尖閣諸島 大陸の歴代政権(中国)はどう認識していたか

欽定大清一統志(清の乾隆帝 の勅命で編纂された地理書)の台湾府の説明がなされている巻の文面には台湾の北端が鶏籠城(現在の基隆)であると記されている。尖閣諸島は基隆から、約300キロも離れており、清代から「台湾の一部でない」と認識されていと言うことになる。
おまけに鄭成功がオランダ人を追い出すまで台湾が日本領だったと記している。つまり、明代の台湾は先住民の住む「東蕃地」「紅夷地」とされ、中国の統治が及んでいなかったのである。
清朝が台湾の北端まで統治できるようになったのは、雍正元年(1723年)に彰化縣と淡水縣が設置されてからである。
欽定大清一統志·卷三百三十五~卷三百三十六


大清一統志による歴代王朝における台湾
欽定大清一統志·卷三百三十四



この大清一統志に付属の地図でも尖閣諸島は描かれておらず、東北端は鶏籠城である。
地図で台湾の地図が西半分の沿岸線しかないのは山脈の向こう側である東半分に清の支配権が及ばなかったからだ。赤字のクエスチョンマークは編者の付け加えである。
欽定大清一統志·卷三百三十四


これが清代の台湾府の地図の拡大。鶏籠城が最北端。


台湾府誌にもこの考えは引き継がれた。下記の図の左が北である。その下は拡大図。



鶏籠城を最北端とする考え方は経度緯度で座標軸を捕えるようになっても変化はなかった。台湾の付属島嶼の範囲が緯度、経度で掲載されている 『淡水庁全図』 (1871年:下記図) でも、尖閣諸島は 「その範囲外」 となっている。今度は右方向が北である。下の図はその拡大図。


上記の中国側の文献から、尖閣諸島は歴史的に一度も中国大陸や台湾に成立したいかなる政権によっても、その領土となった事実がないことがわかる。日本政府が1895 (明治28) 年に尖閣諸島に清の支配が及んでいないことを確認した上で、「無主の地」として正式に尖閣諸島を領有したことは、国際法上も極めて妥当であったということになる。

その当時の国際的認識が解るのが次の地図である。
地図はドイツのライプティヒにあるMeyers Konversations-Lexikonが1892年に1890年当時の政治勢力図(Political map of Asia in 1890)である。この地図はWikipediaで見ることができる。下は拡大図である。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4f/Asien_Bd1.jpg


下記はStielers Handatlas 1891 の拡大である。
Stielers Handatlas 1891 - Wikimedia Commons


ご覧いただければわかる通り、尖閣竹島も日本領として当時のドイツに認識されていたことが解る。おまけに鬱陵島と思しき島も日本領となっている。


その後も1971年まで尖閣諸島を日本領とすることに異議をさしはさむ国はなかったのである。
以下に主な中華民国中華人民共和国の地図を例示していくことにする。
中華民国1945-1953


中華人民共和国1960年北京地図出版社



中華民国1965年世界地図集第一冊東亜諸国



中華民国1970年国民中学地理課教科書



中華人民共和国1972年北京地図出版社


中華人民共和国1967年


中華人民共和国1969年



中華人民共和国2004年・・・・この地図が尖閣諸島の名前を中国名に変えただけで現在も出回っているらしい。


上記の裏付けとなる資料は、web上に数えきれないぐらいある。
中国人っていい加減でかわいい(*^_^*)・・・・・例えば下記
中国人ブロッガーが掲載した尖閣が中国領の根拠となる地図


大陸の地図製作業者は良心的なのか、いい加減なのかわからないが、与那国島のすぐ近くに国境線を引く傍若無人さが見受けられるにも拘らず、尖閣諸島を日本領と推測できる位置に国境線を引いている。
本来なら双方の領土の中間に国境線を引くのが慣例だろう。
それとも、もともと日本領と分かっていて無理押しをしている中国政府の内内の意向を受けて、わざと日本領と分かる様にしているのだろうか。
地図製作は技術水準の表れでもある。
わたしは、新たな地図を自力で制作できない業者が、過去の地図をそのまま利用して作り直しているから、国境線を引くことができないとみている。はからずも、中国の海賊版文化が真実を伝えているのかもしれない。
尖閣が日本領であることを示す旧ソ連の地図や他国の地図もウェブ上で公開されている。中国が証拠隠滅を図ることは不可能である。

尖閣諸島歴史認識上も国際法上も日本領である。中国は自国民を欺くのを止めるべきである。