2011-11-07
■「幸福論」の系譜の末尾に付け加える蛇足
「幸せってなんだっけ、なんだっけ?」というバカげたCMソングが以前よくテレビから流れて来て、イライラしたものだ。しかし、古来、「幸せ」とはなにかについて、偉大な哲学者たちがそれぞれ、立派な説を唱えて来たのもまた、事実であるようだ。
いままで、そうした「幸福論の系譜」について調べてみようとすら思ったことがなかった。苦労の多い貧しい人生だ、などと自分では思っていても、その実、幸福に飢えていない、つまりそこそこ恵まれている、ということかもしれない。
いまの時代はウィキペディアという便利なものがある。アテになるのか、その場合の「アテ」とはどのような基準で言われている事なのか、というどうでもいい議論はさておき、ウィキペディアには「幸福論」という項目がある。
これをものすごく乱暴に3つにまとめると以下のようになる。
1.人間として、欲望を満たすだけの快楽より高次の満足をもとめ、それが実現できたときに感じる充足感。自分が約に立つ存在であるという自覚(アリストテレス、ラッセル)
3.万事をあきらめて平静な心の状態を得ること(エピクテトス、ショーペンハウエル、アラン)
今日、ビジネス的な文脈で言われるのは、1ではないだろうか。曰く、「自分はなにかの役に立っている」という「有用感」が、人に働くモチベーションを与える、と。
わたしは夏休みに旅行に行ったタイのチェンマイのリゾートホテルで、プチブルジョワ的に優雅な朝食をとりながら煙草を吸い、追いつ追われつするつがいの蝶の軽やかな振る舞いを見て、まったく別の事を考えたのだった。
「コイツら、いま、幸せなんだ」
蝶は動物だから、繁殖するために交尾する相手をとらえようとしているのだ、という者もいるかもしれない。
しかし、蝶たちの振る舞いには、愛や性の重さがなかった。
老子は、遊ぶ子供の振る舞いに世界の真理を見たというが、それは(それこそわたしが言うまでもないことだが)慧眼だと思う。おそらく、本当にそんなものなのだろう。
遊ぶ子供。きまぐれ。確率的。目的なし。無軌道。
しかしわれわれは、遊ぶ子供、だけでなく、遊ぶ動物たちの姿から、もう一つ別の旋律を聴き分けるべきなのではないか。
遊んでいる子供は、遊んでいる動物は、そのとき、幸せなのだ。幸福の、本来の意味は、「わけもなく楽しい」ということにあるのではないだろうか。
いや、このような言葉の重さとも縁がないほどに、とらえようもなく軽く、自覚もない、奇跡や偶然のような心のありよう、存在/非存在のありよう、なのではないか。
もうひとつ言えるのは、子供も、蝶も、なにもかんがえていないわけではない、彼らにも知性がある。でもときに、不意に遊びがはじまり、幸福が訪れる。だから、多くの文学がイデオロギーであるかのように異口同音に訴えて来た意思阻喪、エクスタシーを、幸福と混同するのは誤りだということだ。
話は飛躍するが、カフカが、あるいはツェランが許せなかったものとは、ユダヤ的なものから文学を、つまり言葉を操る遊びで「幸せ」を引き出してしまった自分なのかもしれない、とふと思った。
2011-08-11
■動物の視線
震災からちょうど5ヶ月たったわけだが、それとはほとんど関係なく、動物、それから創造、ということについて書く。
2年ほど前から、小鳥を飼っている。1羽2000円ほどのセキセイインコの雛を、2人の息子それぞれの所有権を認めつつ買って育てている。
それ以前には、自分に取って動物といえば、まず猫だった。幼少のころから数えれば、何匹の猫を飼い、失って来ただろうか。猫は通常なら10年以上の寿命があるはずなのだから、思えばひどい話である。
最後に飼ったのは、目白通りの車道でうずくまっていた、手のひらに載るほど小さな、やせ細った子猫を拾い、育てた猫だった。
わたしはこの猫の人柄、というか猫柄を、ほとんど尊敬していた。
猫を飼ったことがある人なら誰でも気づくことであり、ある意味当然のことだが、猫には個体差があり、それぞれの性格、度量、といったものがある。ひどく臆病な者もいれば、気性の荒い者もいる。
この拾い猫は、感情の豊かさもさることながら、寛容さ、といったらいいのか、落ち着きといったらいいのか、些細な事に動じず、それでいて同居している人間の感情を慮る心遣い、というものを心得ていた。
動物を飼う、という行為自体、人間中心的で傲慢な行為である。
震災のおりにも、論争の種になったものだ。
曰く、なぜ豚は殺して喰うのに、犬猫を救おうとするのか、と。
これは、まことに遺憾ながら、正しい考え方だ。
「かわいいから」というのは、理由としてお粗末すぎる。
犬猫に感情があるとすれば、おそらく、牛にも、豚にも、感情があるはずだ。かわいそう、というなら、すべての生きとし生けるものがかわいそうだと言うべきなのだ。
…などと威猛々しく語る資格は、わたしにはないのだろう。
話が脱線してしまった。鳥の話をしよう。
鳥を飼ってみて思うのは、これほど小さな生物にも、感情や知性がある、ということだ。
楽しいときは喜ぶし、機嫌を損ねることもある。
その点では、人間と変わらない。
そしてわたしの家族は、セキセイインコでは飽き足らず、西アフリカ原産のヨウムを飼おうかと数ヶ月前から検討しているのだから度し難い。
ヨウムは鳥類のなかでも特に知能が高く、人間の言語を理解し、よく話すことで知られている。
天才として有名な(という形容は少々ばかげているが)アレックスというヨウムは、死の前日、「You be good. I love you. You’ll be in tomorrow(またね、明日ね、愛してる)」という言葉を飼い主に語ったと伝えられている。
ちなみにヨウムの価格は20万円ほど。子犬より高いので驚く人もあるだろうが、ヨウムはポピュラーな鳥なのでこんな値で取引されているが、
こんなことは、鳥を飼っていない人には、どうでもいい話かもしれないのだが、要するになにを言いたいかというと、言葉を話す、感情をもつ、なにかを創造する…そういう人間を定義づける、人間特有の能力とされてきたことがらは、なにも人間に限ったものではない、ということだ。
2010-12-10
■終わりであり始まりである死
4日前に、父が死んだ。
病室で、わたしにとっての固有の、唯一無二の存在、唯一無二の肉体、精神、魂、そうしたものが、少なくとも目に見える形では活動しなくなるのを眼前に見た。
医師の指先が父の上下の瞼を開き、手にしたライトで眼球を照らし出した。
わたしは、父の開いた瞳孔を見た。
父のそばにいた姉が後で語った言葉によれば、虫の息だった父の身体につながれた機器が心停止を告げる発信音を上げ、ほんの数分前に控え室に休みに行った父の配偶者(実母は30年前になくなっている)をわたしが呼びに走った1分足らずの間に、容態の悪化後1日かけて徐々に閉じられていった父の瞼が一瞬、大きく見開かれたという。
遺体にとりついた、父の配偶者の痩せこけた背中が震え、皺のよった両手が、父の普段と変わらぬ寝顔を撫でていた。
「息するの、やめちゃったんだ?」
彼女は、何度かそう問いかけていた。
彼女は、10年以上の間、自宅で夫の介護を続けて来た。
日々の絶え間ない注意、努力、労働によって、栄養を与え、病気の感染を防ぎ、具体的に維持し、生かして来た夫の肉体が、10何年かの間、それに向き合って戦い、遠ざけ続けていた状態ーー「問いかけに答えない」状態に陥ったにもかかわらず、その肉体が生きているときと同じようにただ、手のひらでその顔を撫でさすることしかできなかったのだ。
「固有の、唯一無二の存在には、固有の、唯一無二の死が与えられるべきではないのか」
そう問いかけてみても、死は「問いかけに答えない」という否定形の、受動的な、無名の状態でしか現れる事はなかった。
固有の死ではなく、「死」一般、「喪」一般について語ることは痛ましい。
喪をフランス語ではle deuil、という。語源は、「器具」「仕掛け」「(法学上の)故意」、転じて「策略」「ごまかし」を表すラテン語、dolusだという。le doleur(痛み)と同語源だ。それが10世紀にdol、12世紀に二重母音化によりduel、複数形は無声化によりdueus/deuzという形になり、眼(oeil/yeux)と同様の規則により現在の綴りになったらしい。持ち物を掠め盗られた苦しみ、痛み、ということだろう。
一時期、「対決」を意味するduelと同形となったのは偶然だろうが、しかし、この「一対」というもうひとつの響きから、喪の、二重性について考えたい。
固有の存在を失うと同時に、固有の喪、固有の痛みが始まる。
固有の生は、死ぬことで、固有の喪、固有の「不在」、固有の痛みを生み出すのだ。
死と生、終わりと始まりを表裏のものとし、生と死を貫くこの固有性を、「魂」と呼びたいと思う。
だとすると、「魂」は、生まれようとしている/死なんとしている、という二重のありようを持つことになる。
魂は、永遠に、現れようとする可能性と失われようとする可能性を同時にもつ、つまり不滅であると同時に不在の中でしか触知することのできない、固有のなにかとも言える。
だからこそ、人は、かけがえのない唯一無二の魂と向き合うことによってこそ、永遠と死について、なにかを学びうるのだ。
2010-03-09 「他者」に、会いに行く
昨年末、米国発の某ビジネス系SNSを経由してヘッドハンターからアプローチがあった。
彼の紹介で、某欧州系グローバル企業の面接を受けるハメとなり、その最終面接があと数日に近づいている。決まれば、3週間の欧州数カ所での研修の後、日本法人での着任、となる。
なんだが雲をつかむような話だ。
金融関係のビジネスマンにとっては、ごく当たり前のことかもしれないが、旧来的な、因習的な、呪術的な(?)業界にいるものにとって、魑魅魍魎が跳梁跋扈するところのグローバル世界に飛び込むのは、正直、目もくらむほどのリスクを冒す思いだ。もはや転職というのも甚だお恥ずかしい年齢(昭和40年代前半生まれ^^;)だし。
米国系外資系企業につとめていたある知人はつい先日、「明日から来なくていい」と一ヶ月分の給料だけを渡されて叩き出されたという。ましてや、ギリシアの危機に揺れる欧州系企業って、大丈夫なのか?
大前研一先生の「EUは、戦力によらず、話し合いによる規律づくりによって版図を拡大した人類初の試み」(本が手元に見当たらなくてメチャメチャな引用です。あとで直します^^;)というようなご指摘を、まともに受け取って、EUの未来に賭けてしまっている自分って。。。
ちょうど2年前、以前の部署での幹部合宿の際、「世界は変わった。コミュニケーションの形が変わった。ヒエラルキーの時代が終わり、ネットワークの時代になった。社会的なパラダイムシフトに対応できるように、組織を『民主化』すべきだ」と、景気よく一説をぶち上げてから、ほんの2週間後に異動(しかも異動先は白紙^^;)を言い渡された。
いま思うと、ビジネスの場で「民主化」は禁句だよなー。いまさらながらに、自らの浅はかさに閉口せざるを得ない。明らかにやりすぎだ。
そして振り返ると、そのときにもう、自分で「禁断のダイヤル」をグルっと回してしまっていたんだな、と思う。
いま、身の回りで起こりつつ在る変化は、「デジタル化」とかそういう小さい話ではなく、池田信夫先生なんかがおっしゃるように、「地縁的な社会」から「契約社会」への、100年くらいかかるかもしれない、血で血を洗う大激動の、ほんの端緒の部分なのだと思う。その端緒に喜び勇んで、先走って首を突っ込むのは、やはり物好きのやることだ、という気がしてならない。
息子たち、奥さん、「他者」に、「未来」に、なにか大切なものを賭けようとしているアホなとーちゃんを許してください。
ま、落ちたら落ちたで「ほっ」とするのかな、なんて思うのが最悪なんだけど^^;
まあ、ヘッドハンティングだなんて『雲』の上のようなお話。
文章からうかがいしれるバランスのよい知性と感性があれば、採用不採用とは無関係に生活を深く吟味され、いかなる場所境遇でも今と同じく心豊かに暮らしてゆけるように思えましたよ。
「unaccompanied」さんのブログのほうにこのコメントを書かせていただこうと思ったのですが、ブログ(というかアカウントそのもの)を削除してしまったんでしょうか? 見つけることができませんでした。いろいろとアレ気なhatenaからブログを引き上げること自体はよくある話(おいおい^^;)なのかもしれませんが、「unaccompanied」さんが本ブログのほとんど唯一の支持者だったので(世界中でただひとり、という恐ろしさ^^;)、すごくショックを受けました。もちろん、また気軽に読みに来てくれているとしたら、望外の幸せですが。いずれにしても、「ご支持、ありがとうございます」のひとことです!