといえるだろう。問題はそれだけではない。改革開放初期の1980年代には、呉氏に限らず、改革派の知識人が中国社会の抱える問題点を非常に率直な形で指摘し、それを受けて闊達な議論が展開されることは決して珍しいことではなかった。しかし改革解放後40年の現在、学術的なものであれ、ジャーナリスティックなものであれ、現政権の政策を率直に批判するような言論の存在がどれだけ行われているだろうか。

 市場化改革を進めてきた40年間、中国経済は確かに経済のグローバル化の潮流に棹差すことで、目覚しい経済的繁栄を実現してきた。その一方で、初期の経済改革を支えてきた「自由」を求める精神及びそれを許容する空間が急速に衰退しつつあるかに見える現状に対しては、これまで中国経済の歩みを見つめてきたものとして、大きな懸念を抱かざるを得ない。

2018-12-05

[]お仕事のお知らせ

 『ニューズウィーク日本版』のウェブサイトで、何回かにわたって「中国の『監視社会化』を考える」というテーマで集中的に連載する機会をいただきました。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/12/post-11370_1.php

 第1回目は、中国におけるテクノロジーの目覚しい進展による「監視社会」化、という現実に対して、アジア社会における「市民社会」あるいは「市民的公共性」を問う、という観点からこれを論じるべきではないか、という問題提起を行いました。あまり読みやすい論考ではないかもしれませんが、よろしければご覧ください。

いわゆる現代の「監視社会」をめぐっては、これまでも欧米や日本などの事例を中心に、膨大な議論の蓄積があります。その中には、比較的単純な、「監視社会」をジョージ・オーウェルの『1984』で描かれたように人々の自由な活動や言論を脅かすディストピアと同一視し、警鐘をならすようなものもありますが、そういった議論はむしろ下火になってきています。それに代わって、近年の議論はテクノロジーの進展による「監視社会」化の進行は止めようのない動きであることを認めたうえで、大企業や政府によるビッグデータの管理あるいは「監視」のあり方を市民(社会)がどのようにチェックするのか、というところに議論の焦点が移りつつあります。

もちろん、習近平への権力集中が強化される現代中国において、そのような「市民による政府の「監視」の監視」というメカニズムは望むべくもありません。それでは、中国のような権威主義的な国家における「監視社会」化の進行は、欧米や日本におけるそれとは全く異質な、おぞましいディストピアの到来なのでしょうか。しかし、「監視社会」が現代社会において人々に受け入れられてきた背景が利便性・安全性と個人のプライバシー(人権)とのトレードオフにおいて、前者をより優先させる、功利主義的な姿勢にあるとしたら、中国におけるその受容と「西側先進諸国」におけるそれとの間に、明確に線を引くことはできませんし、そのように中国を「他者化」することが問題解決につながるとも思えません。

2018-11-20

[][]お仕事のお知らせ

 11月21日(月)発売の、『週刊東洋経済』11月24日号のコラム「中国動態」に、「日中首脳会談と盛り上がらない国民感情」という記事を寄稿しました。タイトル通りの内容で、大きな成果を上げたはずの首相訪中であったにもかかわらずなぜ盛り上がりに欠けるのか、1970年代以来の日中関係の構造的変化という観点から改めて考えてみました。

2018-11-07

[][][]功利主義+テクノロジー、市民社会、現代中国

 『週刊読書人』11月2日号の綿野恵太氏によるコラム「論潮」で、拙著『中国経済講義』ならびに「『リベラル』な天皇主義者はアジア的復古の夢を見るか?」(『現代中国研究』第40号)が言及されています。特に後者については、「功利主義+テクノロジー」による統治に関する批判的議論の導入として、かなり突っ込んだ取り上げられ方がされています。

功利主義の世紀 進化論と認知科学から導かれる統治

「アリババやテンセント、ファーウェイと言った民営企業の台頭、それに自転車や配車アプリなどのシェアリングエコノミーの広がりは、人々の私利私欲を満足させる、つまり功利主義的な価値観を全面的に肯定すると同時に、法やイデオロギーに裏付けられない、テクノロジーに裏付けられたアーキテクチャーによって「環境管理型権力」の洗練に一役買っている。〔…〕おそらく今後の中国社会では、知識人がどのような議論を展開しようとも、あるいは共産党が「表の」支配イデオロギーとして社会主義思想の徹底を打ち出そうとも、「私利私欲」に基づく功利主義的なリベラリズムが人々の「本音」を反映しつつ、いわば「裏の」支配的イデオロギーとなっていくだろう」(「リベラルな天皇主義者はアジア的復古の夢を見るか?」『現代中国研究』40号)

ここで橘が「功利主義を過激化させたサイバーリバタリアン」が「「リベラルデモクラシー」を否定するユートピア思想のなかで唯一、今後大きな影響力をもつと思われる」と指摘していたことも付け加えておこう。功利主義は「リベラル」に親和性があるが、必ずしも一致するわけではないのだ。かといって中国の独裁も完全に統制しているわけではない。せいぜい互いにうまく利用しているのが現状のようだ。

 

 拙著『日本と中国、「脱近代」の誘惑―アジア的なものを再考する―』に対する緒形康氏の批判への応答としてかかれた拙稿「『リベラル』な天皇主義者はアジア的復古の夢を見るか?」をお読みいただければお分かりのように、私はこの功利主義とテクノロジーによる統治の問題を日中における「市民社会」の困難性、という問題意識と結び付けて論じています。同様の論点を中国の現状を踏まえてより掘り下げたものとして、先日行われた社会思想史学会第43回大会の共通論題で「アーキテクチャによる統治と東アジアの市民社会−現代中国からの視点−」と題した報告を行いました。以下に、そのときのスライド(いずれ文章化する予定)を公開しますので、よろしければご覧ください。

「アーキテクチャによる統治と東アジアの市民社会−現代中国からの視点−」(社会思想史学会第43回大会レジュメ)



[][][]いただきもの

 著者の田口宏二朗さんよりご恵投いただきました。かもがわ出版からシリーズとして出ているビギナーズ向け「中国の歴史・現在がわかる本」の第3期めの1冊です。