学園ドラマ最強説 PART1 ―「学園ドラマ」の諸分類

近頃ほとんどテレビドラマを見なくなってしまったのですが、なぜだか「学園ドラマ」だけはついつい見てしまいます。前クール(2010年春クール)も、『ヤンキー君とメガネちゃん』(TBS)だけはついつい最後まで見てしまいました。

そこで、これから何回かにわたってその私の大好きな「学園ドラマ」について語っていきたいと思います。


「学園ドラマ」とは、その名の通り学園を舞台としたテレビドラマのジャンルの1つのことで、『3年B組金八先生シリーズ』(TBS、1979年〜)などが最も有名な「学園ドラマ」の1つとして挙げられるでしょう。

一口に「学園ドラマ」と言いましても、その中身や種類は豊富でして、その設定の相違によっていくつかに分類されます。そこでPART1では、「学園ドラマ」の諸類型について述べます。


では、どのように分類することが出来るのでしょうか?


まず、主役=主人公の立ち位置の違いから「教師モノ」と「生徒モノ」に分類できます。「教師モノ」の代表例としては、先にも挙げた『金八シリーズ』をはじめとして、他にも『GTO』(フジテレビ、1998〜99年)、『ごくせんシリーズ』(日本テレビ、2002,05,08年)、『ドラゴン桜』(TBS、2005年)などが挙げられるでしょう。一方の「生徒モノ」としては、『キッズ・ウォーシリーズ』(TBS、1999〜2006年)や『花より男子シリーズ』(TBS、2005,07年)、『WATER BOYSシリーズ』(フジテレビ、2003,04年)などが挙げられるでしょう。


また、主な登場場面の違いにより、大まかに「部活モノ」と「教室モノ」にも分類することができます。先の代表例を使って分類しますと、『金八シリーズ』は後者、『WATER BOYSシリーズ』は前者にそれぞれ分類することが出来るでしょう。


そして、そもそも「学園」と言いましても、小学校、中学校、高等学校、大学などとその種類はさまざまです。そこで「学園ドラマ」もどの「学園」を舞台としているかということで、だいたい「小学校モノ」、「中学モノ」、「高校モノ」、「大学モノ」の4つに分類することができます。『キッズ・ウォーシリーズ』の前半は「小学校モノ」、『金八シリーズ』は「中学モノ」、『GTO』や『花男シリーズ』は「高校モノ」にそれぞれ分類されるでしょう。そして、「大学モノ」に分類できる「学園ドラマ」としては、『オレンジデイズ』(TBS、2004年)などが挙げられるでしょう。


最後に、おおまかな内容の違いによって、以下のように分類することができます。すなわち、(1)学校、クラス、部活がひとつの目標のために一致団結する過程を描く「団結モノ」、(2)ひとりの教師や生徒(児童)に注目し、その主人公や周囲の学園生活などにおける成長過程を描く「成長モノ」、(3)専ら学園内の恋愛に注目した「学園恋愛モノ」の3つにだいたい分類できます。『金八先生シリーズ』や『GTO』、『ごくせんシリーズ』は(1)と(2)の混合、『WATER BOYSシリーズ』は(1)、『キッズ・ウォーシリーズ』は(2)、『花男シリーズ』、『オレンジデイズ』は(3)にそれぞれ分類できるでしょう。


次回のPART2では以上のような分類を駆使して、近年とりわけ2000年代以降に、どのような類型の学園ドラマが流行しているのか、ということについて述べたいと思います。


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「最小不幸社会(国家)」 V.S. 「日本を世界でいちばん幸せな国に!」

来週の日曜日(7月11日)は参議院選挙の投票日ですね。

ということで今回は政治ネタを。

今回の参院選で、生涯2回目の選挙権の行使をするチャンスを得た若干二十歳の私ですが…、今回早くも人生初の選挙権の放棄を選択致した次第であります\(^o^)/

つまり、<選挙には行かねえ!>ということです。
と申しましても、政治に全く興味がないということはありませんで、むしろ私は選挙に行くそこらの人たちよりもずっと政治好きである、と自負しております。
ちなみに今回も前回同様に、ちゃっかし各党のマニフェスト読んでおります。

そんな政治好きな私、今回選挙権の行使を放棄したわけでありますが、その理由は端的に申しますと、応援したいと思える政党が皆無だからであります。


まず民主党は、党首=首相を変更してしまった時点で、もうあり得ないです。これまでの自民党政権と同じことを繰り返すとは何事でしょうか?「事業仕分け」は私たちの税金の使われ方をオープンにする=<わたしたち国民が行政を監視する>ことへの契機を生む、という意味で評価しますが、その他に評価できる点が今のところまだ見当たりません。

次に自民党。論外です。後で詳しく述べますが、CMで谷垣党首が宣伝しているキャッチフレーズ(「日本を世界で一番幸せな国に!」)から窺える思い上がりには、目を覆いたくなる程です。早く河野太郎党首のもとでみんなの党あたりとくっついて、まともなアンチ民主党=新・自民党を作ってほしいです。

みんなの党は、民主・自民同様に信用していません。民主党同様にどうせ口先だけでしょ?って感じです。基本的な理念は支持できる部分もありますが、脱・官僚などと言ってると民主党の二の舞になる(行政マシーンの官僚が動かなくなる)ぞ、と言ってやりたいです。

その他の党も、特に投票する気は起きません。共産党公明党はまあアレですし、社民党国民新党は「いつまで55年体制の気分でいるの?」って感じですし、新党改革たちあがれ日本は「ハイハイ、お疲れさま」って感じですし…。


まあとやかく言ってきましたが、今回は民主、自民両党のキャッチフレーズと言いますか基本理念について感じたことを少し述べてみたいと思います。


まずは、民主党党首=内閣総理大臣菅直人の掲げる「最小不幸社会(国家)」について。
この理念に対して「何で最大"幸福"でなく最小"不幸"なんだ?ネガティヴか?」とか少しアホな意見もチラホラ見られますが、私はこの理念自体は支持しております。
この理念の根底には、<政治によって可能なことはなるたけ"不幸"を減少させることで、"幸福"とか"幸せ"とかは各人が日々の生活を通して個人的に育んでいくものだ。つまり、政治は、人によってそれぞれ異なる"幸せ"とか"幸福"などの感情・観念に立ち入ることはすべきでないし、所詮そんなことは出来もしない>といったような思想があると思います。そして私は完全にこの思想を支持します。当たり前のことです。
しかし、肝心の民主党の政策には、この素晴らしき理念が明らかに反映されていないので、民主党には投票しません。


これに対して、自民党のテレビCMで谷垣総裁が宣伝する「日本を世界でいちばん幸せな国に!」というキャッチフレーズ。
幸福実現党か!」と思わず突っ込みたくなるようなこのフレーズ。ここまで読めば、私がなぜこの発言を忌み嫌うのかおわかりでしょう。
「いやお前幸せにするとか言うなら、俺にカワイイ女紹介しろボケ!」って話です。まあこれは冗談ですが。
おそらくマーケットリサーチか何かインチキくさい調査でもして、「おい、今"幸せ"ってワードが若い人やお年寄りの間でキてるらしいぞ。」とかなって、「よし、じゃあ是非ともキャッチフレーズに使おう。」的なノリで採用されたのでしょうが、ハッキリ言って、20歳の若造から見ても、これはもう明らかに"浅はか"すぎます。
先に「自民党は論外」と述べたことの根拠の半分以上は、このキャッチフレーズにあると言ってしまっても過言ではないくらいです。


と、まあ11日のW杯決勝が楽しみで仕方のない、選挙に行かない私のささやかな政治ネタでした。

善悪の基準をぶっ壊す!! …なんちゃって。 ―中島哲也監督『告白』

ワールドカップに夢中になりすぎて、ブログの更新疎かにしてしまいました。しまった!という感じですね。まあ今日からチョクチョク更新していきます。


そうそう、先日、中島哲也監督の『告白』(2010年)見てきました。巷で大ブームで、もはや社会現象と化しているとまで言われている映画です。なんでも10代、20代の口コミで人気に火がついたとか。

原作は湊かなえさんによる短編小説で、2008年には本屋大賞に選出されています。そして映画版の監督は『下妻物語』(2004年)、『嫌われ松子の一生』(2006年)、『パコと魔法の絵本』(2008年)などの作品でお馴染みの中島哲也さん。上の3作品は全て私のお気に入りですので、『告白』も絶対面白いだろう、と非常に期待してました。

で見た結果どうだったかと言うと…、期待通りというか期待以上に面白かったです!!
そこで今回は、『告白』のどの点が良かったのかということについて、まだロードショー中なのでなるべくあらすじに触れないように気をつけつつも、2点述べたいと思います。浅い感想ですので悪しからず。



・善悪の基準の脱構築と問題提起
既存の善悪の基準(赦し=善/復讐=悪)を一回ガラガラポンしてから、最後には「で、君は結局どう思う?」というように、問題を考えるきっかけを観客に投げかけている点が、とてもよかった。
本作品は、基本的に、中学生という思春期の難しい年頃の若者の問題を扱っています。しかし、根底に流れる「復讐」というテーマは、特定の年代に還元されない普遍的なものです。『告白』は、そういうある種の普遍的なテーマについて考えるきっかけを与えてくれる作品としても、楽しむことができました。


・作品世界にグイグイ引き込む迫力満点なストーリー構成
見る者をどんどん引き込んでいく構成にも魅了されました。
おそらく、極端化したキャラ設定や場面設定や、語り手=「告白」の担い手の小気味の良い交代、そして語り手=「告白」の主体が複数あることによって与えられる複数の視点などが、私をグイグイ物語へと引っ張っていく要因となったのだろう、と思います。
そして主に10代と20代にウケている理由も、ここにあるのだと思います。



ともかく見終わった後は、「いやぁ、すごい!」「面白い!」と嘆息をつくばかりでした。
DVDで発売されたら、もう1度じっくり見て、もう少し込み入った感想を書きたいと思います。


告白」はすごい!

名作SFをケータイ小説風に読み替える ―S.レム著『ソラリスの陽のもとに』

昨日、スタニスワフ・レムの名作SF『ソラリスの陽のもとに』を読了致しました。
このレムさんという方はポーランド人のSF作家でして、20世紀最大のSF作家の一人とも言われているそうです。

ディックがそんなに好きならレムも読んだ方がいいと友人やAmazonさんに執拗に勧められたので、近所の本屋で買いました。
で、早速読んでみたらやっぱり普通に面白かった。
設定は<まさにSF!!>というに相応しいものだったけれど、決してSFのみの枠に収まらないような、SFファン以外が読んでも絶対楽しめる作品だと思いました。

なので、普通に感想を書いても良いのですが、少し嗜好を変えて、今回この名作SFを勝手にケータイ小説風に読み替えるという暴挙に出ることにします。(レムファンは怒らないでください、すみません。)



まずは、この『ソラリスの陽のもとに』のあらすじから紹介します。



主人公、心理学者のケルビンは、研究のためソラリスという惑星を訪れます。惑星ソラリスは、赤青の2つの太陽の周囲を回っているのですが、計算上ではどう考えてもどちらかの太陽にぶつかってしまう。しかし、ソラリスの大半を占める海が、軌道を修正しており安定した軌道を守っているのです。そうソラリスの海は生きているというのです。
そんな不思議な惑星ソラリスも発見から100年経った今、海の正体は未だにわからないままで、ほとんど研究が放置されている状態でした。
そしてケルビンソラリスで、(到着後まもなく発覚した前任者の死や、その前任者の部屋で見掛けた謎の女の姿、同僚の研究者たちが見せる不可思議な行動など)様々な不思議な体験をします。そして、その原因がケルビン自身にも襲いかかります。突然、10年程前に自殺したはずの元恋人ハリーがケルビンの前に姿を現したのです。
最初、非常に気味悪がったケルビンは、小型宇宙船に彼女を閉じ込めてそれを発射し元恋人の存在を抹殺しようとします。しかし、彼は、それでもなお再び彼の前に姿を現したハリーに対して、徐々に愛着を持つようになり、この元恋人との生活を楽しむようにさえなっていきます。
一方、次第にこの元恋人の存在が、実はソラリスの不思議な海が、ケルビンの記憶を読み上げ、それをもとに造り上げているものだということが判明していきます。そんな中で、ケルビンはハリーを愛する余り、同じような現象に悩まされている同僚らの「怪物」(ハリーらソラリスの海が人間の記憶をもとに造り上げた"偽"の存在)抹消計画を妨害します。
そして、彼とハリーとの幸せな生活がしばらく続きますが、ある日ハリーが突然姿を消します。なんと、自分がソラリスの海から造り上げられた存在=地球に行ってもただ消えてしまうだけの存在であることを知ってしまった彼女は、ケルビンの同僚に頼んで自らを抹消する道を選んだのです。
こうしてハリーを2度も!失ったケルビンは、二度と自分にかつてのような情熱が湧き立たないことを悟りながら、ひとり地球に還っていきます…。




では次に、早速この名作SFをケータイ小説風に読み替えてみましょう。




主人公のタクヤは、ある夜暇つぶしにSNSサイト「ソラリスの海」に登録します。「ソラリスの海」というSNSサイトは、数年前に大流行して情報社会学などで頻繁に研究の対象となっていたのですが、近頃はIDの重複化などの謎のバグが多発した影響を受けて、登録者数が僅か3人というほとんど閉鎖状態の過疎サイトと化していました。
ソラリスの海」登録数日後、タクヤは、いきなりメッセージを受けます。メッセージを見てみると、なんと数年前に死別したはずの元カノ、シズカからでした。タクヤは、相当気味悪がって、シズカをアクセス禁止対象にします。
しかし翌日、またアクセスを禁じたはずのシズカからメッセージが…。実は未だにシズカのことを忘れられてなかったタクヤは、思わずメッセージを返信してしまいます。
こうして、タクヤは「ソラリスの海」を通じて、シズカとメッセージのやり取りを頻繁に行うようになり、まるで付き合っていた頃に戻った幸せな日々を送っていました。
一方で、このシズカという存在は、「ソラリスの海」がバグを起こし、タクヤのIDから、過去のメールやブログなどのログを勝手に参照し、それらをもとに作りだした、言わば"偽"のシズカであることが、親友のカズらの手助けによって明らかになっていきます。(この物語の設定では、なんと日本は「共通ID制度」を採用しており、人々は、ある民間企業が一括管理するIDを用いて、メールやインターネットを利用しているのです!)
しかしその事実を知っても、まだシズカのことを忘れられないタクヤはメッセージのやり取りを続けます。
そんなタクヤの姿を見かねた、タクヤの親友のカズが、「ソラリスの海」の管理者にバグの報告をして、シズカの存在は消えます。
そして、シズカへの気持ちが再び強くなったタクヤはシズカの墓参りへと向かうのです…。




通学中は『ソラリスの陽のもとに』、夜寝る前は『ised』を読んで、極めつけに最近元カノから連絡のあった僕には、こう読めてしまいました!!
レムファンの方ホントにすみません。


『現代お笑い論 PART6』 ―動物化する<ポスト・第5次お笑いブーム>

前回(『PART5』)は、「1分間ネタ」=「ショートネタ」番組の興隆が、「一発屋芸人」的方法論(1.強烈なキャラ、2.あるあるネタ、3.決めゼリフ)を採用する芸人が増えると同時に、ネタにおける手数の増加=「ハイテンポ化」をももたらす、といったようなことを述べました。


今回は、そのことを踏まえた上で、視点を芸人から視聴者の側に移して、そもそもなぜ「1分間ネタ」=「ショートネタ」が視聴者にウケるようになったか、ということについて考えてみたいと思います。

まず、「キングオブコント」の仕掛け人でもあるTBSの合田隆信プロデューサーの発言を引用してみたいと思います。

ショートネタブームにはちょっと考えさせられますね。昔は一発ギャグと言えば、すかしネタというか、「一発ギャグ=ウケない」という前提でした。一発ギャグをやれっていうのは、滑れっていう意味でもあって、その滑った状況を楽しんでいたんだと思います。少なくとも5、6年前までそうでした。今は立派な一つのネタになっている。
(中略)
僕は以前、『ガチンコ!』とか押し付け一辺倒の番組をやっていて、「視聴者をテレビの前に座らせて、肩をつかんで押さえつければ視聴率を取れるんだ」と考えていました。でもテレビが一方的に送っているものを見続けてくれるほど、今の視聴者はお人好しではない。今はそういう圧力がテレビ番組から出ていると嫌がられます。ショートネタの流行はそういうことの表れだと思う。見たくない1分は見なければいい。でも、すぐに次の1分が来る。見て損はしないし、3人に1人、好きな人がでてくればいいからね。『爆笑レッドカーペット』は一つの典型でしょう。ショーケース的な芸人の出し方をしていてあまり押し付けがない番組ですからね。

※引用先=「『キングオブコント』の仕掛人、合田プロデューサーに現在のお笑いブームの本質をズバリ聞いた!」日経トレンディネット2008年10月29日)


合田さんは、テレビが一方的に送ってくる情報を視聴者が楽しむ時代が終わり、視聴者が自分自身で見たい情報を取捨選択をするようになったということを、「ショートネタ」番組が興隆した原因として挙げています。

この意見の延長として、「お笑いテクニック.com」というインターネットサイト内のブログページ「お笑いテクニック・ブログ」内の記事は、「ショートネタ」ブームの理由として、以下のように述べておりました。

最近のテレビの視聴率の低下は、インターネットや携帯の出現によるもので、ネットをしながら、携帯をいじりながらテレビを見るようになった(ながら見)からと言われたりします。どちらにしても、インターネットの出現によって、テレビという最大の暇つぶしメディアは、別のものに興味を奪われつつあるということです。
(中略)
つまり、フリを聞いていないと笑えないネタ(長いネタ)というのは当然笑えないので、他の番組を見るか他のことをする可能性が高くなる。そして、基本的に視聴率は低くなる。他に興味がいってしまう今は特にそれが顕著になってきた。で、視聴率やテレビの笑いのプロフェッショナルであるエンタの神様は試行錯誤の結果、ショートのネタが視聴率を取るということを見つけた。

※引用先=「ショートネタが流行っている本当の理由」(「お笑いテクニックブログ」2009年1月11日)


なるほど、この記事によると、インターネットをはじめとするオルタナティヴ・メディアの出現が、いわゆるテレビの"ながら見"視聴者を増長させており、テレビは、その新たな"ながら見"視聴者を獲得するために、フリが少なくても笑いをとることが可能で、且つ視聴者がその番組内で興味のある情報のみを選択できるような、「1分間ネタ」=「ショートネタ」方式を採用しているとのことです。


さて、この意見も十分核心をついていると思いますが、僕は今回、異なった視点から「ショートネタ」ブームの興隆を考察してみます。

ここで重要となるキーワードは「動物化」です。
動物化」とは、批評家・哲学者の東浩紀さんが『動物化するポストモダン ―オタクから見た日本社会』(講談社新書、2001年)の中で、ゴジェーヴの議論を批判的に検討しつつ、現代=ポストモダンの日本社会を語る上で「キーワード」になるのでは、と提案した概念であります。

はてなキーワード」にもある通り、「動物化」とは、他者の介在なしに各人が欠乏―満足の回路に閉じること=動物的欲求が、消費社会の発展に伴って機械的に満たされる状態が到来することを示しています。
かなり砕いた言い方をすると、「動物化」とは、あたかも食欲や睡眠欲を満たすかのような、他者との触れ合いを省いて即物的に満たすことのできる欲求が社会に全面化することです。


そもそも――第何次かを問わず――<お笑いブーム>自体が、人々が"笑い"を即物的に欲求しテレビを中心とするメディアを媒介にしてその欲求を動物的に満たすという意味で、「動物化」によって成立している、と言えると思います。

しかし、「ショートネタ」の興隆によって定義づけられる<ポスト・第5次お笑いブーム>というものは、他の<お笑いブーム>より一層進んだ視聴者の「動物化」を糧にしているのではないだろうか?これが、ここでの僕の問題意識です。

先に引用した「お笑いテクニックブログ」においても暗に指摘されていた通り、<第5次>以前の"笑い"というのは、フリが非常に重要視されていました。比較的長いフリがあってこそ初めてオチが生きる、という形式が芸人・視聴者双方の側で共有されていたのです。

しかし、2008年以降の「ショートネタ」の興隆は、フリを省いた(非常に短くした)"笑い"を全面化させました。詳しく述べると、強烈なキャラ・あるある系(ものまね)ネタ・(一発ギャグ的)決めゼリフ・手数の多いハイテンポネタといった要素がそれ=フリを省いた(非常に短くした)"笑い"を可能にしたのです。
ここに、視聴者の「結果笑えるなら、フリが(少)ない方がいいっしょ」といったような、ある意味非常に動物的な感性が窺えるのではないでしょうか?
同時に、このこと=「ショートネタ」の興隆は、視聴者の「"笑い"という欲求を動物的に充足したい」というニーズに対して、テレビ局や芸人が見事に適応した結果である、と考えられるのではないでしょうか?

以上の考察は所詮印象論にすぎないので悪しからず。(自分でもまだよくわからないので、反論コメントなど待っています。)


動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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『現代お笑い論 PART5』 —「1分間ネタ」への順応=一発屋芸人化?

前回(『PART4』)は、2008年にレギュラー放送がスタートした「レッドカーペット」を中心とする「1分間ネタ」の興隆により、お笑いブームは新たな局面を迎えた、ということを述べました。つまり、「1分間ネタ」が<ポスト・第5次お笑いブーム>の扉を開いたのです。

またそこで、「1分間ネタ」番組が興隆すると、<第5次お笑いブーム>における「一発屋芸人」的方法論(=強烈なキャラ+決めゼリフ→強烈なインパクト+笑い)を採用する芸人たちが圧倒的に増えるのではないか?といったような仮説も提起しておきました。

そこで今回は、上記の仮説を確かめてみたいと思います。



まず、「1分間ネタ」番組によって人気が出た/知名度が一気に上がった芸人を列挙してみます。


小島よしお、鳥居みゆきはるな愛世界のナベアツ狩野英孝柳原可奈子、天津木村、我が家、ナイツ、オードリー、はんにゃ、しずる、フルーツポンチ、U字工事ジャルジャルザ・パンチモンスターエンジン、Wエンジン、フォーリンラブ、超新塾、響、ハイキングウォーキングエハラマサヒロ、ピース、ものいい、ハライチetc.


大まかに彼らのネタを抽出し類型化すると以下のようになると思います。


1.強いキャラを生かしたネタ
 ex.)小島よしお、オードリー、はんにゃetc.


2.あるある系(ものまね的)ネタ
 ex.)柳原可奈子エハラマサヒロetc.


3.(予定調和的笑いを生むための)決めゼリフ
 ex.)天津木村、響、モンスターエンジンetc.


4.手数の多いハイテンポネタ
 ex.)ナイツ、超新塾、ハライチetc.



もちろん、上記の類型はそれぞれ独立しているものではありません(例えば、フルーツポンチは1と2、Wエンジンは1と2と3の複合など)。
また3は、ほとんどの芸人が用いていると言っても過言ではないでしょう。


さてもうお気づきの通り、1〜3は、<第5次>における「一発屋芸人」的方法論とほとんど同じものであります。
このことから、先の仮説(=「1分間ネタ」は、かつての「一発屋芸人」が用いてた方法論の興隆をもたらす、という仮説)は確からしいと言えると思います。

しかし、ここで注目してほしいのは、4の「手数の多いハイテンポネタ」です。
近年、特に漫才の世界において、この「手数の多いハイテンポネタ」を採用する芸人が増えており、実際彼らが「本格派」や「正当派」などと呼ばれることが増えています。

ここで近年(2007年以降)の「M-1」のベスト3を見てみましょう。


<2007年>
優勝 サンドウィッチマン
2位 トータルテンボス
3位 キングコング


<2008年>
優勝 NON STYLE
2位 オードリー
3位 ナイツ


<2009年>
優勝 パンクブーブー
2位 NON STYLE
3位 笑い飯


2008年2位のオードリーを除いて、いずれも非常にテンポが速く、ボケの手数が非常に多いネタを特徴としています(特に、近年毎年優勝候補に挙げられるナイツは、1つのネタ(3分間)中に30回以上ボケる、とも言われています)。
また、2007年の上位3人より、2008、2009年の上位3人の方が確実にボケの手数が増えているように感じられます。


このように、「1分間ネタ」は「一発屋芸人」化を加速させる一方で、漫才の「ハイテンポ」化も加速させている、と思われます。

さて次回は、そもそもなぜ「ショートネタ」が流行っているのか、ということについて述べたいと思います。

ほんの少し間に合わないことの"切なさ"について —是枝裕和監督『歩いても 歩いても』

先日レンタルしてきた是枝裕和監督・脚本の映画『歩いても 歩いても』(2008年)を見ました。是枝作品は『誰も知らない』(2004年)に続き2本目です。

この『歩いても 歩いても』。とってもいい作品でして、思わず2日連続で見てしまいました(そして2回目の方がより楽しめました!)。

そこで今回レヴューというか批評というか、まあ感想的なものを書きたいと思います。



まずは、超簡単なあらすじの紹介から。


夏の終わりに、横山良太(阿部寛)は妻ゆかり(夏川結衣)と息子あつし(田中耕平)と一緒に元開業医の父(原田芳雄)と母(樹木希林)のもとへ久しぶりに帰郷します。元気いっぱいの姉(YOU)一家も両親の家に訪れ、家族で久しぶりの時間を過ごします…。
作品の中で終始展開される極めてリアルでかつ自然体な会話から、横山一家の各々の人間性や過去、現在、そして家族間の微妙な関係性といったようなものが見えてきます。
そして、帰りのバスの中で、母が思い出せないと言っていた相撲取りの名前を思い出した良太が一言。


「いつもほんの少しだけ間に合わないんだよな。いつもそうなんだ。」


これといって強いストーリーのない、どこにでもいそうな家族の姿を描いたこの作品を一言でまとめてみました。そんな言葉です。




次に、『歩いても 歩いても』見て何を感じたか、ということについて2点述べたいと思います。

まず1点目は、役者の方々による自然な演技についてです。

僕が役者の演技について語るのは100年早いなどということは重々承知の上で言うと、皆、何気ない会話を何気なく演じていて素晴らしかったです。
原田芳雄さんと樹木希林さんの夫婦役はホントにハマっており、特に、樹木希林さんの、老いを感じさせる何気ない表情には思わずホロリときてしまいました。
阿部寛さんと夏川結衣さんは(『結婚できない男』以来大ファンなのですが)やっぱりいいコンビです。阿部寛さんが"普通の"役、変人じゃない役を演じているのが逆に新鮮でした(笑)

基本的に家族間の会話に焦点を当てるこの作品において、ストーリーに"厚み"を持たせたのは、演出家の技、背景に流れる音楽、カメラワークはもちろんのことですが、個々の役者の繊細な演技だったのは指摘するまでもないでしょう。キャストの妙というヤツですね。


2点目は、この作品に終始つきまとう"切なさ"についてです。もっと詳しく述べると、<「歩いても歩いても」決して縮まることのない差異が織り成す関係性>=<「ほんの少しだけ間に合わない」関係性>がもたらす"切なさ"についてです。

久しぶりに集った家族間で交わされる日常的な会話や表情から窺い知ることのできる微細な"ズレ=差異"。そして、決して埋まることのないその重層的に形成された微細な"ズレ=差異"が生み落とす、何とも形容しがたい"切なさ"。
もちろん、その"ズレ=差異"が"おかしさ"と成るシーンもあるのですが、その"おかしさ"もどこか"切なさ"を伴う両義的なモノでした。


きっと誰もが抱いたことのあるこの気持ち。"切なさ"を、今回この映画を通して再び感じたのでした。



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