そらを自由に飛びたいな

おっさんのぼやきです。

不安を煽るものから距離をおく

古今東西

歴史をさかのぼってもさかのぼらなくても

人類史は争いばかりである

 

争いは当事者じゃなくても

その火種がこっちに飛び火しないかと不安になる

そうして人は危ないことから距離をおく

 

しかし距離をおいている人を追いかけてきて

「まだ危ないよー!どうなるかわかんないよー!」

と煽る存在がある

これは特定個人であることもあるけど

そういう仕組みで動いてる組織なんかもそう

 

「都会の夜は危ないからね」と助言する老婆は善意で言っている

「東京都で事件が発生しました」と告げるテレビ番組は使命感で言っている

よかれと思って言っている

 

でもそういう助言自体が不安になる

疲れている時なんかはとくに

 

今日か明日

あるいは一年後にのっぴきならない状況になるのか

ならないのだとしたら

いったん距離をおいてみる

 

少し離れて

自分よりドタバタする人たちを眺めれば

少し落ち着く

 

落ち着いたらまた戻ればよい

心の旅行みたいなものだ

 

そんなときにちょうどいいのが物語である

物語は心をここじゃないどこかへ連れて行ってくれる

小説でも映画でも漫画でもドラマでもなんでもいい

 

物語を作るのもいい

5・7・5の文字に季語を加えれば物語になる

丸を描いて丸の中に3つの点を打てばキャラクターの顔になる

そのキャラクターはどういう人だろうか

 

心の旅行を楽しもう

いつか戻ってくるために。

空と君の間にモノがある

読み物や音楽など形のないモノとのつながりは希薄なので

形のあるモノ、例えばキーホルダーやタオルなどが欲しくなる

ここにある何かがほんとにあるか不安だから皮膚に墨で刻んじゃえ、みたいなのも類似だと思ってる

見えないモノが怖いから見えるものに変換しようとする

変換できている、と思うことで不安は減る

 

 

反面。

形あるモノは誰でも触れることができる

ハサミが置いてあれば誰だって使うことができる

「よくも私のハサミを使ったな!許さん!」

みたいな怒り方をする人はあんまりいない

誰にでも使える

だから関係を感じるために誰にも使えないモノがほしくなる

 

 

谷川俊太郎さんの本で(たしかほぼ日が出したと思う)

「我が子が死の概念を知ったようで『死ぬのが怖い』と泣きます、なんと答えれば良いでしょうか」

みたいな質問があり

「『怖いね』と言って一緒に泣いてあげてください。泣きつかれたら温かいミルクを一緒に飲むといいです」

というのがある

 

 

一緒に泣くのは形のないモノで

温かいミルクは形のあるモノだ

両方あるといいよね

 

 

という話

ドアを開けようとする猫の徒労と人類ガチャ。

暗めの話を書く。

 

ーー

 

我が家では、猫は夜間、専用の部屋(猫部屋)で寝てもらっている。

我が家の猫の朝は早い。早すぎる。

なので、人の安眠のために、部屋に閉じ込めている。

 

毎朝、猫部屋から、ドアをひっかくガリガリという音がする。

それでドアを傷つけられると、安くない修繕費を支払う羽目になるので、防護用にプラ板を貼っている。

なので、正確にはガリガリではなくカスカスという爪が滑る音がしている。

 

んで、その音がしようとしまいと、自分は起床アラームまで寝てる。

起床アラームのあと、起きて開けている。

つまり『猫部屋のドアが開く』のは起床アラームが鳴るからだ。

 

でも、猫視点で見れば「プラ板をひっかき続けるとドアが開く」ので、毎朝、ひっかき続けてるのだろう。

メタ的に言えば、無駄だ。

けれど、ひっかき続けるので人に「ああ、開けてほしいのだな」とは伝わっている。

 

 

こんな感じの無駄を、多分、人類もたくさんしているのだろう。

例えば、世の中にはすごいことを達成した人が少なからずいる。

1万人に1人とか、10万人に1人とかそういう割合で。

 

そういう人と、自分に何の違いがあるのか、を考える。

才能、努力、環境、様々な要素で違う。

じゃあ、自分には、才能、努力、環境は何も整ってないのか、と言えば、そうでもない。

だとすると、結局のところは運だ。

自分の体力や環境の中で、できる限りの努力をして、あとは運を天に任せる。

そういう生き方をしていくしかない。

 

1日24時間のうち、23時間を寝て過ごさねばいけない人もいるだろう。

文字を読み続けると頭痛がする、という人もいる。

その中で、その人なりに、一日一日を精一杯生きていく。

その結果、1万人に1人とか10万人に1人の割合で「すごいことを達成する人」が出る。

 

これはもうガチャだ。

SSR(スーパースペシャルレア)がすごくて、C(コモン)はすごくない」という話とは別の話として、「SSRが出るまでガチャをし続ける凄さ」の話がある。

 

 

人類全体のハードルとして「もっと長生き」「もっと健康に」といった壁がある。

その壁を突破するのが、誰であろうと、誰かが突破すれば、それ以後は人類全体に恩恵がある。

そのための、ガチャ券が、一人ひとりの人生なのではないか。

だとすれば、SSRではない自分の人生もまた、いつかSSRを出すために必要なことなのかもしれない。

 

 

もちろん、この考えも含めて『結果的にドアが開いただけで、君がひっかいてる行為は全部無駄ですよ』ということもありうる。

ーー

 

先日、どなたかの投稿で「推し活なんてのは、本来、自分の家族に向けるべき愛情を、他人に取られてるだけだ」みたいな話を見かけた。

 

そういう見方もできるかもしれないけれど、自分としては、推し活だろうと、自分磨きだろうと、すべての努力は『結果的にドアが開く』につながってるんじゃなかろうか、と思ってる。

 

いや、「信じていたい」のかも。

あの舞台をまだ覚えてるなあ

中年の昔話。

 

先日、故郷で、演劇の大きなイベントがあったそうな。

詳しくは知らないけど、ニュースになるような大きなトラブルもなく無事終わったそうな。

(知人の劇団も出演してたようで、その情報発信経由で知った)

 

そんな演劇イベントをさかのぼること、15年。

2007年とか8年ぐらいだったと思うけど、その頃にも一度、田舎町で演劇舞台があった。

演目は『笑の大学』、三谷幸喜脚本で、演者2名による会話劇。

美術も必要なくて、机1つと椅子2つあれば成立するという費用的に優しい演目。

(ってことは必然的に、舞台クオリティ=演者の力量、になるので難易度の高い演目だと今なら分かる)

 

劇団は結成したばかりで、団長さんは名前を失念したけど、東京で演劇をされてた方、とパンフに書いてあった気がする。

東京で演劇の経験を積んで、故郷の町で劇団をたちあげて、メンバーも地元で集めて「この町に演劇文化を」といったことが書いてあった記憶がある。

 

自分は、三谷幸喜ファンであり、演劇舞台も興味があったので、見に行った。

地元の文化会館で、客数は演者の知り合いであろう10人ぐらい。ガラガラだった。

自分は舞台がよく見える中央の席を陣取った。

 

舞台は、役者2人の力量のギャップが埋まっておらず、迫力の不協和音が約2時間続くという内容だった。

当時の自分ですら「これは脚本が」「時間が」「演者は」などなど色々と気づく点があった。「でも、気づいていてもどうにもできなかったんだろうな」と察した。

『ダメなところを見つける』能力と、『それをどうにかする』能力は別物だからだ。

 

見つけたからにはなんとかしたい、と思うのが人情だと思う。

けれど、なんとかするには、ヒト・モノ・カネの壁が立ちはだかるし、毎回それをクリアできるわけではない。っていうかクリアできないことの方が圧倒的に多い。

 

舞台のアンケートに「次を楽しみにしてます」と書いた。

でも、何年たっても次の舞台はこなかった。

その初回公演のみだった。

 

今、故郷の町とその周辺は演劇で盛り上がっているらしい。

検索してみて気づいたけど、演劇の学校などもできているらしい。

もしかすると、何年か後には自分が仕事先で自己紹介をした際に「ああ、あの演劇の」などと反応をもらえるかもしれない。

故郷を指して『文化的要素が一切ない町』などと言えなくなるかも。

 

あの団長さんは、今はどうしてるのだろうか。

熱量あふれる演技で今も役者をされてるのだろうか。

元気でいてくれるといいなあ。

 

と、そんなことを思い出した。

ヘルプ依頼を本人にさせちゃいけない

結論を先に書くと

「許容量を超える作業に追われているとき、本人からのヘルプを待っていてはいけない。本人にヘルプを出せる余裕がない場合もあるからね」

という話です。

残りのテキストは例示と解説と苦情です。

 

例えば、両手に荷物をいっぱい抱えてる人がいたら、その人は、歯を食いしばって重量を支えてるわけで、「たすけてー!」と声をあげることも出来ないんですよね。

それは周りの人が「あ、やばいぞ、あの人」とヘルプに入る必要があります。

 

コレに対して『いや、「助けて」ぐらい言えるだろう』という意見については、もちろん当てはまる場合もあるのですが、『当てはまらなかった時』を考えると、さっさと周りが助けに入ったほうがいいですよね。

 

「困ったときは、本人が声を挙げるべきだ」みたいな話は、リスク管理の視点からすると『本人が声を挙げられない場合も考慮すべき』となります。

 

んで、これは仕事でも私生活でも似たようなことが言えます。

 

 

『限界ギリギリまでやって、駄目だったら言ってきな』みたいな助言をする上司とかボスって世の中多いんですよね。

少なくないとかじゃなくて、めちゃくちゃ多い。圧倒的。

 

 

でも、限界ギリギリまでやると、人間ってだいたい、法的にギリギリなことまで手を出すんですよね。ギリギリというかアウトなんですけどね。

もちろん、上司やボスは「そこまでしろと言ってない!」て被害者ぶるんですけど、Youの指示はそういう解釈されるんだよ、って話で。

 

 

外野から見て「この人ちょっと不安だな」と思った時点で、観察なり始めたほうがいいですよね。

ほら、ドラマに出てくる『できるボス』も、割とすぐすぐ部下を呼び出して「動きがないか見張れ」みたいなこと言うじゃないですか。

あの危機感を、部下の仕事内容に対しても持ってほしい。

 

ただ、本人が「今はがんばりたい!」みたいなことを思う時期やタイミングもあるので、そういうときは「じゃあ、頑張ろっか」と少し離れて様子みとけばいいです。

 

って話を以前、某企業で話したら、社長さんが「なるほど!では、私も『頑張ろっか』って社員に声かけて回りますね!」って真顔で言い出したので、曖昧に笑って去りました。

それはパワハラっつーんだ。

人生をゲーム感覚にすると、うまくいくのか?

「覆面ビリオネア」という動画を最近見ている。

https://www.youtube.com/playlist?list=PLgMKK0HeoFAWiK7354ESh6XaE3KGgdC2G

www.youtube.com

 

成り上がりの億万長者(55歳)に名前も経歴も隠してもらって、90日間の期限内に、資金100ドルから、100万ドルの(価値があるとみなされる)事業を作ってもらう。
というゲーム。

『実家が太くないと成功できない』『成功するには生まれつきの条件が必要』みたいな通説に対する反論として、挑戦するらしい。

今4話ぐらいまで見た。(全8話)
見終わってから感想書こうかと思ったけど、途中で書いた方が頭の整理になる、と思ってこれを書いてる。


今のところまでで、
・生活を安定させるための一定資金(千ドル)を稼ぐ。
・アパートを借りる。
・事業の参入業界を決める。
・人を集めてチームを作る。
・事業のスタート時の姿と展開プランを決める。
・開業用の資金(4万ドル)を稼ぐ。
といったところ。

主人公は経営者としては経験豊富なので、このへんの大きな流れには迷いがない。当たり前のように「まずはコレをする」と行動を始める。
行動が早いので、ものすごく多くの選択を迫られるんだけど、それにも即決していく。
期間が90日間と短いから「選択が正しいか」より、いかに「止まらないか」を優先しているのかも。

臆病さをカケラも感じない。バンバン即決して、どんどん失敗する。失敗するんだけど、「次はアレだ」と行動していく。
これは魅力的に映る。

とにかく、行き当たりばったり感がすごい。
「調査」を自分ではあまりしてないように見える。
スマホで調べ物をしていたのは、最初のフェイズ「生活を安定させるため」のあたりぐらいで、事業関係の調査は、全部専門家や他人に任せている。

それは例えば、中小企業開発支援センターの人たちだったり、チームの仲間だったり。
途中、「人を集める」のフェイズで、パソコンで求人広告を出す際におぼつかない手つきだったから、もしかすると、パソコンはそんなに得意じゃないのかも。
自分が得意じゃないと分かってるから、他人に思い切って任せてるのかも。それもすごいことだけど。

ただ、これらの決断の早さや、他人の調査に全幅の信頼を置く心境の、ベースとなってるのは、「本来は億万長者だから」という立場のおかげだと思う。そのおかげで、客観的に今の自分をゲームの駒として見れる。

『AかBか、外したら、今後60日間は狭い車で寝る羽目になります』みたいな選択だったら、この人ももっと悩むんじゃないかな。
みたいな意地悪を思った。

裏を返せば「自分をプレイヤーではなく、ゲームの駒だと思って」行動をすれば、人生うまくいくかも、って話でもある。
(それができれば苦労は存在しない)


今の所、書きたいことは以上です。
見終わったらまた書くかも。

人が死なないゲームやりたいね

というわけで、スタデューバレー遊んでる。

 

難易度ゆるゆるの栽培や牧畜やりながら、村人と仲良くなって結婚して、子ども産んで、みたいなゲーム。

大きな特徴としては、同性婚が普通にある点。

 

システム的には、単に主人公の性別に構わずイベント発生させてるだけだろうけど、『性別によらず同じ反応をする』てのは、フェミニズム的には理想だよな、と思ったりする。

船乗りウィリーの依頼で船をタダで直してあげたのに、乗るたびに船賃を取られるのが釈然としない。

けど、淡々としながらも積み木を一つずつ重ねていく感じがとてもメンタルに良い。

 

ファイナルファンタジー16は途中でやめてしまった。

アクションは面白いんだけどね。

なにかあると味方がすぐに血を吐きながら「まだ戦える!」みたいなこと言う。

でもプレイヤーの自分としては、死んでほしくないわけですよ。

主人公は、主人公特性で絶対死なないマンなので、全部主人公に任せてほしいけど「あなただけに背負わせはしない!」とか言うし。

もう、どうしたらいいのー(小さな丸窓から嘆いてエンド)

 

同じく、人が死にそうな漫画としてドリフターズの新刊が出ました。

歴史に名を残す戦士や軍師を集めて、紅白戦やったらどっちが勝つか、みたいな物語。

みんな、死ぬことを恐れない。

すぐ殺すし、首を狙うし、同じことをされることを覚悟してる。

でも、誰も死んでない。

主人公以外は割と死に場所を選んでるところがあって、全然死んでない。

なお、雑兵はばんばん死ぬ。

強い人が「しねー!」て叫ぶだけで軍団がふっとぶ。(誇張表現)

楽しい。

死に方を選ぶ姿は、そのまま生き方を選ぶ姿でもある。

勝ち負けによらず、死に方を選べる物語は希望がある。

 

あと、全然関係ない話するけど、

恵比寿駅(東京)て、自販機多いくせになんでゴミ箱ないの?治安の悪い街だな。

 

その点スタデューバレー村は、ゴミ箱をあさるライナス君が「俺はワイルドなんだ」とか言うときもあれば、「クリスマスに混ざりたいが俺は歓迎されない」とか不安定で、こいつにスパゲティを食わせたいんですが、いいですかね!みたいな気持ちになる。だが、同居はしないぞ。

 

さてアイスクリーム買って帰ろう。

久々に都会らしい都会に行って少し疲れた。

おや酢味噌。